「文々。異聞録」 第16話
居間に掛けられた時計がカチカチと静かに時を刻んでいる。 それ以外には何の雑音もせずに、居間に広がるのはただただ静寂。 誰も彼も呼吸すら潜め、寂々と静まり返っていた。 ……気まずい。これは気まずい。 衛宮家はいつからこんな緊張感に溢れた空気を漂わすようになったのだろうか。 考えるまでも無い。つい10分ほど前、隣に座る文が俺との交際宣言をしてからだ。 そして今、俺たちは食卓を挟んで藤ねえと桜と向き合っている。 その気まずい雰囲気に飲まれているのか、皆一様に正座をしている。 藤ねえは珍しく難しそうな顔で目を閉じ、腕を組み何やらずっと考えごとをしている。 桜は何かを求めるような不安げな顔で俺をただじっと見つめていた。 ……桜、すまん。そんな顔をされても俺にも何が何だかさっぱりなんだ。 その中で文だけは藤ねえ達に対して、一仕事をやり遂げたすっきりとした笑顔だった。 言いたいことは全て言い切ったのか、実に満足げな様子だった。 彼女の案というのはもしかしなくてもこれだけなのだろうか、 だとすると余計に場がややこしくなったとしか思えない。 しかも時折、隣に座る俺に対して艶めいた視線を送ってくる。 文なりの演技だと思うが、その度に桜の顔がどうしてか沈んでいくので凄く止めてもらいたい。 「……士郎。本当なの?」 そんなどうしようもない空気の中、口火を切ったのは年長者である(と思われる)藤ねえだった。 考えるまでもなく、藤ねえは俺と文が本当に交際しているのか訊いているのだろう。 それはもちろん嘘だ。 だけど、俺も思春期真っ只中な一般男子学生なわけで、こういったことに興味がないわけではない。 自分のことに手一杯なだけでそんなゆとりがないだけだ。 演技とはいえ、文のような可愛い子にあんなことことを言われれば驚きのなかに多少の嬉しさもある。 ……しかし、この場合ここでなんと答えればいいのか。 藤ねえと桜に嘘をつきたくないが、ここは文に話を合わすのが筋だろう。 そもそも俺がこのまま口を噤んでいても、何の解決にもならない。 そしてこの場で求められているのは、俺からの俺自身の明確な回答だけ。 文もそれを理解してか、これ以上は何も言う気はないように思えた。 ……あ、やはり文の立案した計画はもう終わっているようだ。正直勘弁して貰いたかった。 だったら仕方がない。ここは覚悟を決めて大芝居に付き合うことにしようじゃないか。 「ああ、本当だ。つきあい始めてまだ浅いけど俺と文は交際している」 ……言ってしまった。言ってしまったら最後、その嘘を最後まで貫き通すしかない。 しかし自分でも驚くぐらいすんなりと言えたと思う。 緊張で声が上擦ることも、口籠もることもなく、さも当然のように言えてしまった。 それがなぜなのかはわからない。ただ、自分に主演男優賞を与えたいぐらいの演技だったと言える。 そして、男優賞もの台詞に反応を見せたのは桜ただひとり。 もともと伏せ目がちの彼女が、前髪によって表情が見えないほど俯むいてしまった。 ……そこまで驚いたのだろうか。まぁ文は俺には不釣り合いな程の美少女だと思うけどさ。 藤ねえは瞠目したまま反応がない。 真摯に受け止めてくれたのかはわからないが、聞こえてないなんてことはないだろう。 ……だが、俺には藤ねえの反応が手に取るようにわかる。 この後、文との関係を根掘り葉掘りと詰問されそうな予感がひしひしとするのだ。 あの藤ねえだ。今は何故か大人しくしているが、 俺が想像するに第一声は『士郎はまだそんなの早いんだらーッ!!』という虎の咆吼だ。 ……ああ、そんな剣幕で捲し立てられたら、簡単にボロを出してしまいそうで恐ろしい。 喉は限りなく渇いていたが、無理矢理に唾を飲み込んでその咆吼のショックに耐える準備をする。 その後の虎のフォローは文がしてくれるに違いない。してくれなきゃ困る。勝手に期待しているぞ、文。 そして、虎が閉じていた目を開いた。 「……うん、わかった。お姉ちゃんはあなたたちの交際を認めます」 ………………へ? 間抜けにも『へ?』と声を実際に出してしまいそうになった。 本当は虎の咆吼をガードするために耳を手で塞ぐ準備もしていたのだが、 虎の……、いや藤ねえの口から出た言葉は予想してた咆吼ではなく、優しげなものだった。 全てを見守る日溜まりのように温かい微笑を俺たちに向けている。これだとまるで教師みたいだ。 「文ちゃん。士郎はこれでもかーーーっとぐらいニブチンだけど、 優しいとこはお姉ちゃん、自信を持って保証します。……士郎のこと、お願いね」 そう言って、文の小さな手を握り、覗き込むように見つめる。 流石の文もその藤ねえの態度にはいささか動揺したようで、目が泳ぎそうになっていた。 こんな風に狼狽えた文を見るのは初めてだ。サーヴァントの前でも見せなかったぞ。 「……はい、わかりました。私の方こそよろしくお願いします」 少女の語気がいつものような自信に満ちたものではない。ちょっと語尾が濁っている。 藤ねえも出会ったばかりの少女の僅かな逡巡には気づかなかったのだろう、 その返答にすっきりとした面持ちで満足そうに手を放した。 「うん、よし! それじゃあご飯にしようかー!お姉ちゃん、お腹ぺこぺこだよー」 「……あ、ああ。今用意する」 ご飯も炊けているし、料理は既に出来ているので、料理皿に盛りつけをするだけだ。 言われたとおりに席から立とうとすると……。 「し、士郎さん、私も手伝いますね!」 どうやら今度は文にとってこの場が居たたまれない空気になったらしく、逃げるように立ち上がる。 だが、そこは藤ねえだ。そんな空気が読めるはずがない。 「いーのいーの! 士郎に任せておけば! 文ちゃんは座っていてー。あ、足も崩していいよー」 「いえいえ! お気を遣いなく!」 藤ねえの勢いに押されたのか、少女は脱出に失敗、結局は居住まいを正すだけになった。 流石の天狗の少女も藤ねえにはたじたじだ。でもお陰で文の新しい一面が見れたな。 そう言えば、先程から黙りっぱなし桜だが、未だに俯いたままだった。 まさか言葉が出ないほどの衝撃だったのだろうか。なんだかやるせない気持ちになるが、少し心配だ。 「桜?」 ビクッ、と桜の肩が震えた。いや、そんな過剰な反応を示されても……。 「……いーの。今は桜ちゃんのことより士郎はご飯の準備ー」 ん? 桜に気を遣うなってことか? 藤ねえがそんな薄情な事を言うはずがないし、一体どうしたんだろうか? 「……先輩。私は大丈夫ですから、お料理の続きをお願いします」 「ああ、わかった」 心なしかいつもより声のトーンが低いように聞こえたけど、もしかしてどこか具合でも悪いのか。 そう言えば、弓道部の大会も近いらしいし、練習で疲れているのかもしれない。 ここは藤ねえと桜の言うとおりに、料理の続きに専念するか。 「……本当にニブチンなんだから」 俺が台所に入ると、そんな藤ねえの声がポツリと聞こえた。 ―――――――――― いつもより一人多い衛宮家の夕食――。 文はまだぎこちない様子だったが、今は肉じゃがのじゃがの部分にご執心のようだ。 作った側としてはせっかくの肉じゃがなんだから、じゃがだけではなく肉も食べてほしい。 桜がいつもより箸が進んでいないことが気になるが、本人曰く大丈夫とのこと。 俺が心配性なのか、どうしても余計な心配をしたくなる。 うーん、弓道の調子でも悪いのだろうか。今度美綴に隙があったら訊いてみよう。 藤ねえは先程のシリアスな雰囲気はどこかに消し飛んで凄い勢いでカジキの唐揚げを食べている。 やはりあんなテンションは長時間維持が出来ないらしい。なんせ虎だし。 しかし、唐揚げは一人5個ずつだと理解しているのだろうか。……うん、してないだろうな。 大皿に盛ってしまったことを少しながら後悔。まぁ俺の分を減らせばいいか……。 そして、食後はお茶を飲みながら、文と藤ねえの会話に耳を傾ける。 「へー、文ちゃんは新聞作りが趣味なのー?」 「はい。普段は主に何気ない日常の一コマを記事にしています。 例えば『某神社の巫女、赤貧のあまり畳をかじり空腹に耐える!』みたいな感じで」 人当たりが良い文と、同じく人当たりが良い藤ねえはさっそく打ち解けていた。 さっきまでとは違い、文は藤ねえに対するぎこちなさは感じさせない。 文の新聞は別に趣味ではなく仕事だそうだが、見た目が中学生ではそう思われても仕方がないだろう。 しかし今の文の話は何気ない日常の一コマなのだろうか。……幻想郷は俺の想像を逸脱している。 「ねぇねぇ、それで二人はどこで知り合ったのー?」 藤ねえの口からこの質問が飛び出すのは時間の問題だと思っていたが、 実際に訊かれるとどう答えていいのかわからない。 俺が槍を持った男に襲われていた時に、土蔵から閃光とともに文が現れた、とは間違ってもいえない。 元々俺は嘘が得意ではないので、ボロを出さない自信もない。ここは文に任せよう。 「ええ、それはですね……」 「ふんふん」 藤ねえが興味深げに相づちを打つ。文も考えながら喋っているように見える。 『神秘とは秘匿するもの』 このことは口が酸っぱくなるほど言ってあるので変なことは言わないと思う。思いたい。 「全身が青タイツの変態男に私が襲われていたところを、 偶然その場に居合わせていた士郎さんに助けてもらいまして、 それが切欠になって、今のように懇意にさせていただいてます」 ブブーーーッ!! 緑茶を盛大に吹き出してしまった。 俺と文の立場が逆なだけで強ち嘘は言っていないが、いくら何でもそれはないだろう! そんな奇天烈な場面に立ち会うなんてことが一生のうちに一度でもあってたまるか! そもそも全身青タイツの変態男が冬木に出没して人を襲うようなマネをしたら今頃町中の話題だ! ……流石の藤ねえでもそれで納得してくれるとは思えない。 「ふーん、士郎は正義感が強いからねー。それなら納得ー」 納得するのか……。流石藤ねえだ。常識と感受性が俺たちとはかけ離れている。 「その後も2メートルを優に超す上半身裸の真っ黒い巨漢や、 こんな寒い季節にボディコンスーツを着た髪の長い痴女にも絡まれたりしまして、 その度に士郎さんがどこからともなく颯爽と駆けつけてくれました。 私がこうして無事でいられるのも彼がいてくれたお陰だと言えます。まさに吊り橋効果」 ……吊り橋効果というのは極限の緊張下に置かれた男女がそのストレスによって、 お互いに惹かれ合うという心理的学説だったと思う。 しかし秘匿すべき神秘については一切触れていないが、今の話は別の意味で神秘だ。 文がこの世界の住人じゃないからか、常識が明後日の方向にずれている。 話を聞いているのは同じくずれた藤ねえで助かった。 「士郎は正義感が強いからねー。それなら納得ー…………できるかーーーッ!! いつから冬木の町は変態さんが跋扈する魔境になったのーーーッ!?」 あ、虎が吼えた。流石の藤ねえでも今の話は信じられないようだ。 俺と文の立場が逆なだけで話自体は本当なんだけどな。 それとその変態(サーヴァント)の一人に文がいることを忘れてはいけない。 ……ふと桜の様子を見ると、今まで俯いているだけだった彼女が目を見開いて驚いていた。 それどころか、ここまで一度も目を合わせなかった文に視線を向けている。 もしかして、文の荒唐無稽な話を真に受けたのか? いや、まさかそれはないと思うが……。 「いやいや、本当なんですよ。これがまた不思議なことに」 「嘘おっしゃーーーい!!」 文は藤ねえのシャウトに面食らうことなくニヤニヤと受け流していた。……二人とも本性が出てるな。 こうして、奇妙な夕食は終わりを迎えた。何でもいいけど疲れた。 ―――――――――― 「じゃあ付き合っているからといって、変な行動には走らないこと。 ガクセーらしい節度のあるお付き合いをしましょう。 ……ま、そこんとこだけは士郎は信じているけどねー。どーせそんな甲斐性ないしー」 「あーはいはい、変なこと言ってないでとっとと帰れ。そして寝ろ」 藤ねえと桜を玄関口まで文と一緒に見送る。 「桜、家まで送っていくよ。藤ねえは一人で帰れ」 桜は今も何か言いたげな様子で文のことをじっと見ている。先程からずっとこんな感じだ。 訊いてもなんでもないです、とはぐらかすだけ。俺には聞かせたくないことでもあるんだろうか。 「……先輩、すみません。もしよろしければ、射命丸さんに送ってもらうのをお願いしたいんですが」 「あや? 私ですか?」 その桜らしくない発言に驚かさせられる。 人見知りの桜が初対面の自分より年下の少女に頼むなんて普通はあり得なかった。 何故か藤ねえだけは微かに憂いを含む表情を浮かべていた。 ……ああ、これは送ってほしいというのは建前で、実際は文に何か訊きたいことがあるのだろう。 「その、できればなんですが、お願いします」 桜が頭を深々と下げる。慇懃な態度を見せる桜に文も大きく首肯した。 「わかりました。では士郎さん、桜さんを送っていきますね」 そして、二、三言葉を交わした後、文の手によってぴしゃんと玄関の戸が閉められた。 文、藤ねえ、桜の三人が居なくなり、一人玄関に取り残される。 ……なんだか随分と久しぶりに一人になった気がするな。 何となく文たちに付いて行きたい気持ちがあるが、それは野暮というものだろう。 さて、俺は魔術の鍛錬を済ませ明日に備えて早めに寝ようじゃないか。 ――聖杯戦争はまだ始まったばかりだ。 夜も本格的に更け、今というこの時もサーヴァントに襲われてもおかしくないのだ。 時間として一時間半ぐらいだろうが、文と離れていることにかつてない不安を覚えていた。
後書き 割と早めに書き上げました。第16話です。 射命丸さんが今回「プーッ!冬なのにボディコンですかぁ?寒くないんですかぁ?」 と仰られていますが、お前も半袖じゃねえか!と突っ込んだ貴方に朗報。 そうそう、そこの黄色い帽子の貴方です。誰だよ。 原作ではいつも寒そうな格好をしている彼女ですが当SSでは長袖の白いブラウスを着ています。 作中でも一度だけ長袖を着ていると書いてあったり。でもミニスカ。 しかし、秋とはいえ、風神録で半袖だったのには驚きました。 まぁ妖怪なんだから人間とは感覚が大分違うんでしょうけど。 ……となると、秋だというのに腋まるだしの巫女は非人間認定していいんですか。 そう言えば彼女は真冬(春だが)でも腋を出していたような。やっぱり人外だ。 2008.1.14