「文々。異聞録」 第4話






 遠坂はそれ以上は黙して何も語らなかった。もう言うべきことは言い終えたのだ。
  紺碧色の感情の読み取れない眼差しがただ俺を見ていた。

 彼女は俺に聖杯戦争を降りろと言った。
 この場で左手の令呪を放棄して文との契約を抹消し、聖杯戦争を棄権しろと。
  そうすれば、このふざけた命のやりとりから逃げ出すことができるのだと。

 もし遠坂が非情な魔術師だったら、あの場で俺は殺されていたと思う。
 しかし、彼女はセイバーを剣を納めさせ、俺に選択肢を与えてくれた。

  ……それは遠坂凛の持つ純然な優しさなのだろう。誤魔化したり、無下にしていいものではない。

 だけど――。

 「……遠坂、一つだけ確認しておきたいことがある。
  この聖杯戦争は関係のない人たちを巻き込むようなものなのか」

 『確認』と訊いたが、これは半ば『確信』していた。
  魔術師というもの性質は切嗣に聞かされていたので知っているつもりだ。

 「ええ、魔術師が他者を顧みることはまずないわ。
  聖杯戦争で関係のない一般人が巻き込まれることもあるでしょうね」

 遠坂は事実を端的に冷静に述べる。
 だが、遠坂の顔にかすかな翳りが見えたのは見間違いではないと思う。

  だったら、その言葉に俺の意志は固まった。

 「なら遠坂。俺は――、聖杯戦争に参加する。
  関係のない誰かが傷つくというのに一人で逃げ出すわけにはいかない」

 遠坂は俺の真意を測るように俺の目の内を覗き込むが、決意は決して揺らがない。
  例えどんなに自分が危険にさらされても、無関係の誰かが泣くような事はあってはならない。

 遠坂が重い溜息をついた。

 「……本気のようね。その言葉は私への宣戦布告と受け止めてあげる。
   ――おめでとう、衛宮くん。たった今からあなたと私は殺し合う関係になったわ」

 そう皮肉混じりに吐き出した。

 「いや、俺は遠坂とは争いたくない!」

  それが聖杯戦争のルールだとしても、知り合いと殺し合うなんかどう考えてもおかしい。

 「何を言っているの? 聖杯戦争は騙し合い、そして殺し合う魔術師同士のバトルロイヤルよ。
  残りの一組になるまで聖杯戦争は決して終わらないわ」

 遠坂は苛立ちを隠そうともせずに立ち上がった。隣で待機していたセイバーも遠坂に続く。

 「だけど! 俺は……!」

 「衛宮くん、甘えも大概にしなさい。
  これで私と貴方の立場はイーブン。次に会ったら気兼ねなく殺すわ。
  今夜のところは見逃してあげるけど、次に会う時には覚悟しなさい。
  ……だけど最後に一つだけ助言をあげる。
  今から聖杯戦争の監督者に会いに行きなさい。新都の言峰教会にいるわ。
  それじゃあね、衛宮くん。お茶ごちそうさま。――ばいばい」

 それ以上は何も言うことはないと居間から出て行った。
 セイバーは俺たちを一瞥すると、遠坂の後を追う。
  彼女は徹底して俺たちに対する警戒を解くことはなかった。

 少し経ち、玄関の引き戸が閉じる音が居間まで響く。

 「……くそ!」

 畳に拳を叩き付ける。んなことをしても胸の蟠りは解消されはずもなく、腕に痺れだけ残った。

 遠坂の言うことは正しいのだろう。聖杯戦争に参加すると言った以上、俺と遠坂は敵対関係だ。
 だとしても、俺は遠坂と殺し合うなんてことは決してできない。

 ……畜生! どうすればいいんだ!

  無意味だと知りつつも、再び畳に向かって拳を下ろす。


 それまで寡言に徹した文が俺の方へと対面する形で座り直す。
 そして俺の痺れる手を取って、そっと撫でてくれた。柔らかくきめ細かい、少女の手。

 そして俺の手をぎゅと握り、俺の目を見た。
 その目に引き込まれそうな錯覚。色素の薄い赤の瞳、――血の赤だ。

 「士郎さん、ありがとうございます」

 ありがとうございます――。

  その言葉を反芻してやっと意味が飲み込めるも、俺は彼女に感謝される覚えは一つもない。
  それどころか、さっきからみっともないところを見せてばかりだ。

 「サーヴァントの現界させるにはマスターが必要です。
  もし契約を破棄されていたら、私はここにはいられなかったでしょう」

 だけど、それは違うんだ。
  俺は聖杯戦争に参加すると言った時、彼女のことをまったく考えていなかった。
 自分の都合ばかりを優先させていて、文のことはすっかり頭から消えていたんだ。
 これは決して俺だけの問題ではないのに、自分の身勝手さで文を振り回してしまった。
  ……度し難いほど情けないじゃないか。

 「……ごめん」

 聡明な彼女だ。俺の浅慮さには当然気づいているだろう。
  俺が何を謝っているのかもわかっていると思う。

 「いえ、結果オーライですので、気にしないでください」

 未だ俺の中には文に対しての謝罪の気持ちは残る。
 だが、『気にするな』と言ってくれた以上、これ以上謝っても文を不快にさせるだけだろう。

 「……ありがとうな」

 喉元まで出かかっていた謝罪の言葉を飲み込み、感謝の言葉に書き換えた。

  少女はにこりと、笑ってくれた。

 「――では、凛さんが言っていた言峰教会に行きましょうか」

 「ああ」


 電話帳で住所を調べると、冬木教会という名前の教会が見つかった。
  名前は違うが、おそらくこの教会のことであろう。
  遠坂曰く、今回の聖杯戦争の監督者だというが、教会本来の業務もやっているみたいだ。

  住所を見るに、歩きだとかなりの距離があるが、夜の間には帰ってこれるだろう。

 玄関に向かう途中、自分の格好がとんでもないことに気づいた。
  そういえば、まだ血まみれの制服を着たままじゃないか。
 遠坂もそのことを何も突っ込まずにいたから、すっかり失念していた。

 「ちょっと待っててくれ。これを着替えてくる」


 少し時間が掛かると思うので、遠坂が勝手に飲んだお茶を淹れなおし、茶菓子を用意して待ってもらう。
 文はそれに対して『わぁ』と嬉しそうな声を上げた。……そう喜んでくれると、こちらも嬉しくもある。

 嬉しそうにお茶を嗜む少女の姿は実に絵になる光景だと思う。
 その様子に暫く見惚れていたが、当初の目的を思い出して慌てて自室へ行く。

 制服を脱いで、普段着のトレーナーとジーンズへと着替える。
 全身から血の臭いがするのでシャワーを浴びたかったが、これ以上文を待たすのは悪いだろう。

 文に声を掛けると、名残惜しそうに残ったお茶を見つめていた。

 そういえば、彼女の格好も少し目立つかもしれない。
 着ている服は若干クラシカルだが、現代風のものなので問題はないだろう。
  だが、問題なのは頭襟と長下駄のような靴だ。
  あまり奇抜な格好だと他のマスターに勘付かれる可能性もある。そもそも目立つのは得策ではない。

 文には悪いが、頭襟を外して貰って、靴は代わりに藤ねえの赤いスニーカーを貸す事にした。
  しかし藤ねえは住んでいるわけでもないのに、何で靴なんかが置いてあるんだろうか。
  事情を話すと思いの外に快諾してくれた。彼女も無闇に目立ちたくはないようだ。

 頭襟を取り去り、スニーカーを履く文の姿は普通の少女しか見えなかった。
  だが、どういうわけか、肩にさっきまではなかったカメラを掛けている。
  それも相当使い込んでいる様で、写真のフィルムを手動で巻く必要のある旧式のタイプだ。

「文、そのカメラは?」

 よくぞ訊いてくれましたと言わんばかりに顔を綻ばせる。

「新聞記者である私の相棒です。知り合いの河童が作ってくれたんですよ。
 私がどんなスピードで飛んでも、被写体がブレないという優れものです」

 誇らしげに胸を張る。記念に一枚と言って俺の写真を撮ってくれた。照れくさい。
 文がカメラを構える姿はどことなく風格があって格好良かった。

 ……スルーしそうになったけど、河童って何だ?
 河童というと頭に皿を乗せていて、人間を川に引きずり込んで尻子玉を抜くあの妖怪のことだろうか。
 だが、文のような少女が天狗という例もあるので、河童もまた俺の想像とは違うかもしれないが。

 「河童って?」

 「エンジニアのにとりさんです」

  にこにこ。

 「…………」

 深く訊きたい気もしたが、俺の価値観が崩れそうなのでぐっと堪えようと思う。


 ――――――――――


 街路灯の明かり頼りに暗い夜道を文と歩く。
 深山から新都までだと徒歩ではかなりの時間が掛かるが、
  文が何かと訊いてくるので退屈はしなさそうだった。

 文は歩きながら赤い手帳を手にとって、俺の話を纏めている。
 どうやら彼女は鴉天狗といっても鳥目ではないようで、夜目は人間よりも利くようだった。

 深山と新都を二分する未遠川に掛けられた冬木大橋に対して文が感動していたのが微笑ましい。
 江戸時代からタイムスリップしてきた侍みたいな反応みたいな反応を示していた。
 ……走行中の自動車を見ても、どういったものか理解していて鉄の猪だと言わなかったのは残念だったが。

 新都に入るとがらりと町並みが変わる。
  深山の昔ながらの住宅街だが、新都はオフィスビルや娯楽施設が建ち並ぶ商業地域だ。
  文はその光景に物見遊山と言った様子で目を奪われている。
  どうやら質問も一区切りしたみたいなので、今度は逆に俺から話を訊いてみる事にした。

 「ところで文はどんなとこに住んでたんだ?」

 文のことは天狗であると言うこと以外は知らない。
 自分が質問されるとは思っていなかったのか、ちょっと驚いてた様子だった。

 「……私ですか? えーとですね。
  私は幻想郷という巨大な結界で隔絶された土地に住んでいます」

 ……巨大な結界で隔絶された土地?
  いきなり突拍子もない話が飛び出して来たが、大丈夫なんだろうか。

 「そこには、外の世界――つまりこの世界において幻想とされている妖怪や神々の世界です。
  もちろん人間も住んでいますが、その数は妖怪に比べると多くありません」

 既に話に付いて行くのにやっとだが、
  本当に簡単に要約するとどうやらこの日本のどこかにそんな神秘そのものといえる場所があるらしい。

 「明治時代の初期頃に隔絶されたので、文明はその時から停滞しています。
  そのかわりに精神の発展がすさまじく、魔法の類はこの世界よりも発展しているでしょうね」


 他にも種族が魔女という生まれついて魔に携わるものや、
  人間をやめて魔法使いという種を確立したものもいるそうだ。
 俺のような異端の魔術使いではなく、相応な魔術師が聞いたら垂涎もの話なのではないだろうか。

 文はその幻想郷で人間が立ち入ることがない八百万の神々が住む山に居を構えているらしい。
 その山は幻想郷のなかでも独自の文化と規律が築かれていており、
 さっきの話に出てきた河童の技術者や、文のような天狗の新聞記者が他にもいるんだとか。


 「――それでですね。
   天狗のブン屋は毎年新聞大会を開いてまして、その大会に優勝するのが目下の目標です。
  ……実は私がここに来た目的は外の世界のことをネタにすることだったんですが、
   こんなことになるとは思いもよりませんでした。まぁこれはこれでネタになりますけど……」

 相づちを入れる暇もなく、彼女は今まで以上に饒舌に話してくれる。
  考えてみれば、新聞記者というのは情報を伝える職業だ。己の見聞を披露するのは嫌いなはずがない。

 ……今、さらりとこの世界に来た動機を話したな。

  新聞のネタの為だけに文は今この世界にいるのだろうか。
  俺にはよくわからないが、天狗の新聞大会というのは彼女にとって重要なことなんだろう。
 そのことを話す文はいつものように薄く笑っているが、目だけは真剣味を帯びていた。


 …………。


 新都のビル群が並ぶオフィス街を越えた郊外に言峰教会があった。
 教会は思っていた以上の豪奢な建物であり、夜という雰囲気もあって圧倒される。

 だが、静謐で神聖な場所な教会であるはずが、禍々しさを感じてしまう。
  その肌にも感じるような威圧感に思わず足が止まってしまった。
 文はその威圧感を物ともしないのか、教会の扉までの石畳を何の淀みもなく歩く。

 俺は慌てて少女に追い着いて並ぶと、目の前の教会の扉を躊躇しつつも大きく開いた。








 後書き

 天狗の持っているカメラは河童が作ったらしいですね。
  しかし、東方風神録ネタを使うのはちと早かったか。

 2007.6.15

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