「文々。異聞録」 第19話





 慎二の掲げた魔導書から魔力が迸る。
  そして、三列の地を這う黒い刃が俺をめがけて襲ってきた。

 「本当に馬鹿だね、お前」

 刃が俺に届こうとするが、決して見切れない動きじゃない。
  こんなのサーヴァントの攻撃に比べたら児戯に等しい。

 迫り来る黒い刃を無視して慎二まで駆ける――。
  制服が切り裂かれ血が滲むが、動きに支障はない。

 「馬鹿はお前だ! 慎二!」

 慎二はまさか俺が刃に向かってくるとは思っていなかったのか、
  余裕の表情から一転して恐怖に引きつる。

 「なッ――! やめろ! 来るな!」

 狼狽える慎二に掴み掛かろうとしたが、慎二は俺から逃げるように廊下を走る。
  だが、それは追いつけないスピードじゃない。一分もしないうちに追いつく。

 慎二を追いかけながら廊下に倒れている生徒の様子を見る。
  胸は微かだが上下に揺れており、まだ生きている。手遅れではない。
  ここで人が死んでしまったら俺は一生悔やむことになる。

 10年前、俺は力がなかった。
  でも、今なら。文の力を借りられる今なら悲劇を止められる――。

  それに今なら慎二にとっても手遅れではない。
  やったことは許せる物ではない。だが、まだやり直しが効くのだ。
  だけど、ここで一人でも死んでしまったら慎二はおしまいだろう。

 慎二が逃げながら廊下の端に立て掛けてあった掃除用具を蹴飛ばす。


  銃の撃鉄を下ろすイメージ――。
  通常ならば一時間ほど掛けてやる作業、だが無理矢理魔術回路をこじ開る。

 慎二が蹴飛ばした掃除用具からモップを拾って、呪文を詠唱。

 『――同調開始《トレース・オン》』 

 手に取ったモップを解析し、強化の魔術を行使。
  体中の神経を抉られるような激痛が走るが、何とか成功させた。

  慎二が逃げながら二度目の刃を走らせたが、それを強化したモップにより一閃。
  たいした手応えもなく、刃が霧散する。

 「うああああ……ッ!
   クソ!ライダーの奴なにやってんだ!ライダーッ!!」

 それを見ていた慎二が足を止めて喚く。

  そのまま距離を縮めて慎二の顔を殴り付けた。
 倒れた慎二に馬乗りになり、再び殴る。

 「慎二! 結界を止めろ! 今ならまだ間に合う!」

  「……クソ! 誰がお前なんかの言うことを聞くかよ!」

 慎二は馬乗りの状態でもがいたが、
  俺と同程度の体型なので逃げることはできないだろう。

 「今ならまだ間に合うと言っているんだ!誰も死なずに済む!」

  「そんなこと僕の知ったことか!
   クソ、ライダーの奴まだ片付けてないのか!」

 頭に血が上る。
  人が死のうとしているんだぞ。
  それを『そんなこと』だと?

  「慎二、お前が何でこんな凶行に走ったのかは知らない。
   だけど、今そんなことは関係ない。――最後だ。結界を止めるんだ」

 「知らないね! 僕がなん……」

 慎二が全てを言い切る前にその顔を殴った。
  マウントポジションで慎二の顔面に拳を何度も何度も振り下ろす。
  歯が何本か折れて、拳にその破片がめり込む。
  ――痛みはなかった。エンドルフィンが分泌されているのだろう。

  ぐるんと白目を剥いたが、それでも手を休めなかった。
 そして、何かを砕くような嫌な感触が手に伝わる。


 気づくと、慎二は失神していた。
  その整った顔は見るも無惨な状態だった。
  顔中が腫れ上がり、歯も半分近くへし折れ、鼻の軟骨も砕けている。
  もしかしたら顎も砕けているかも知れない。

 何故か魔導書だけは万力のように堅く握られていた。
  だが、意識はない。もう慎二に結界を止めることはできない。

  倒れていた女子生徒の顔がぐずぐずと溶け始めていた。
 時間は僅かにしか残されていないだろう。ひょっとしたらもう手遅れかも知れない。

 ――俺は慎二の首に手を掛ける。


 ――――――――――


 ライダーが魔眼を解放すると空間が色を失って凍る。

  それは水晶細工のような灰色の美しい眼だった。
  角膜には光がなく、まるで作り物のように無機質。

 それこそ神域に封じられた神の呪いであり、視線だけで対象を石化させる魔眼。
  いや、それはすでに邪眼と呼ばれる規格外の能力。

 その視線に捉えられた生徒が足下から徐々に石へと変貌する。
  当然それは文も例外ではなかったが、石化までには至らない。
  だが、その幻想郷最速と謳われた文の脚は自由を失っていた。

 「――効きがあまりよくありませんね。
  やはり、鮮血神殿 (ブラッドフォート)との同時展開は無理がありましたか」

 これで効きが悪いのだという。何の冗談なのだろうか。
  目を合わさず、視界に入れられただけなのに、体が石になったように動かない。
  いや、それは比喩ではなく下手をすれば本当に石と化す代物。とことん悪い冗談だ。

  「貴方のその脚はやっかいです。早めに封じさせてもらいましょう」

 ライダーが釘剣を投擲――。

  文は自分の足に目掛け、吸い込まれるように釘剣が飛んでくるのがわかった。
  その悪魔的な動体視力とは裏腹に回避しようにも動きがまるでついていかない。
  ずるずると重い体を引きずるが、それは徒労に終わるだろう。文は痛みに備えて歯を噛み締めた。

  釘剣が文の白く細い右足を貫く。

 「…………ッ!!」

 鋭い痛みが走る。
 脛から下腿部にかけて釘剣が貫通し、鮮血が流れていた。

 「そこまで深く刺さったのなら、簡単には抜けないでしょうね」

 ライダーは眼帯を付けて、魔眼を封印する。
  こうなってしまえば、余計な魔力を消費する必要ない。
  そして、このダメージならば今までのような動きはできないだろう。

 ライダーはそう確信すると貫かれた文ごと鎖を振り回す――。
  遠心力を利用し、文の小さな体躯を廊下の壁、柱、窓へと次々に叩き付ける。
 コンクリートの鉄骨がむき出しになり、窓枠は無残にひしゃげた。

 最後にリノリウムの床へと叩き付けられるが、受け身を取ることができずに蛙のように潰される。
  肺から、かはっと嫌な音がしたが、痛みのあまりうめき声すら上げられない。

 ライダーは無感情に告げる。

 「――無様ですね。
   貴方には鮮血神殿という鳥籠でこのまま死んでもらいます」

 文はライダーを無視してよろよろと立ち上がった。
 釘剣には細かい返しがついており、肉に食い込み微動だにしない。
  だが、文は釘剣を力任せに引き抜いた。
 肉が細かく抉れて、気が遠くなるような痛みが文の全身に走る。

 「い…………ッ!!」

 苦悶の表情を浮かべるが、決して声には出さない。
 余裕を見せつけるように釘剣をライダーへと投げ捨てた。
  
 ライダーは血塗れた釘剣を拾い上げ、ちろりと舐める。

 「ふふ。貴方は本当に英霊ですか?」

  文の足は釘剣という栓が抜かれた所為で、夥しい量の血が流れていた。
 それだけではなく全身は創傷や擦過傷だらけであり、肩で息をしている状態。

  それでも少女は薄い笑みを絶やさずに続ける。

 「……まぁいいでしょう。
   貴方の敗北は決定しています。
  桜に対する暴言を謝罪するなら、楽に殺してあげましょう」

 ライダーがそう言うも少女は笑みを絶やさない。
  それはまるで人を食ったような――。

  「――知ってますか。
   妖怪は人間以上に心が折れるとオシマイなんですよ」

 「……何を言ってるのです」

 ライダーは怪訝な表情を見せる。
  目の前の少女はそうやって立っているのもやっとだろう。
  それなのにこのサーヴァントは何故そんな風に笑っていられる?

 「ですから、私は絶対に謝りません。
   ここで貴方の言うとおりにしたら負けを認めることになるじゃないですか」

 ……妖怪は精神によって生きている。
 肉体に負った傷はさほど問題はない。だが、精神の傷は簡単には癒えない。
  その傷は肉体にも影響を及ぼし、妖怪をも死へと招く。だから。

 「――だから、心が折れない限り私は決して負けません」

 文は葉団扇に風を纏わせた。

  そして、傷ついた足を庇わずにライダーへと駆ける。
  だが、今までに比べるとあまりにもその動きは鈍い。

 ライダーは長身を生かして文の葉団扇が届く前に顎を蹴り上げる。
 そのカウンター気味の蹴りに少女は天井へと激しくぶつかり、蛍光灯を砕いた。
 ガラス片と水銀蒸気がキラキラと降り注ぐ中、文は辛うじて受け身を取り、立ち上がる。

 「何か奥の手があるのかと思いましたが、ただ闇雲に突っ込むだけですか。
   ――とどめを刺しましょう。貴方が此度の聖杯戦争において初めて脱落するサーヴァントです」

 ライダーは警戒をしつつ、文へと近づく。
  口では余裕を見せるが、相手は同じサーヴァント。
  宝具の正体も未だ不明であり、油断は命取りになる。

  一歩一歩、確実に距離を縮める。
 文の赤い目は変わらず、強い光を灯していた。

  だが、その視線は眼前にいるライダーを見ていない。
  視線の先はライダーの遠く後方の――。

  ライダーの背後から意志の強い声が響く。

 「――文!!」

 ライダーは刹那の隙を作る。
  文に警戒をするあまり、周囲の警戒が散漫になっていた。

  それを見逃す文ではない。
 ライダーまでの数メートルの距離をほんの一瞬で縮める。
  葉団扇で作られたかまいたちによって、ライダーを切り裂く――。

  ライダーも風の刃が届く直前に身を引いたが、真一文字に腹部を裂かれる。
 致命傷とまではいかなかったが、決して無視していいダメージではない。
  ライダーはバックステップで三歩ほど下がり、文との距離を取った。

 「ナイスアシストです。士郎さん」

 文はライダーの肩越しにいるマスターにぐっと親指を立てる。

 ……あんな動きがまだ出来たのかと柄にもなくライダーは関心していた。

  先程の無鉄砲な突撃は油断させるためワザと鈍足を演出したのだ。
  そして、ライダーが確実な間合いに入るか、隙を作るのを狙っていたのだろう。

 「文、大丈夫か!?」

  「ええ、見ての通り、問題はありません。
   ――ところで士郎さん、背中の大きな荷物はなんですか?」


 ――――――――――


 慎二の首へと手を掛けた時、下の階から破壊音が響いた。
  その音の正体は一瞬でわかった。――サーヴァント同士の闘いだ。
 文が結界を仕掛けたサーヴァントと遭遇して、そのまま交戦となったのだろう。

  暫しの逡巡。
  俺は首に掛けた手を放し、慎二を背負い階段を降りた。


 問題ないという文の言葉とは裏腹に、彼女は満身創痍であった。
  全身到る所から血が流れており、右足には目を背けたくなるような傷がる。
  服も埃と穴まみれで、修繕不可能なほどに破けている。

  それでも文はいつもと同じハッキリとした口調で問題ないと言った。
  そこに虚勢や慢心は感じられなかった。だったら、本当に問題はないのだろう。
  だが、文が傷を負ったことは事実であり、それが戦闘に支障を来すのは明白だ。

 傷を負わせたのは間違いなく、文と対峙しているサーヴァント――、ライダーなのだ。

 だから、そのライダーに俺は力の限り叫ぶ。

 「ライダー! お前のマスターは戦闘不能だ!! 結界を解除しろ!!」

 「聖杯戦争とはサーヴァント同士の闘いです。
  マスターが戦闘不能だとしても、サーヴァントがいる限り問題はありません」

 「なら、慎二の息の根をこの場で止める」

 気絶した慎二を座らせて、後ろから首を絞める。
  このまま力を込めれば慎二の首の骨を容易く砕くことができる。

  「本気ですか? シンジと貴方は友人であると聞きましたが」

 「ああ、本気だ。魔術師の端くれとして殺す覚悟も殺される覚悟も出来ている。
  魔術は己を殺し、他者を傷つけるものだと切嗣に一番初めに教えてもらった」

 その覚悟は既に三階で慎二の首に手を掛けた時に済んでいる。
  殺さないで済むなら、それが一番なのは間違いない。
  だが、これ以上、誰かが傷つき、そして命を落とすことになるのなら、
  俺は慎二を殺すことを厭わない。
  

  ライダーはそれでも振り返らずに、口を開いた。

 「――わかりました。鮮血神殿を解きましょう」

 その瞬間、赤く染まった世界が色を取り戻す。体を重く縛っていた虚脱感が消え去った。
  慎二の首に掛けていた手が安堵のより少しだけ緩んでしまう。

 「ですが、シンジは返してもらいます」

 その油断がいけなかった。
  ライダーは人間には到達できない速度で振り返り、俺と慎二の元へと飛ぶ。

 「士郎さん!」

 文もライダーを追うが、ダメージのためか咄嗟に追いつくことができない。
  迫ってくるライダーに俺は反射的に防御を取り、結果的に慎二を解放してしまう。
 ライダーは、そんな俺を無視して、俺の傍らで倒れる慎二の後ろ襟を掴むと、
  そのまま廊下の奥まで駆け抜けた。

 追いついた文が俺と肩を並べライダーと対峙する。
  気絶した慎二を抱えたままの戦闘は不可能だろう。

 「この場は離脱させてもらいます。
   鮮血神殿で魔力の補充もまあまあできましたし、収穫もありました」

 文が視線を鋭くしてライダーを見据える。

  「こんなところで逃がしませんよ。
   私から貴方までの廊下、誰一人の人間もいません。
  ここならさして被害を出さすに弾幕を使うことができます。
  ライダーさん、貴方はこの狭い廊下で私の弾幕を躱せますかね」

 葉団扇に魔力を渦巻かせる。だんまく? ……弾幕って何だ?
  だが、ライダーは態度を崩さずににやりと嗤った。

 「ふふ。カラス如きが我が宝具の疾走を妨げることができるとでも?」

 そう言うと、ライダーは釘剣を己の首へと突き刺した――。
 頸動脈から飛び散った大量の血液が廊下を赤く染めていった。

 「……!?」

 ライダーの自傷としか思えない異様な行為に言葉すらもでない。

  俺たちが呆気に取られた直後だった。
  飛散した鮮血が、ライダーの眼前に集まると、見たこともない魔法陣を形成する。
  その人間の眼球を模したようなおぞましい魔法陣が光を放ち、魔力を迸らせる――。

 閃光が周囲を包み込む。

 「いけない!! ――士郎さん、舌噛まないでくださいよ!」
 「え?」

 文は乱暴に俺を抱えると、跳躍する。
  そのままの勢いを落とすことなく、窓硝子を突き破り、二階から飛び降りた。

 そして背後からは『ぶち進む』と表現するしかない、そんな爆発音が轟く――。

 文は俺を抱えたまま、校舎の二階から、楽々と着地する。
 ……一本下駄なのに本当に器用だな。
  そんな状況にそぐわない、ずれたことを俺は考えていた。





 後書き

 とりあえず射命丸文の緒戦終了。
  ライダーにボコボコにやられています。

 ……文は頭からもだらだら血が出ている予定でしたが、
  あまりにも馬鹿っぽいのでやめました。

 2008.1.30

next back