「文々。異聞録」 第2話












 男を撒くことに成功した俺たちは商店街の一角にある公園へと降り立った。
 そのクーフーリンを名乗る男は諦めたのか、もうこの付近にはいないようだった。

  このマウント深山商店街は、俺は昔から利用しており知り合いばかりがいる場所だ。
 ただ夜もかなり更けているためか、公園は冷たく感じる程度に閑散としており誰一人としていない。

 ……だがそなことよりも、あの逃走劇はもう思い出したくないものだった。

  俺はあれから、少女に抱きかかえられたまま深山町上空を疾走した。
  その常軌を逸した加速度により、早々と意識を手放していたので細部は忘れたが、
 ジェットコースターなんて遊びに等しい恐怖だったのはなんとか記憶している。

 そして、その速度にも尋常じゃない脚力で追いついてくる男の姿があった。
 高速飛行する少女を、地面を走るだけで追いかけてくるなんてただ事じゃない。

  だがそれすらも少女はなんら焦る様子を見せず、面白そうに見下ろしていた。
 その時の顔もまた、俺の脳裏に刻まれて鮮明に刻まれている。


 それにしても。

  意識を外に預けた男子生徒をお姫様だっこで抱えて、空を颯爽と飛ぶ少女。
 それを憤怒の表情で追いかけるタイツのようにも見える青い外套を着た男。
 おおよそ、シュールな光景だった。

 俺の冬木における名誉の為にも目撃者が居ないのを切に祈らざるを得ない。
  尤も並の動体視力では人影すらも曖昧なほどの速度だったとは思うけど。

 しかしこの少女自身はあの途轍もない重力加速度に対してはなんでもないんだろか。
 少女は物珍しそうな様子で公園を見ている。……まあ、なんでもないんだろう。

 俺と少女は近くのベンチに揃って腰を下ろした。
  並んで座ってみると、この少女の華奢さに改めて驚かされる。
  この痩身のどこで中肉中背の男の軽く抱える力と、並外れたスピードが出せるのか不思議で仕方が無い。
  物理的なエネルギーの法則からは、完全に超越していることは言うまでもなかった。

 彼女の背中に生えていた翼は消え去っていた。

  見間違いかと思って、回り込むように背中を覗くがやはり見あたらない。
  ……確か鴉のような黒い翼が生えていたと思ったんだけど。

「……どうかしましたか? もしかして私の背中に何かゴミでも付いています?」

 いや、むしろ付いているはずのものがないから見てたのだが。
 流石にこれ以上じろじろと観察するのは失礼なので、何でもないと少女に告げる。

 「ふふ。それにしても、召喚された直後にあんな鬼ごっこをするとは思いませんでしたね」

 丁寧な言葉使いだ。
  その話し慣れた感じからして、普段から使っている口調のように思える。
  もしかしなくても、上下関係の厳しいところで育ったのかもしれない。

 だがそれとは逆にかなり剛胆な性格であることが窺えた。
 命のやりとりの一歩手前までいったというのに、今は何でもないようにしている。
  あの命がけの逃走劇を『鬼ごっこ』の一言で片付けるのは、何かの冗談なんだろうか。

 「しかし、クーフーリンという著名な方に会えるとは思いもしませんでした。
  どうしてかわかりませんが、非常に好戦的だったので思わず逃げてしまいましたけど、
  できればインタビューがしたかったですね。もったいなかったです」

 少女は赤い目を輝かせて、どこからか赤い和風手帳と万年筆を取り出した。
  くるりと万年筆を浪人回しすると、手帳に何かを書き込み始めた。
 かなり使い込まれた手帳だ。その万年筆も相当の年代ものだろう。

 「あ、すみません。職業柄ネタになりそうなことは書き留める癖がありまして」

 少女は少しだけすまなさそうにするが、目線は手帳から外さないし、筆を持つ手も止めようともしない。
 そう言えば、あの男に対して自分は新聞記者だと名乗っていたな。

  もしかしなくてもそのことだろうか?

 「……ああ。
   いろいろあって混乱しているけど、お前の名前は射命丸文でいいんだよな」

 声に出すことなく、少女はコクリと首肯してみせる。

 「俺は衛宮士郎、さっきの家の家主だ。
   正直、何が起きたのかさっぱり理解していない。なんでもいいんだ、教えてくれないか」

 区切りの良いところまで書き終えたのか、少女は手帳をパンと閉じて形のよい顎に万年筆を当てた。

 「では、士郎さん。私のことは文とお呼びくださいな。
  しかし、私の疑問は士郎さんの疑問でもありましたか。ふむ、それはちょっと困りましたね。
  ……私に判るのは、私は私の意志で貴方に召喚されたことだけです。それ以外は何もわかりません」

 頼みの綱だった少女も、この事態を全くと言っていいほど理解していないみたいだった。
 だけど、自分の置かれている状況に落ち込んだ様子には見えない。

 ……まてよ。
 今聞き捨てならないことを言わなかったか? 『私が貴方に召喚されたこと』だって?

 「ちょっと待ってくれ。俺は文を召喚なんかしていないぞ」

 召喚という高度な魔術は俺みたいな未熟な魔術使いにはやり方すら知らないのだ。
  流石にその言葉には文は目を丸くして驚いていた。

 「俺はあの男にいきなり襲われて、武器を探すために土蔵に入っただけだ」

 少女は腕を組んで、考える仕草を取る。
  どういったことなのか、自分なりに考えているのだろう。

 「いえ、士郎さんが私を召喚したというのは間違いないと思います。
  その左手の模様から微弱ながらも私と魔術的な繋がりを感じますし」

 ……左手?
 言われたとおりに、左手を見ると甲の部分に赤い紋様がはっきりと刻まれていた。
 確かこれは今朝まではみみず腫れのようになっていた箇所だ。

  思い出してみれば、文が現れた時に焼きごてを押されたような痛みが走った。
 文の言う繋がりというのはよくわからないが、紋様からは確かに魔力を感じる。

 「それ以外にも召喚に使われたと思う魔法陣が私の足下で浮かんでいました。
  なので私を召喚したのは士郎さんで間違いないでしょう」

 少女は行きを軽く吸って、一拍を置く。

 「それでここからは私の推察です。鵜呑みにはしないでください。
  ……まず、士郎さんは私が召喚される前にクーフーリンという脅威に襲われていました。
  そして必死に逃げ出そうと、土蔵に駆け込み生き残る為の術を探した。
  その時の感情的な高ぶりが魔法陣の起動キーとなったと考えて見るのはどうでしょうか。
  そしてこの地は召喚の詠唱が必要ない程に、土台ができています。
  尤もこの手のことは私の専門外でさして明るくはないので、なんとも言えませんけど。
  ……あ、あそこは住まいにしては変わっているなとは思いましたが土蔵でしたか。
  それはそれは失礼を致しました」

 そんな推察に加えて、ちょっとした勘違いを訂正する。
 文が少しだけ恥ずかしそうに万年筆のキャップで頭を掻く。
 そういえば、少女が現れた時に土蔵を俺の家だと変な思い違いをしていたな。

 だが文の言うとおり、俺はあの男に襲われた時、こんなところで死んでたまるかと強く思った。
  そして、何とかして生き延びようと土蔵に転がり込んだ瞬間に風と光に包まれたのだ。

 それが結果としてこの少女を召喚することになるなんて誰が思うのだろうか。
 だけど、そのお陰で俺はあの男に殺されずに、こうして怪我一つなく生き延びることができた。

 「……だとすると偶然とはいえ、本当に運が良かったな」

 そんな俺に対して少女は、ふふんと軽く鼻を鳴らす。

 「いえいえ、この出会いを偶然で片付けるのはあまりにも勿体ない。
  ですのでこれは起こるべくして起きた必然と考えましょう。
  吸血鬼の好きそうな言葉を借りるなら、これはまさに運命です。
  今日のこの出会いを運命の夜とでも呼びましょうか。ふふ、低俗で恥ずかしい言葉ですけど」

 彼女は少し気分が高揚しているかもしれない。
  だけど、そうやって言葉を飾った割には冷静に見える部分にある。……なんだかよくわからないな。

 尤もそれ以前に、語彙の少ない俺はそんな彼女の言葉なんと返せば良いのか判らないでいたが。











 ――――――――――











 「ずっと気になっていましたが、その服の染みは血ですよね。
  貴方自身の血液に見えますけど、それにしては外傷が見あたりませんね。
  ひょっとして、ヒーリングの『魔法』でも使われましたか?」

 今着ている穂群原学園の制服に首を傾けて見てみる。
 薄い茶色をした制服は俺の血で染まっており、時間経過によって凝固していた。
 血液以外にも制服にはあの男に突かれた穴が開いているので、補修するのはもう無理だろう。

 それと文の言う『魔法』という単語には未熟ながらも引っかかりを覚えるが、
 俺なんかが訂正を求めと逆に恥を掻きそうなので、今は無視しておこう。

 ちなみに『魔法』とは現代技術によって到達の叶わない奇跡であり、
 逆に『魔術』とは時間と資金さえあれば再現可能なものを指す。
  つまりは治療を目的とした『ヒーリング』は『魔術』であり『魔法』には該当しない。

 「いや、俺はヒーリングなんて使えない。
   俺が使えるのは強化の魔術だけだ。……それもかなり成功率が低いけどな。
  学校であの男に槍で突かれたはずだけど、気づいたら傷が塞がっていた」

 刺された後のことはまるで思い出せなかった。
  なんとなくポケットに入っている赤い宝石のペンダントと握る。
  
  ……確か俺が刺された場所に落ちていたんだっけな。
  だとすると、この宝石の持ち主が助けてくれたのだろうか。


 いい機会だったので、文にこれまでの経緯を追って説明していく。

  あの槍の男が学校の校庭で何者かと戦っていたこと。
 男に気づかれた俺は槍で胸を貫かれて意識を失ったが、気がつくと治っていたこと。

  そして家で再び強襲されて、文に逢えたこと。

 こうして順序立ててみると、この数時間でこれまでの人生がひっくり返るような経験をしているな。

 「ふむふむ、そんなことがあったんですか。しかしそうなってくるとやはり疑問は尽きませんね」

 これまで提示された情報を整理して、いろいろと考察してくれているようだ。
  改めてこの少女の聡明さに感嘆させられる。
  ほんの少しの後、何か考えが纏まったらしく、自身の考えを話し出す。

 「これもまた強引な解釈ですから、話半分に聞いてくださいね。
  ……私もそうだったようにクーフーリンも召喚された存在なのではないでしょうか?
  その根拠として、彼の身体はエーテルによって編まれており生身の肉体ではありませんでした。
  私の知り合いにも似たような人がいますので、これは間違いないでしょう。
  ただ英雄を降霊なんてことは、人間の術者なんかにできるはずがありません。
  しかし、さっきも話した通りこの地はそれを可能とするだけの特別な力があります」

 ――特別な力か。
 俺が文を召喚したのと同じように、クーフーリンもまたその力によって誰かに喚ばれたのだろうか。
 確かに文やクーフーリンのような力を持つ者が冬木に偶然集まったと考えるよりは自然だろう。

 「その特別な力というのはなんなんだ?」

  「すみません。私にも分かりかねます。ですが――」

 少女は思いを馳せるように目を瞑った。

  「ですが、私はその力のおかげで、今この地に立っている」

  ベンチから飛び跳ねて軽く伸びをすると、周囲を見渡すようにくるりと一回転する。
  その好奇心に輝く瞳には、こんな有り触れた世界をどう映しているのだろうか。

 でも一つだけわかったことがある。
  彼女は何かしらの目的があり、俺の召喚に応じたのだろう。

 座っている俺の前に立ち、自然と文を見上げる形になる。
  月の光を背にして瞳だけを赤い光で灯す少女は、幻想的なまでに美しかった。

 「ごめんなさい。私にわかるのはここまでですね」

 その顔に暗いものは一つもない。好奇心に満ちた怜悧で秀麗な表情。

 「では早速ですが、士郎さん。
   今度は貴方の口からこの世界のことを聞かせてくれませんか――?」


 …………。


 彼女が何かを質問し、俺がそれに答える。

 その内容は多様だった。
 この国の政治宗教といったことから、極めて日常的で些細なことも訊いてくる。
 今更だが、彼女はこの世界の住人ではないらしい。
 俺にとっては何でもないことでも、彼女は関心した様子でメモを取る。
 何か疑問があれば要点を的確に突いてきた。彼女は聞き上手で、話している俺も面白い。

  更には公園になるブランコ、滑り台、シーソーといった遊具のことなんかも訊いてきた。
  目に映る全てが、彼女に取って新鮮なのだろう。

  ――夜は一層更けていく。

 「……ところで文って一体何者なんだ? あの男みたいにどこかの英雄なのか?」

 一通り話し終えた後、ずっと疑問に思っていたことを訊いてみた。

 「いえいえ、私はそんな大層なものではなく、一介の新聞記者に過ぎません。
  尤も私は人間ではなく、天狗のブン屋ですが」

 隠すことでもないようで、手帳に目を置いたまま酷く平然と告げた。

 「……天狗だって?」

 天狗というと、太郎坊や鞍馬天狗に代表される日本ではポピュラーな妖怪だ。
 彼女の翼を見た時から人外の存在であるのは何となく想像していたが、まさか天狗だったとは。
 一般的に天狗とは赤ら顔で長い鼻を持ち、山伏の格好をしていると言い伝えられている。
 文のような女の子が天狗だったとすると、自分のイメージと大分剥離している。
 言われてみれば、既に違和感を覚えなくなっている頭襟と高下駄に似た靴は天狗の服装の名残だろう。

 「そうです」

 そう言うと、文は今まで隠していた黒塗り翼を大きく広げてくれた。
  やはり俺の見間違いじゃなかったようだ。

 改めて見ると、その漆黒の翼は美しさと共に日本人に根付く妖怪に対する畏怖を感じさせた。
 ……そして黒い翼の生えた天狗と言えば一つしか思いつかない。

 「もしかして、文は鴉天狗なのか?」

 「はい、その通りです。こうして知られているのはやはり嬉しいですね」

 そう言って、文は若干誇らしげな表情を見せる。
  顕示欲というものは人間なら大小もあるが誰にも感情だ。それは妖怪も例外ではないのだろう。


 公園に設置された時計を見ると、どうやら文と二時間以上は話していたようだ。
  ほかにもいろいろと聞きたいこともあったが、それはまた次の機会にしよう。

 「じゃあそろそろ帰るか。あの男も流石にもう諦めただろうし。
  ……念の為に訊いておくけど、文もうちに泊まるよな? 召喚したのは俺みたいだしさ」

 「あ、いいんですかー。実はねぐらをどうしようかと思っていたので、非常に助かりますね」

 俺の提案に破顔する。
 彼女は笑みを浮かべることが多いが、それとは少し違う笑顔に微かに早鐘を打った。
 何故か少しだけ気恥ずかしい気持ちになり、思わず目を逸らしてしまう。

 「それじゃ、帰ろうか。
   文の服装は目立つけど、この時間帯なら大丈夫だと思う。
  ……どちらかというと今は俺の血まみれの服の方が問題だろうし」

 魔術に携わるものとして、神秘は秘匿するものである。
  文の翼はどうなっているのか今は隠しているようで、線の細い背中があるだけだ。
 頭襟と奇妙な靴は目立つが、仮に目撃されたとしても奇抜と取られるぐらいだろう。多分。

 だけど俺のこの血塗れな姿を目撃されたら警察を呼ばれかねない。

 「そうですね。では、目立たないように飛んで帰りましょうか?」

 そんな恐ろしいことを少女は平気な顔で言ってのける。
  あの出来事は既に俺のなかではトラウマとして形成しつつあった。  

 「……いや、それだけは勘弁してくれ。
  この時間帯なら人通りも少ないし、俺の血も暗くて目立たないと思うから歩いて帰ろう」

 意識を失ったこともあるが、それ以上に女の子にお姫様抱っこはされたくない。

 「あはは。そうですね。ではそうしましょう」

 そして、俺と文は今までお世話になったベンチから立ち上がった。
 疲労の所為で立ち眩みを起こしかけたが、自分から歩くと言った手前だ、腹に力を込めて踏ん張る。
  しかし今日は本当にいろいろとありすぎて本当に疲れた……。

 文の足取りは軽い。
  疲れを感じさせないどころか、機嫌良く鼻歌さえも歌っている。
 そのへんてこな靴で普通に歩いているようだし、ものすごいバランス感覚だと思う。

 まあ、今日は家に帰ったら文の部屋を用意して風呂に入ろう。
  それと疲労はあるが、魔術の訓練は必要だろう。
  魔術訓練は衛宮士郎にとって習慣であり、やらないと逆に眠れない程度には日常に組み込まれている。

 ……いや、そんなことよりも待て、衛宮士郎。

  俺は隣を歩くこの少女と一緒に暮らすのか?
  それは一般的に言うところの、ドーセイという奴じゃないのだろうか。
 俺はとんでもないことを考えもなしに言ってしまった気がする。

 さっきは咄嗟に出た言葉でそこまでの考えは回っていなかった。
 天狗だという彼女は見た目通りの年齢じゃなさそうだけど、外見は10代半ばぐらいの少女だ。
 しかもゾッとするぐらいに可愛い女の子だ。

  ……ちらりと横目で文の顔を見る。

  鼻歌は止めていたが、そういったことを気にした様子はなさそうだった。
  うんまぁ、いろいろと問題がありそうだけど、それは明日の朝にでも考えよう。


 だがそんな心配は他所に、運命の夜は長く続きそうだった――。



































 後書き

 長い説明の巻。
  3話はもう少し動きのある話のはず。

 しかし今回は推敲していて重複表現の多さに辟易しました。
  ある程度は直しましたけど、自分の語彙の無さに泣けます。

 2007.6.12

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