「文々。異聞録」 Epilog















 幻想郷は130年余の間、外界と大きな接触をすることなく特有の発展を遂げてきた。
  精神分野に於いての発展は目まぐるしく、
  独自性を保ちながらも他分野に貢献しているのは、幻想郷に住む誰しもが知るところだろう。

  それと同様に外の世界の発展も凄まじいものがある。

  特に科学と情報の進化は、一つの信仰と呼べるまでに波及したと言っても過言でない。
  それは同時に精神面の支えも神である必要性はなくなり、祭事も形骸化している。
  しかしながら、その事に対して警鐘を与えるのは新聞のする役割ではない。

 ここでは神を失墜させた外界の技術を紹介していきたいと思う。
  原料を加工し、製品を作る産業。
  つまり工業技術は、幻想郷とは比肩しようもないほどに外の世界は発展している。

 外界のポピュラーな移動手段として、バスという大型の乗り物がある。
  自動車の一種と言えば、わかるかもしれない。
  名称の語源は『全ての人の為に』の意味を持つ『オムニブス』というラテン語から来ていると言う。
 その言葉が示す通り、バスという乗り物は階級差関係なく、低料金で誰でも乗ることができる。
  動力は化石燃料を燃焼させることで動かしているらしいが、その詳細は割愛させてもらう。

  バスの乗客は、通勤や通学に使う人間が最も多い。
  車内には左右対になった座席が幾つも並んでいるが、それだけでは乗り切れない場合もあるそうだ。

  つまりは座りきれない場合、何十人と言う人間が少ない座席を求めて争うことになる。
  勝者は悠々自適に座りながら、快適に目的地まで過ごすことができる。
  そのほどよいバスの揺れは眠りさえも誘うだろう。

 敗者はそうはいかない。言うまでもなく、座る席がどこにもないのだ。
 だが、彼らの目の前には吊革と呼ばれるバスの天井部のパイプから吊るされた輪っかがある。

  そう、負け犬である彼らはその輪っかを自らの首に――――


 『文々。新聞 五面「文々。異文録 第一回」』より抜粋





























 幻想郷。

  妖怪の山の麓にある湖に、紅を基調とする西洋建築様式の館がある。
 そこは紅魔館と呼ばれており、スカーレットデビルと称され恐れられる悪魔が住んでいる。

  その紅魔館の地下には、大図書館が広がっていた。
  日光は一切当たらず、空気も滞留しており、ここに訪れる人物に対しての配慮は一切されていない。
  まさに本の為だけに存在している空間と言えるだろう。

  地下とは思えない高い天井には、そこに届こうとするほどの著大な本棚が並べられている。
  本棚には魔導書だけではなく、古今東西のありとあらゆる蔵書が整然と収められていた。
  幻想郷全土にある蔵書を全てかき集めても、この図書館に比肩しうるかどうか。


  その大図書館の一画に黒壇の円卓があった。
  見る者を圧倒する書物の大海と比較すれば、随分とこぢんまりしたテーブルだった。
  精々二人か三人座るのがやっとだろう。
  そこに図書館の主人であるパチュリー・ノーレッジと、幻想郷のブン屋である射命丸文の姿があった。

 「…………」

 両名は言葉を交わすこともなく、テーブルを挟んで座っている。
  文は出された紅茶の香りを楽しみながら、いつもと変わらない様子で赤い手帳を眺めていた。
  一方、パチュリーの方は新聞を仏頂面で黙読している。

  それは今朝方、文が書き上げたばかりの新聞であり、幻想郷に戻ってからの第一号となる。
  文が異世界に行く際に、パチュリーは最も世話になった相手と言える。
  配達を一通り配り終えた後、その礼を兼ねて図書館まで直接新聞を渡しに来たのだ。

  文の機嫌は良さそうだったが、パチュリーは日頃に増して眉間に皺を寄せている。
  出されてから一度も手をつけていない紅茶は冷め切っており、風味は完全に消し飛んでいた。

 「はあ……」

  パチュリーは溜息をつくと、シュガーボックスを手に取り、紅茶のなかに多量の角砂糖を落とした。
  乱暴な手つきでティーカップにスプーンを入れて、カチャカチャと掻き回す。
 その砂糖水と変貌した紅茶を一気にあおると、強烈な甘さからか眉間の皺が更に深くなる。

 「……で、何なのこれ。コラム? 散文?」

 不機嫌を隠そうともしない声色で、対面に座る文に詰問した。
  文は飄々とした態度を崩すことなく、パチュリーの指す記事を一瞥する。

 「ああ、『文々。異文録』のことですか?
   外の世界をこれでもかと面白く紹介する我が新聞の新企画です。
  略称として、『ぶんぶんぶん』とでもお呼びください。
  ちなみに『異文録』は『異聞録』と『異文化』を組み合わせたものです。わお、面白い」

 そんな聞いてもないことをべらべらと説明されて、パチュリーは不機嫌さを増していく。
 少女の機嫌の悪さに気づいてはいたが、文は得意満面だった。
  彼女は究極的に自分さえよければいいのだ。

 「貴方がその世界で体験したという聖杯戦争は? その記事がどこにもないじゃない」

 「そんなのはありませんよ?」

 「……なんでよ。貴方にとって恰好のネタじゃないの?」

 「新聞に自分の姿は出てきません。記者は第三者でなければなりませんから。
   それにあんなバイオレンスなネタは私の趣味じゃありませんし」

 そうポリシーを話す文の前で、パチュリーはもう一度嘆息すると新聞を閉じた。
  挑発的な態度を隠そうとする様子もない。

 「そうして異世界にまで行ってできた新聞は、いつもと何ら変わらないタブロイドなのね」

 文が異世界から図書館に還ってきた直後、その世界で起きたことをパチュリーは簡単に聞いていた。
  なんでも文は『聖杯戦争』という魔術師同士の殺し合いに巻き込まれたらしい。

  パチュリーはその部分だけに興味を覚えていた。
  詳細は新聞に載るだろうと思いその場では追求しなかったが、蓋を開けてみればこの有様だ。

 「いやあ」

 照れたように頭を掻く文に、なんなんだコイツという表情でパチュリーは尻目する。
  幻想郷に帰って来てから彼女に会うのはこれで二度目だが、その時からずっと無闇矢鱈に元気だ。

  ……異世界で脳味噌を有鈎嚢虫にでも喰われたのかとパチュリーは思う。

 「遠路はるばる異世界の日本まで行って、知識も技術も手に入れることなく、
   こんなゴシップばかりのネタを集めて来ただなんて、流石に頭が痛くなるわね」

 そう諸悪の根源である文の前で愚痴ってみたが、
  当人は妙に厳ついカメラの手入れを鼻唄交りで始めており、まるで聞いちゃいない。

 「なんなのコイツ」

 天狗の弄言に乗せられて、膨大な魔力を使う術式を組んだのが馬鹿だったのだ。

  そうやって、何かと悪態を吐くが、今回の実験でパチュリーに収穫が無かったわけではない。
 新しく組んだ魔方陣の実験に成功したのは、それなりの成果だった。
  術式が他の世界の召喚儀式に介入できた事実は、今後の研究における糧になるだろう。
  もっとも、正確に検証するにはこの一回だけではなく、繰り返し実験をする必要性はあった。
 その検証には、壊れにくい実験体が是が非でも必要になるだろう。

 「…………」

 「小悪魔さーん。紅茶のおかわりまだですかー?」

 パチュリーの目に映る天狗の少女は、この図書館の司書である小悪魔に手を振っていた。
  ずうずうしさもこれまで以上だった。
  あくせくと本の仕分けをしていた小悪魔は作業を中断して、同じように手を文に振り返す。

  眩しいまでの笑みを浮かべる小悪魔。だがどうしてか、そこから一歩も動こうとはしない。
  声が聞こえてないのかもしれない。それとも聞こえない振りをしているのかもしれない。

 アホの子のようにぶんぶんと手を振り続ける。
  文もその手を休めようとはしない。なんなんだコイツら。

 「流石、悪魔と言ったところでしょうか……!」

 暫くムキになって手を振り合っていると、蚊帳の外だったパチュリーが服の袖を掴んだ。

 「それと、この服はなんなの」

 その壮絶とも言える視殺戦はパチュリーの介入により、一端の幕を引く。
  小悪魔もパチュリーが睨み付けると、そそくさと仕事に戻っていった。ティーカップは空のままだ。

 「おお、良いところに目をつけましたね。これは私立穂群原学園の制服です。
  ライトブラウンのベストに、赤いリボンタイが良いアクセントになっているでしょう?
   本当は学園に返すつもりでしたが、どういうわけか荷物に紛れていました。
   いやはや、不思議なものですね。
  ……ですが、パチュリーさんは他人の服の趣味なんて気にする人でしたっけ」

 「別に。見たことのない素材なのが気になっただけよ」

 「なんだ、そんなことですか。
   材質はウールとポリエステルの混紡ですね。ポリエステルは石油由来の繊維だとか。
   私も詳しくは知らないんですけど、外の世界の科学力はほんと凄かったですよ。デジカメとか」

 それだけ言うと、文は再びカメラを弄りだした。

  時折カメラを弄りながら、ちらちらとパチュリーの顔を見る。
  ……なんだか妙に腹が立つ仕草だった。
  どういう腹づもりか知らないが、相手にしてやるものか。

 そうパチュリーは思ったが、一つだけ気になることがあった。
  やけに覚束ない手つきでカメラに触るその手に、異質とも言える魔力を感じる。

 「……その手の包帯どうしたの? 妙な魔力の残り香を感じるわ。
   それに貴方が治療の必要なほどの怪我を負うなんて珍しいこともあるのね」

 風体と物腰からはとてもそうは見えないが、射命丸文は幻想郷でも指折りの実力者だ。
  遊戯でしかない弾幕ごっこで、大げさに包帯を巻くような傷を負うとはとても思えない。

 「ああ、これはギルガメッシュにやられた傷です」

 カメラを机の上にそっと置き、自身の掌をパチュリーの目の前に突き出す。
  間近で見ると、非常に強力なアーティファクトによって攻撃を受けたのだとわかる。

 「ギルガメッシュってあの? 古代メソポタミアの?」

 「はい。あのギルガメッシュ叙事詩の英雄です」

 「何を馬鹿なことを……」

 文から引き出せたのは、一蹴してもいいほどの眉唾な話だった。

 「ついでにヘラクレスには翼をもがれて、
   アーサー王にはエクスカリバーで撫で斬りにされました。超痛かったです」

 「…………ハッ」

  鼻で笑う。これ以上は詳しく聞くまでもない。

  どんな事情があれば、そんな神話クラスのビッグネームが一堂に会すというのだ。
 ギルガメッシュに、ヘラクレスに、アーサー王?
  その一人一人が実在する人物かどうかも怪しかったし、時代もてんでバラバラ。
  まるで話にならない。
  そんなことは魍魎跋扈する幻想郷でも起きえないことだろう。

 「……ついに頭がおかしくなったのかしら。
   魔法による精神干渉なら私が視てあげるけど、精神疾患の類は永遠亭で診てもらいなさい」

 「いや、本当ですって」

 文は尚も食い下がろうとするが、これ以上付き合ってやる筋合いはパチュリーにない。

 「はいはい。永遠亭はあっちよ」

 パチュリーは図書館のエントランスを指さすと、読みかけだった古書に目を落とした。
  ……つまりは図書館から出て行けということらしい。

 そんなことで素直に帰る文ではないが、パチュリーはもう本の世界に没頭している。
  後ろから覗き込んでみると、羊皮で装丁された古書は、未だかつて見た覚えのない言語が書かれていた。


 …………。

  今、パチュリーに放言した文の傷は快気に向かっていた。
  幻想郷に帰って来てからは、英雄から受けた攻撃も治りつつある。  
  その中で最も損傷した箇所は、間違いなくバーサーカーにもぎ取られた翼であろう。
  だがその失ったはずの翼は、どういうわけか新しく生えてきていた。

  かつて翼を失った経験はないので、烏天狗の翼が新しく生え替わるかどうかは知らない。
 不死性のある妖怪と言っても、一度失った部位である。
  『再生なんてトカゲじゃあるまいし』と思って、ほとんどを諦めていた。

 それが幻想郷に帰って少し経ってから、徐々だが生え始めてきたのだ。

 (幻想郷の水と空気が私に合ってたのかな。
  ……それとも士郎くんの令呪の効果かしらね。いやまさかそんな)

 『幻想郷でも、元気に過ごしてくれ』
  本来の使用方法から逸脱した健康祈願にそんな効力があるとは思えない。

 但し両翼が元通りに完治するまでには数年は要するだろう。
 現状、空を飛ぶことはさして問題ないが、幻想郷最速と言われたスピードは出せそうにもない。

 「その間はここの家主にでもその称号を預けましょうかね。
   ……ま、完治したらすぐに返上させてもらいますけど」

 「……レミィのこと? なんのことよ」

 聞き耳でも立てていたのか、パチュリーが文の独り言に言葉を返す。
 本からは目を離してはいないので、多少気になった程度だろう。

 「さあ。なんでもありませんよ」

 「あっそう」

 文がそうやって惚けてみせると、パチュリーもまた素っ気なく返した。
 そして再び訪れる沈黙。
  常人なら居心地の悪さに退席しかねないものだったが、文は気にした素振りも見せない。
 この程度でへこたれるようであれば、ブン屋なんてやってないのだ。

 「あ、そうでした。
   一つお訊きしたいんですけど、あの魔方陣ってまだ使えます?」

 文の視線の先には、かつて聖杯戦争の直中に召喚されるきっかけになった魔方陣があった。
  その魔方陣は幻想郷外の召喚儀式を探査して、無理矢理そこと繋げるシステムが組まれている。
  それも一概に幻想郷の外というわけではなく、平行世界までも超越するとんでもない代物だ。

 「私が魔力を流せばいつでも起動できるわ。……また実験台になってくれるのかしら?」

 興味がある話だけにパチュリーの食い付きはよかった。
 眠たそうな目は相も変わらずだが、瞳の奥に微かな情動が見える。

 (……好みの話題が偏食過ぎて、まともに生活が送れるかすこぶる疑問ね。
  昼夜構わず図書館に引き籠もっている時点で、まともな生活とは言えないけど)

 それはともかくとして。

 「それは半世紀先でお願いします。それよりも私が召喚された場所ってわかりますか?」

 「位置を特定するだけならできなくはないわね」

 「おお、できますか!」

  「多次元座標値のログを変換するだけだからね。
   あらかじめ忠告しておくけど、その異世界に貴方を送ることはもう二度とできないわよ」

 「流石にそんな無茶は言いません。
   言いませんが、……もし仮にですよ。無理矢理やろうとしたらどうなります?」

 「転移先に大規模な召喚儀式があって、初めて実現できることだからね。
   肉体だけではなく、魂の情報量も勿論膨大だわ。
  その膨大なデータを送る為の力が足りなすぎて、転移時にまともな形を保っていられないのよ。
  特に貴方のような無駄に肥大化した千年妖怪をあちらの助力なしに転移しようとしたら。
  ……そうね、ミンチ確定かしらね。それも魂も一緒にグチャグチャ」

  要するに送ろうとする対象のデータ容量が最大のネックであるらしい。
 その点に関しては文の想像していた通りだった。

 「ほうほう、挽肉なら送れるんですね。――だったらこれはどうです?」

 「……やってみないとわからないけど、おそらくはいけるわ」

 「やってくれますか?」

 「報酬は? 私もそんなにお人好しじゃないわ。魔女は常に正当な対価を求めるわよ」

 物語のなかでもあるように魔女は、願いを引き替えに対価を求めるもの。
  それは美しい声であったり、記憶や感情であったり、それこそ命そのものであったり。
 パチュリーもまた、その魔女たちの一人として数えられるのだ。

 文は鞄のなかから一冊の本を取り出す。
  そして見せつけてやるように、分厚く重いソレをどんとテーブルの上に置いた。

 「はい。異世界の希少本」

 「やるわ」

 即答だった。
  答えると同時に立ち上がり、分厚い本をパチュリーは胸に抱える。
  よたよたと重そうだが、この日陰少女は大丈夫だろうか。

 (……それにしてもこの魔女、チョロいわね)

 最悪、文はアーサー王の召喚媒体を手放すことも考えたが、広辞苑一冊で済んでしまった。
  写本も済んでいるし、それにたかだか8千4百円。
  原本を手放すのは少し惜しいが、そこまでは痛くない。大辞林もまだ手元にある。
  希少本かどうかは怪しいところだが、少なくとも幻想郷ではこの一冊しか存在しないだろう。

 ちなみにアーサー王の媒体であるカルンウェンハンは、道に落ちていたから拾った。
  そしてなぜだか荷物に紛れていた。いやはや、不思議なこともあるものだ。


 パチュリーはもう既に魔方陣の前で、魔法の詠唱を開始していた。
  即断即決、即行動。
  やはり、自分の興味のある事柄に対してだけはやたらと行動が早い。
 破綻した人格と言えるが、魔道の深遠に生きる魔女にとって正常など余計な不純物でしかない。

  魔方陣が赤く淡い光を灯して、中空に浮かび上がる。
 文がかつて見た光景と寸分違わぬものだった。その時の彼女は魔方陣の中心にいたが。

 「準備オーケーよ」

 長い魔法詠唱に少し疲れた様子だったが、血色が悪いのはいつものことだ。

 「はーい。今行きます」

 文は魔方陣に向かって歩き出す。
  少し浮き足立っているのが自覚できた。だけど走るなんてことはしない。みっともないから。

  聖杯戦争以来、感情の制御が上手くできなくなっていた。
  振り返ってみれば、聖杯戦争では布団の上で懊悩してしまう程度の行動を何度となくしてきた。
  原因はそれだけじゃないだろうが、どうも感情の枷と言うべきものが外れてしまっている。

  精神に依存した妖怪である以上、射命丸文という存在が壊れてしまったと言ってもいいかもしれない。
  千年以上の歳月を生きてきたのに、今になり、こうも不安定になるなんて想像もできなかった。

 「……まるで子供だわ」

  気づけば、文は口元に笑みを作っている。

 こうしてつまらないことで、簡単に揺さぶられてしまう自分に恥ずかしく思うこともある。
  だけど外向きや嗜虐的なものではなく、純然な感情で笑うのはいつ以来だったか。

  そう思えば、そこまで悪い気もしなかった。























 ――――――――――





















 風が吹くと肌寒さを感じることもあるが、3月も半ばとなって幾分か暖かくなってきた。
  冬木は日本の平均よりも温暖な地域であり、そろそろ桜も咲き始めるかもしれない。

 病院のカウンターで、退院の手続きを済ませる。
 怪我は完全に完治したわけではないが、本日付で退院することになった。
  俺が担当医に無茶を言って、退院させてもらったと言うのが正しいか。

  それと寂しい話ではあるが、付き添いはいない。
  藤ねえは仕事があるので仕方がないだろう。
  本人は来てくれると言ったのだが、俺が強く断ったのだ。

  逆に少し期待していたのは、ほぼ毎日来ていたイリヤだったんだけどな。
  退院日である今日に限って、何故か来ていなかった。
  決して付き添いを頼んだわけじゃないが、少しあんまりな気がした。

  もっとも、彼女のお陰で昨日までの入院生活を退屈せず過ごせたこともある。
  そう思えば、恨み言を言える立場ではなかった。

 担当医と看護師にお礼を言って、出口の自動ドアをくぐる。
 暫く運動を控えるように言われているので、タクシーを使って家に帰ることになっている。
  新都から深山まで歩けなくもないが、病院がエントランスまで手配してくれていた。
  今日まで散々お世話になったのだ。無下に扱うわけにはいかない。

 出口の先には既にタクシーが待ち構えていた。
  普段はタクシーに乗る習慣がないので、ほんの少しだけ萎縮してしまう。
 タクシーの後部座席に乗り込み、大まかな目的地を告げる。
  寝台からここまで立ちっぱなしだったので、情けない話だが少し疲れてしまった。

 長い入院生活で筋力は若干落ちたものの、日常生活を送る分には何の問題もない。
  むしろ障害が残らなかったことは本当に運が良かったと言える。

  それよりも問題なのは、魔術の鍛錬を入院期間中まるまるサボっていたことだ。
  俺のなかにある27本の魔術回路は盛大に錆び付いていることだろう。
  魔術回路自体はイリヤに開けてもらったので、鍛錬途中で死ぬようなことはないだろうけど。



 目的地の衛宮邸まであと少しのところで、料金を払いタクシーを降りる。
  ここから先の道はリハビリがてらに歩くことにした。
 たった2ヶ月程度の話だが、見慣れたはずの道が少しだけ物珍しく感じてしまう。


 ここ暫く、空を見上げる回数が増えた。
  今日は、雲一つない青く透き通った空がそこにあった。

  俺は無意識のうちに、文の姿を探しているかもしれない。
  だが彼女は幻想郷に還ったのだ。もうここにはいない。

  いくら手を伸ばしても決して届かない場所だ。二度と会うこともないだろう。

 「…………ふう」

 それは、乗り越えた筈の感傷だった。

  しかし俺も気づかないうちに、それは消化不良になっているのかもしれない。
  それもまた時間が経てば、いずれ記憶の底に忘れてしまうのだろうか。
  だが文の記憶を風化させるということは、彼女との最後の約束を違えることになる。

 それだけはどんなジレンマに陥ろうとも、絶対にしてはいけない。


  歩いているうちに、久方ぶりの衛宮邸についた。
  随分と長い間、家を放置していたので、まずは窓を開放して澱んだ空気を換気しよう。
  その後は積もりに積もった埃を、掃除しなければならない。

 「よし!」

 自分自身に活を入れて、玄関の鍵を扉に差し込もうとすると……、鍵は掛かっていなかった。
  それに藤ねえに頼んで戸締まりしたはずの部屋の窓も、見える範囲では全て開いている。

  屋敷に張ってある結界は何の警告音も鳴らしていないので、空き巣ではないだろう。

 「……藤ねえかな」

 ほかに桜という可能性もあったが、あの状態の彼女がここに来るとはとても思えなかった。
 玄関先であれこれ考えていても仕方がないので、ゆっくりと扉を開ける。

 「ただいま」

 誰が来ているのか確信が持てなかったので、少し小声になってしまった。
 しかしその声に反応してか、廊下の先からとてとてと軽快な足音が聞こえてくる。

 「退院おめでとう! シロウ!」

 イリヤだった。
 どういうわけか頭に頭巾を被り、顔を汚している。
  だが表情は満面と言って良いほどの笑みを浮かべていた。

 「……あ、ああ。ありがとう。 だけど一体どうしたんだ?」

 意外な人物の登場に驚いてしまう。
  それより驚きだったのが、その不釣合な恰好から想像するにイリヤが掃除をしてくれたらしい。
 退院の時に顔を見せなかったのは、ここの掃除をする為だったのか。

  イリヤの掃除は完璧とは言い難いが、廊下はある程度は綺麗になっていた。
  ちゃんとしたやり方を知らないだけで、頑張ったという努力の痕跡は見て取れる。
  イリヤが手伝ってくれるなら、今日中に掃除を終わらせられるかも知れない。

 「掃除なんてするの初めてだったから、ちょっと上手くできなかったけど……。
   でも可能な限りはやってみたわ」

 いいところのお嬢様である彼女が、掃除する姿はまるで想像ができない。
 畳敷きの部屋をどう掃除したのか不安だったが、それでもイリヤのやってくれたことは素直に嬉しい。

 「ありがとうな。イリヤ」

 頭を撫でてやると、気持ちよさそうに眼を細める。

 「えへへー。だって今日からわたしも住むんだもの。シロウだけにはやらせないわ」

 「――――は?」

 何かとんでもない発言を聞いてしまった気がする。
  俺の聞き間違いである可能性も高いだろう。うん、むしろ聞き間違えのはずだ。

 「……すまない、イリヤ。もう一度言ってくれるか?」

 「だーかーらー! 今日からわたしもこの家に住むの!」

 「なんでさ」

 「なによー! シロウはわたしと一緒にいたくないって言うの?!」

 「いや、そういうわけじゃないけど……」

 そういえば、ドイツにあるイリヤの実家にはもう帰らないと言っていた。
  アインツベルンの森にあるイリヤの城も、セイバーの宝具によって壊れてしまっている。

  そうなると俺の家に住むことに……、なるのだろうか?

 「ダメかな……?」

 色よい返事が返ってこない為か、少女はしゅんと気落ちしてしまう。
  いやいや、その上目遣いは反則だろう。人としての良心がズキズキと痛む。

 もう、答えは出ているようなものだった。

 「ああ、わかった。好きにしてくれていい」

 後のことを考えると酷く恐ろしいが、もう何かと疲れてしまった。
  それに掃除だけではなく、入院中も色々とやってくれたイリヤを追い返すことなんてできない。

 「わーい! 今日からよろしくね! お兄ちゃん!」

 さっきまで頬を膨らませていたのに、今は諸手を挙げて喜んでいる。
  喜怒哀楽がころころと変わるのは見ていて楽しいが、凄く疲れそうだった。

 まあ何にしても、今は掃除の続きをしよう。
 靴を脱いで廊下に上がると、突然イリヤが抱きついてきた。
  身長差がかなりあるので、腰元に抱きつかれる感じになってしまう。

 「おい、こら!」

 「へへー、シロウー」

 やんわりと振りほどこうとしても、余計にしがみつかれてしまった。
  そんな時、玄関の戸が再び開いた。もう悪い予感しかしない。

 「士郎ー? もう戻ったのー?」

  藤ねえだった。
 悪い予感というのは、得てして当たってしまうものだ。

 なんで今ここに藤ねえが……?
  時刻はまだ昼下がりで、仕事の終わる時間じゃないはずなのに。
  いや、そんな過ぎてしまったことよりも、今のこの状況はひたすらまずいんじゃないだろうか。

 「……あ、ああ。ついさっき戻ったよ、藤ねえ」

 その言葉は藤ねえに届いていなかった。

  イリヤは藤村大河という知らない顔に対して、表情が険しいものになる。
 そんな最中でも、俺に抱き付いている手は一向に離そうとはしなかったが。

  そう言えば、入院中の見舞いで二人が顔を合わせたことはなかったな……。

 「……貴方誰よ?」

 さっきまでの猫撫声とはまるで違う、冷酷なイリヤの声色。
  一見すれば天真爛漫な少女なのだが、その実は聖杯戦争のマスターだったのだと実感してしまう。

 「って、なんじゃこりゃーー!!!」

 だがそんなイリヤの言葉は虎の叫喚によって瞬く間に飲み込まれてしまった。

 …………。

 その後の悶着はちょっと筆舌に尽くしづらいものだった。

 玄関での前哨戦は膠着状態のまま終了した。
  その後、雌雄を決する舞台を衛宮邸居間に移して、話し合いが開始された。
  当然、議題はイリヤについてのことだ。
 我が家の机は長方形であり円卓ではないので、藤ねえ対イリヤと俺という図式が自然にできてしまった。
 この時ばかりは居間の机を上下関係が生じることのないちゃぶ台にしなかったのをひたすら後悔する。

  イリヤがここに住むという話をすると、それはもう烈火のごとく反対する虎。
 その藤ねえの猛攻を冷静に冷徹に受け流していくイリヤ。

  ちなみに何度か俺がイリヤの助け舟を出したが藤ねえに届くことなく、ことごとく一蹴されてしまった。
 この家の家主は俺だが、ヒエラルキーは常に最下層だ。

 小一時間ほど平行線のままで話が続くと、ふとイリヤは立ち上がって見せた。
  そして、藤ねえの耳元で何かを囁く。
  こちらを気にした様子で見ているのを顧みるに、どうも俺には聞かれたくない話らしい。

 イリヤのその言葉だけで、これまでの興奮が嘘だったように藤ねえが素面になる。
 それから先は藤ねえも勢いを落とし、ここで一緒に暮らすことを渋々だが了承してくれた。
 藤ねえの家に住むという案も出たのだが、イリヤがどうしてもこの家に住みたいらしい。

  収拾が完全についたとは言い難いものだったが、この戦いの軍配はイリヤに上がった。


  「うわぁぁああん!! 文ちゃんに言いつけてやるんだからー!!」

  そんなことを最後に言い残して、藤ねえはどこかに走り去ってしまった。
  折角来てくれたのだから、掃除を手伝ってもらおうと思ったのに残念無念だ。

 どうも藤ねえにとって、イリヤは天敵だったらしい。
  そうだとしても一回り以上年齢が離れている少女に言い負かされる藤ねえも藤ねえだが……。

 「……さっき藤ねえになんて言ったんだ?」

 「んー。秘密」

 そう言って、イリヤはそっぽを向く。
  その様子からしてどう訊いても教えてくれはしないだろう。

 そう言えば、藤ねえの中だと俺と文は恋人同士という話になっていたのを思い出す。
 勿論そんな話はその場を収める為の文による奸計でしかなかったわけだが。

  うーん、文のことは藤ねえにどう説明しようか……?
 振られてしまったと言えば、それで済むと思うが、凄く怒られそうな予感もある。

  だけど、文に振られてしまったというのはあながち間違った話でもなかった。




 …………。


 そして虎襲来の一悶着の後、少しの休憩を挟んで屋敷の掃除を再開した。
 玄関から廊下、トイレ、風呂、台所とやり終えて、各個室の掃除を開始する。

  イリヤは途中で掃除に飽きてしまったようで、随分と前に戦線離脱してしまった。
  それでも十分頑張った範囲だろう。彼女に感謝は尽きない。多分。

 聖杯戦争の間、文が使っていた和室を覗いてみる。

  いつか見た時は節操なしに散らかっていたが、今は彼女の居た痕跡すらもなくなっていた。
  おそらくは俺が入院していた期間中に、ここを訪れて掃除をしてくれたようだ。

 「……文」

  机の上に書き置きでも残してあるかと探してみたが、当然そんなものなかった。
  文との別れは病院で済んでいた。これ以上何かを望むのも我が儘な話なのだろう。


 「シロウー。土蔵に変なものがあったよー」

 縁側の方向からイリヤの声が聞こえた。
  土蔵に遊びに行っていたイリヤが戻って来たようだ。

 土蔵は魔術の鍛錬所なので、あまり他人には見せたい場所ではない。
  だけどイリヤには以前、俺の魔術鍛錬を見せたことがある。
  そう言えば、その時イリヤは文の見ている前で俺に……。いや、それはもう忘れてしまおう。

  そうこう考えているうちに、イリヤは俺のすぐ側まで来ていた。

 「それで、変なものだって?」

 「うんこれ。変でしょ」

 イリヤに筒状の物体を渡される。
 ……ガラクタだらけとは言うが、こんなものは土蔵には置いてなかったはずだ。

  一見それは賞状筒のような形状をしているが、素材は全て木材によってできていた。
  匂いを嗅いでみると、まだ真新しい檜の良い香りがする。

 「……うん、ここだな」

 切れ込みを見つけたので引っ張ってみると、ポンという小気味良い音と共に蓋が取れた。
  制作する技術はそれなりにいるだろうけど、簡単な構造の木工細工だ。

 「おおー!」

 間近で見ていたイリヤが大げさに感嘆の声を上げる。
  ……そんなに面白いものなのだろうか。

 筒の中を見てみると、ぱっとは数え切れない程度の紙の束が入れられていた。

 「ん? なんだこれ。新聞か?」

  引き出してみると、やはり新聞で間違いないみたいだ。

 「……中身はつまんないね」

 一変して、落胆の表情を見せるイリヤ。
  まあ確かに新聞なんてものは、そうそう面白いものじゃないけどさ。

 ……いや、だけど新聞って。

  新聞というキーワードに、一つだけピンと来るものがあった。
  慌てて一面を広げて、新聞の名前を確認する。

 そこには一際大きな文字で『文々。新聞』と書かれてあった。
  その名前を目にした時、心臓が大きく高鳴る。

  「文々。新聞……! 文の書いた新聞だ……!」

 「え、うそ? アヤの?」

 「イリヤ、これは土蔵のどこにあったんだ?」

 「そう言えば、アヤが召喚された魔方陣の上にあったわ。
   その筒に何の魔力も感じなかったから、気にしてなかったけど」

 筒の奥を覗いてみたが、新聞以外は何も入っていなかった。
 新聞をテーブルに広げて読んでみる。

  ひと通り目を通してみたが、俺に対してのメッセージなんかもないみたいだ。
  文の住んでいる幻想郷についての記事が紙面のほとんどを占めていた。

  幻想郷を詳しく知らない俺でも、本当に何でもない記事であるのが判る。
  新聞としてはどうかと思うが、文なりの見地も書いてあって、それなりに興味深くはあった。
  この世界を紹介する記事もあったが、それについては世界を代表して間違っていると伝えたい。

  それと聖杯戦争については一文も記述がなかった。
  『文々。新聞』に書かれた記事の傾向を見るに、何で触れていないかは何となくわかる。

 イリヤは俺の隣で、難しい顔をしながらも文の新聞を読んでいた。
 イリヤには入院中に文は幻想郷から召喚されてきた程度のことは教えてある。

  それでもイリヤが理解に苦しむのはわからなくもない。
  直接文から幻想郷の話を聞いている俺でさえよくわかっていないのだ。

 「……多分これは幻想郷から、文が送ってくれたんだと思う」

 「えっ?」

 極めて不可解な話だが、状況を考えるにそうとしか考えられない。

  「そんなことできるの?!
   そんなの第二魔法の片鱗に触れているようなものじゃない!」

 驚きを隠せない様子で、イリヤが語調を荒げている。でも今確か。

 「……第二魔法だって?」

 「ええ、並行世界の運営ね。わたしは魔術師じゃないからそんなに詳しくないけど。
   詳細を知りたければ、リンに訊いてみるといいわ。第二魔法は遠坂の領分だから」

  魔法というのは、現代の科学では決して到達することのできない奇跡とされている。
 なるほど。それならイリヤが驚くのも無理はない。半人前の俺でも驚きだった。

 「だったら文は新聞を届ける為に、この世界最大の奇跡に触れたのか?」

 いくら精神分野での発展を遂げた幻想郷と言えど、そう簡単なことじゃないだろうに。
  イリヤが妙に疲れ果てている。いや、呆れ果てていると言った方が正確か。

 「……そうだとすると、世界一馬鹿げた新聞配達ね。
   やっぱりリンには訊かない方がいいかもしれないわ。卒倒しかねないから」

 新聞配達。……新聞配達か。

  「……そういうことなんだな、文」

  この新聞は何かしらの意図があるわけではなく、それだけの為だけに送られたのだろう。
  ああ、それはなんとも文らしい話じゃないか。 

 「シロウ?」

 イリヤが不思議そうに俺の顔を見る。気づくと俺の顔は笑みを形作っていた。
  当然、何かが面白くて笑っているのではない。
  もしかしたら、文は新聞を発行する度にここにも送ってくれるかもしれないな。

  文と一緒に過ごした時間は二週間にも満たない。
  それは千年を生きる彼女にとって、瞬きにも満たない一瞬の出来事だ。

  だが彼女はこうして繋がりを残してくれている。それがたまらなく嬉しかった。


 …………。


 外に出て、空を見上げる。
  雲一つない青く透き通った空がそこにあった。
  彼女とは、もう二度と会うことはない。

 だけど、その空はかつて見たものよりも、少しだけ高く感じた。




































































 後書き


 終わり。



 2011.8.14


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