百舌の早贄




 さとりが宙を見上げると、そこに死体があった――。




 とは言うも、何も死体が空を飛んでいるわけではない。なんてことのない、ただの死体だ。

  仮に幽霊や亡霊であれば、空を飛ぶことはできよう。
  あれらにはちゃんと意志も存在している。幻想郷では何ら不思議はことではない。
  だが、死体は全くの別物である。
  意志も魂もなく空を飛ぶ死体なんて、大抵のことは起こり得る幻想郷でも聞いたことがない話だ。

  もっとも、ここはそんな幻想郷ではなく、その地下に広がる地底の世界。
  忌み嫌われた妖怪たちが、吹き溜まりを作る最後の楽園。
  ……まあ、楽園というのは、地上から地底に追いやられたさとりの皮肉でしかないのだが。

  地底世界と呼ばれる場所だけあって、首を更に上へと傾けても視界に映るのは、
  清涼とした青空の色彩ではなく、固く厚い岩盤に覆われた不細工な天蓋。
 ぐるりと周囲を見渡しても、やはりそこも不細工な岩が同じように転がっているだけだ。

 そんな光景を目にしたところで、さとりの口から漏れるのは溜息でしかない。

  そして、不細工の仲間入りを果たそうとしている、頭上高くにある一体の死体。
 繰り返しになるが、その死体は空に浮かんでいるわけではない。

  つまり、地霊殿を囲う7メートル程の高さを持つ鉄柵に死体は串刺しになっていた。

  鉄柵の先端は侵入防止の為、槍状になっており、うつ伏せになった死体の腹から背中までを貫いている。
  そこから投げ出された四肢は、重力に逆らうことなく地面を力なく指していた。

 貫かれた腹部からの出血はごくごく少量であり、鉄柵を血で汚すことはなかった。
 どうも死後幾分か経過してから、この状態にされたようだ。

  ただ、エントランスの付近ということもあって、景観は最低を通り越して最悪でしかない。
 噂に聞く吸血鬼の住む館ですら、ここまで悪趣味なオブジェはないだろう。
  そんな死臭漂うオブジェを見上げながら、さとりはもう一つ大きな溜息をついた。

 普段さとりは地霊殿に引き籠もり、ペットに囲まれた悠々自適の生活を送っている。
  そんな不健康な生活に、たまには外の空気を吸おうと思い立ち自発的に外に出向いたのだ。

 そして地霊殿のエントランスから、一歩外に踏み出たところで目に入ったのは死体。
  コンニチハ、と陰気に挨拶をしても、ろくに返事もないシャイな人材だ。
 地底妖怪にあるまじき健康的な行動に出た途端、こんな不健康の代表格にエンカウント。
  さとりのもともと大して高くないテンションも、唯々落ちていくばかりだった。
 この世界にもし神がいるのなら、一度でいいから得意げな横っ面を殴ってやりたい。

  ……いや、神と名のつくものは幻想郷に掃いて捨てりほどいる。
  次に神と名の付く者にあったら、横っ面を殴るなんて甘っちょろい真似では済ませるものか。
  この他者の心を映し出す第三の瞳で、人には言えないトラウマを探ってやろう。

  そう考えて、さとりはクスクスと暗い笑みを浮かべた。

 …………。

  八つ当たり極まりない想像を終え、少し機嫌を良くしたさとりは再び死体を見上げる。
  俯せになった顔をよく見てみれば、……驚いたことにさとりの顔見知りのものだった。

  まあ、驚いたといってもほんの僅か、一呼吸ほどの時間でさとりは平常を取り戻す。

  長く生きた妖怪にとって、死は遠いように見せかけただけの近しい隣人である。
  死と触れ合うことにあまりにも慣れたものだ。
 それにここは無数の怨霊が蠢く伏魔殿、否が応でも死体が目に入る生活を送っている。

  だから、死体が顔見知りであっても、さとりは一欠片の同情や憐憫も抱かない。
  ただ、ほんの少し驚いただけ。たったそれだけの感情の変化でしかない。

 とはいえ、なんとも呆気のない最期だったと、さとりは思う。
  しかしまあ、考えてみれば、身の程を弁えずに地底の妖怪にちょっかいを出したのだ。
  まともな死に方はしないだろうとは、なんとなくだが感じていた。
 もっとも、こんなに早くに、こんなところで、こんな形の再会とは、さとりも思っても見なかったが。

 手間暇をかけていたであろう長い髪は、艶を失ってまばらに散り。
  自信に満ちあふれていた口は、死後硬直が溶け、ぽかんとだらしなく開き。
  猛々しかった二つの瞳は白濁となって、生気は当然だが微塵も感じさせない。ついでに言うと裸だ。

 そこにかつての面影はなく、あるのは物言わぬ不細工な死体。
 目が合った。
 眼球の粘膜が乾き切って、まるで出来の悪い硝子細工のようだった。

 「……そんな汚らわしい目で、私を見ないでちょうだい」

 恐怖に怯える人間や、驕り高ぶる妖怪の心を見るのは好きだ。
  だけど、誰かに見られるのはあまり好きになれないし、好きになろうとも思わない。

  三度目になる溜息をつくと、さとりは胸に浮かぶ第三の瞳を優しく撫でた。


 ――――――――――


 問題は山のようにあるが、まずは犯人を見つけることが優先される。

 殺人事件の容疑者をまずさとりは思い浮かべようとしたが、さっそく頓挫した。
  そもそもここ地底には、そんなのろくでなししかいないのだ。
  地底の端から端を見渡しても、人間の世界でいうところの猟奇殺人者ばかりだと言ってもいい。
  なので、さとりを除く、地底の全員が容疑者と言っても決して過言ではないだろう。

  地底に住む妖怪の大半は、人間を散々弄んだ挙げ句、殺そうが喰おうが娯楽程度にしか思わない。
 特に旧地獄街道を牛耳る鬼たちならば、ガハハと笑いながら、これぐらいのことは平気でやってのける。

 そんな無数の容疑者のなか、まず候補に挙がるのは、さとりのペットである火焔猫燐だ。

  さとり自身と近しい顔というのもあるが、人間の亡骸を持ち去る妖怪であるお燐は、
  地底妖怪の中でも何かと死体との縁がある存在である。
  地霊殿の地下には灼熱地獄が広がっており、お燐はその燃料として持ち去った死体をくべる。
  そのお燐が根城である地霊殿に死体を運ぶことは、至極当たり前な行動と言えるだろう。

  だが、さとりは直ぐに思い直しお燐を容疑者から外した。

  お燐は、さとりに対して好意以上の畏敬を抱いている。
  失敗はあっても、このような主人であるさとりの眉を顰める真似は未だ一度もしたことはない。
  そもそも、お燐は死体を蔑ろにはしない娘だ。
 生きた人間なら兎も角、死体を鉄柵に突き刺す粗末な扱いは決してないと断言できよう。

 …………。

 それ以上の容疑者が思いつかず、物思いに耽るさとりに、虚ろな瞳が見下ろしていた。
 どうも、さとりの答えを待ちかねているように見える。
  その口は何かを言いたげにしているが、当然そこからは何も聞こえてくるはずもなかった。

  さとりは、なんとなく死体に声を掛けてみた。

 「こんにちは。今日も良い天気ですね」

 『…………』

 へんじがない。ただのしかばねのようだ。

  「地底に天気なんてあるわけないやん!」というツッコミを、さとりは内心期待していた。
 そんなさとり自慢の地底ジョークも華麗にスルー(実際は地底でも雪は降るが)。
  流石死体だ。寡黙なことにかけてはほかの追随を許さない。さとり、ちょっとショック。

  如何に心を読む能力を持つさとりといえど、死体からの声はいくら何でも聞くことはできない。
 そこにあるのは器だけで、魂と呼ばれるものはとっくに抜け落ちている。
  今頃、その魂は渡し船に乗って三途の川を渡っている頃だろう。
  ……もっとも、人物の人となりを考えるに、川を無事に渡りきれるか怪しいところだったが。

 (まあ、そんなことはどうでもいいわね)

 しかし、何度見てもこれは死体だ。

  誰が何を思って、このような目立つところに死体を置いたのだろうか。
 とある業界ではこんな時に『ウチノシマニナニシテンジャワレ』という呪文が唱えられるらしい。
 仮にも地底の顔役である地霊殿の主である。
  そんな大人物に喧嘩を売ろうという輩は……、思いつく限り沢山いた。

 さとりは、その心を読む能力から誰からも避けられているし、誰からも嫌われている。
 地底世界は、そのような行き場所を失った妖怪が集まる場所である。
  そしてさとりは、その嫌われ者のコミュニティのなかでさえも嫌われていた。ちょっとした快挙だ。

  だが、そのことをさとりは決して苦にはしていない。
  言葉を知らないペットと過ごす生活も悪くないというのも当然ある。
 それだけではない。
  さとりは積極的に他人のトラウマをほじくり返したいと思っているのだ。

  嫌われ者であるのに思うことも僅かにはある。
  だけども、『心を読む』それが覚り妖怪のアイデンティティなのだ。
  その生き方を何があっても曲げようなんて思わない。


  そもそもだ。
  さとりが本気にさえなれば、こんな殺人事件なんてあっという間に解決できる。
 ただ、ある程度の犯人の見当が付けばいい。
  あとは動機だろうがトリックだろうがさとりの胸にある第三の瞳が全て見透かしてくれる。

 (そう、この美少女探偵さとりの前では、全ての嘘は無駄でしかないわ!)

 「おねーちゃん!」
 「うっひゃあ!」

 得意げに胸を張っていたさとりの前に、突然現れた少女が、正面から勢いよく抱きついてきた。

  ドン、と強い衝撃は走る。
  だが、小柄な少女の体重を支えられないほど、さとりは妖怪を止めてはいない。
  それに、こんなところで万が一にでも転んで、それを鬼にでも見られたら酒の肴にされてしまう。
  それだけは地霊殿の主として、なんとしてでも避けたい。
  数歩よろめくも、何とか妹の体を支えることに成功した。デスクワークばかりなのも考えものだ。

 「あはは、おかしー。うっひゃあ、だって。お姉ちゃんってば、大袈裟すぎー」

 大袈裟ではない。
  目の前に立たれても存在を知覚すらできないこいしに、宣言もなく抱きつかれれば誰であろうと驚く。
  さとりが可愛らしい声を上げてしまうのも、仕方がないことだろう。
 性質上さとりは、感情をあまり顔には出さないが、第三の瞳は限界まで見開いてぷるぷると震えていた。

 「こいし! 私の前では直ぐに姿を見せなさいと言ってるでしょう!」

 カラカラ笑う妹のこいしに叱咤したところで、その言葉は右から左なのはわかっている。
  だとしても、地霊殿の主としてこいしの姉として注意せずにはいられなかった。

 ……それにしても、今日ほどこいしが心を読む能力を封印していて良かったと思ったことはない。
 あんな馬鹿丸出しな心中を覗かれたら、恥ずかしさのあまり灼熱地獄にダイブしていたところだ。

 「いーじゃん。だって、面白いんだもの」

 そう言うと抱きしめる腕を強くし、こいしは体をぎゅうと押しつけてきた。

  (今日のこいしはやけにテンションが高いわね。……何か良いことでもあったのかしら)

  普段からニコニコと笑みを作ってはいるが、その笑みは文字通りの作られたものでしかない。

  こいしはかつて、他者の心を読むことに耐えられなくなり、自身の第三の瞳を閉じた。
 その結果『相手の心を読む能力』は封じられたが、代償として感情の全てが稀薄になってしまった。

  それでもこうやって笑みを作っているのは、彼女なりの処世術なのだろう。
  愛らしく笑みを絶やさない少女を相手に嫌悪を憶えるのは、それこそ橋姫ぐらいなものだから。
  しかし、その笑みは湖面に張られた薄氷のように、儚く脆いもの。
  どんな拍子で砕けるのか誰にもわからない。おそらくそれは、こいし自身にもわからないもの。

  ……さとりはかつて、こいしが一人でいるところを見たことがある。
  なんとなく声を掛ける気になれずに、さとりは妹の顔を横からそっとのぞき込んでみた。

  その時のこいしの顔は、ぞっとするほどの無表情だった。
  何もない中空の一点を瞬きもせずに見つめ、人形のような表情を微動だにも崩さない。
  そして、さとりの存在に気付くと、ゆっくりと笑みを作ってみせる。
  『あー、お姉ちゃんだー。変な顔してどうしたの?』
  そう言って、こいしは可愛らしく首をかしげてみせたのだ。

  ……能力だけではなく、感情さえも捨ててしまったことにさとりは酷く憂いた。

  だが、それと同時に今のこいしを見ると、能力を封じたことも悪くないように思える時もある。
  そう思えるほど、能力を封じる以前のこいしは酷いものだった。
  他人から嫌われることを、どうしようもなく恐れていた。この世界の全てのものに怯えていた。
  嫌われ者であっての覚り妖怪なのに、この少女の心はあまりにも人間的過ぎた。

 そんなこいしが、うにゃー、と猫撫で声を上げて、さとりの胸に顔を埋めて甘えている。
  その愛らしいこいしの仕草は虚飾に彩られたものかもしれない。
  だけど、さとりは胸の奥が温かくなっていくのを感じている。だから、今はこいしを信じられる。

  さとりの胸は母性を感じるほどふくよかなではないが、姉妹のスキンシップとしては上等な部類であろう。

 くすぐったさを感じながら、さとりはこいしの少しだけ癖のある後ろ髪を撫でた。
 そうしてやると、こいしは嬉しそうに喉を鳴らして、体を振るわせた。こいしの甘い香りが鼻腔に広がる。

 さとりは、その匂いに微かな違和感を憶えた。

  こいしの体から漂うのは、少女特有のどこかミルクのような匂い。
  その甘い香りに混じり、饐えた血の臭いがした――。








 『………ああああああああああああああああああッッ!!!!』

  ――絶叫。絶え間ない絶叫が聞こえた。

 怒り、激痛、悔恨、生の渇望、そしてそれらを軽く塗り潰す恐怖。
 それらの感情全てを吐き出した、地底全体に響き渡る哭声。

 驚いたことに、その叫びは死体の口から発せられていた
  ぽっかりと開いた口から、機能を失った筈の声帯を限界まで振るわせている。

 

 …………。

 ……もちろんそれは、さとりの気のせいだ。
  何があろうとも、魂の抜け落ちた死体から、声が聞こえるわけがない。

 そう思った途端、ただの死体に戻っていた。

 ただ、先刻までとは違い、死体の表情が苦悶と恐怖に歪んで見える。
 何の変化もない。ただ、さとりの印象がそういう風に変わっただけの話。

  あの乱れた髪も、開かれた口も、見開いた目も、なりふり構わずに必死に命乞いした結果。
  だけど、それは聞き入られることなく、無残に殺されてしまった。

 (だったら、それは誰に?
   ……ああ、何を馬鹿なことを。そんなのは、こいしに決まっている)

 視線を正面に戻すと、同じようにこいしも死体を見上げていた。
  頬が赤く上気し、目を細め、これまでとは違う性質の笑みを浮かべている。

  少女らしからぬ、妖艶とも言える色っぽさがそこにはあった。
 まるで、それは恋い焦がれるような――。

  こんな表情のこいしは、第三の瞳を閉じてから久しく見せていない。
 それはふらふらとどこかへ放浪した後、稀に見せる顔だった。

  さとりは、決して開くことのなかったこいしの第三の瞳が、僅かにうずいていることに気づいた。

 死体から、聞こえた叫び声の正体。
  それは、こいしの第三の瞳から漏れ出した記憶の残滓とも呼べるものだ。
  記憶のカスを、さとりの瞳が垣間見て、それが当事者である死体とリンクした。

 つまりこれは――。こいしが殺し、ここに置いたのだ。

  結末は、なんてことはないありきたりなものだった。
  殺人事件の犯人は身内だっただなんて、あまりにもチープな話じゃないか。

  「……こいし、これは何なの?」

 問い詰めるような口調になってしまった所為か、こいしはきょとんとしている。
  心の声が聞こえない以上、まだ犯人と確定したわけではないが、十中八九こいしの仕業だろう。

 地霊殿はそこら墓地以上に死体だらけの場所であるが、それでも玄関先に突き刺しておく趣味はない。
  仮にこれが、彼の串刺し公のような示威行為だとしても、地底の妖怪にとってはまったく無意味なもの。
  特に鬼の連中は、この惨状を肴にして、ガハハと酒盛りをしかねないほど、デリカシーとはほど遠い。

 「えっと、死体かな?」

 ……呆気。

  こいしは「お姉ちゃんは、そんなことも知らないの? 馬鹿なの?」とでも言いたげな顔をしていた。
  もし本当にこいしがそう思っていたら、さとりは泣いてしまう。
  世界の全てから嫌われても構わないが、血を分けた、たった一人の妹だけには嫌われたくない。

  ああ、今日ほど、こいしの心が読めなくて良かったと思ったことはない。

 「そういう意味じゃなくて、なんでこんなことをしたの?」

 気落ちしそうになったが、きちんと問い質す必要はある。
 地霊殿の主として、こいしの姉として、妹の咎はなんとしても戒めるべきだろう。

 「んーと、なんとなくかなぁ? 強いて理由を付けるなら、いい気になっていたからかな」

 今まで姉に抱きついていたこいしは、突き放すようにさとりから離れた。
  そして、軽い足取りでふわりと身を翻すと、レードマークである山高帽子を深く被り直した。

  口許は変わらず、笑みを形作っていたが、瞳は帽子に隠れてしまう。
 碧色をしたこいしの眼は帽子のつばの下だ。

   ……これでは心だけではなく、表情からでさえもこいしの考えがわからない。
  こんな時、さとりは妹であるこいしの心が、他の誰よりも遠くに感じてしまう。

  (……いえ、貴方の心は本当にここにあるの?)

 妙ちくりんなステップでこいしは、くるくると回る。

 「だってね、あはは」

 端から見れば、年端も行かぬ童女が出鱈目に踊っているようにしか見えない。
 足場の悪い地底の岩盤を、こいしは無意識に避け、何がおかしいのか哄笑を尚も続ける。

  さとりは、こいしを愛していた。

  だけど、さとりはこいしがわからなかった。
 こいしは、姉のことを好きでいてくれているのだろうか。それすらもわからない。


  「だってね。……お姉ちゃん好きだよ。大好き。ラブ」
 「な!?」

 何の前触れもなく、さとりの心を見透かしたようなことをこいしが言ってのける。
  こいしの第三の瞳は当然閉ざされたままだった。さとりの心を覗かれたわけではない。

 「……だからね。お姉ちゃんも私のことを、ずっとずっと、好きでいてね?」

 それだけ言い残すと、こいしの姿は物音一つ立てないで、その姿を消した。
  無意識の能力を使ったのだ。こうなれば、こいしは誰からも知覚されることはない。

  目元は最後まで、帽子に隠れたままだった。
  だけどあの時、こいしの頬が先ほどとは違う様子で紅潮して見えたのは、さとりの気のせいだろうか。

 「まったく、あの子は言いたいことだけ言って……」

 こいしの身勝手な言動にぶちぶちと文句を言うも、悪い気分ではなかった。

 「私も好きよ。ずっとずっと、好きでいるに決まっているでしょう」

 まだ近くに、こいしはいる。五感からは何も感じられない。
  だけど、こいしはここにいると、なんとなくわかった。

  だから、さとりの言葉はこいしに届いただろう。

  考えがわからなくても、こいしがさとりを好きであるという気持ちは本物だと確信した。
 それだけわかれば、さとりは充分に満ち足りる。

 さとりの胸の蟠りが、溜飲が下がるようにすっきりとしていた。
  ここ数十年ぶりと言えるぐらいに、晴れやかな気分だった。

 そんな気分の所為か、死体の存在なんてすっかりどうでもよくなってしまった。
 それにいい加減、死体を見上げていることに首の疲れを感じていた。
  普段から俯きがちに生活をしている覚り妖怪。こんな風に宙を見上げることなんてまずない。

 そもそも、地底に住む妖怪が上を見ること自体が滑稽でしない。
  まったく、心底どうでもいいことに時間を使ってしまったなと、さとりは思う。

  「……まあ、こんなものはお燐に一言言えば、喜んで運んでくれるでしょう」

 愛くるしく動き回るペットの姿が目蓋の裏に浮かび、自然と頬が緩む。
 さとりは両手を挙げて伸びをすると、何事もなかったように地霊殿のエントランスを潜った。











 後書き

 初の東方オンリーのSSです。
 ある意味、処女作。

 百舌が行う早贄は、その意図がまったく解明されていないらしいですね。
  カエルが、枝に突き刺さっているのは、人の目からみてもゾクゾクするものです。
  しかし、大阪は何を思って、百舌を府鳥にしているのだろうか?

  とまぁ、鳥の考えがわからないように、
  喜怒哀楽を無くした覚り妖怪の考えは、誰にも及ばないものではないでしょうか。

  テーマは「少女で妖怪、表裏一体」

 2009.6.26


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