「文々。異聞録」 第25話



 ゆっくりと、確実に陽が昇る。
  東の空が一瞬だけ朱く染まる朝の黄昏。

 少女の赤い瞳に陽が差すと、淡く灯り始めた。
  赤く乱反射するその瞳は人外の証明。だが、同時に幻想的な美しさを伴っていた。
  少女は空のグラスを縁側に置いて、注がれる陽光に身を委ねた。

  俺たちはそんな今生まれ落ちたかのような世界にたゆたっていた。

  酷く静かな朝だ。
  こんなゆっくりと時に身を任せたのはいつ以来だろうか。
  まさかこんな戦争の真っ只中にそれを味わえるとは思うまい。

  だけど、こんな安寧のなかに身を置けていることに胸が痛くなる。
  これは10年前から未だ癒えることなく胸の内で燻り続ける火傷。

  この痛みを感じる度、俺は幸せになる権利はないと思えた。
  ……いや、事実そうだろう。何故ならば俺は――。


 「シロウー。そんなところで何してるのー?」

 廊下を駆ける音が聞こえてきた。

  思考を切り替えて音の鳴る方向へ顔を向けると、トタトタと小走りをするイリヤの姿。
  あれから直ぐに目を覚ましたのだろう。そして小走りまま俺に向かってフライングアタックを敢行。

 ん? …………フライングアタック!?

  少女が俺の胸へと目掛けて飛び込んだ。トン、と軽い衝撃。
  イリヤの体型ではいくら勢いをつけようがさして重みは感じない。
  だが、そんな衝撃でも昨日ライダーにこっぴどくやられた傷が悲鳴を上げる。
 男として苦痛に顔を歪ませるのはみっともないので、歯を食い縛って何でもない振りをした。

  イリヤは俺に甘えるように身を擦り寄せる。

 「えへへ。お兄ちゃんの体って暖かいね」

 「……お、おい」

 このぐらい年齢の子供に甘えられるのはそう悪い気はしないが、少し気恥ずかしい。
  イリヤは鼓動を確認するように目を瞑って胸に耳を当てる。銀色の髪が肌に触れて妙にむず痒い。

 文に助けを求めようと視線を向けたが、そこにいたのはカメラを構えたパパラッチ。
  ……いつの間にカメラを用意したんだろうか。
  呆気に取られていると、あっという間にシャッターを切られた。

 「とても素晴らしい構図です」

 困り顔の俺に寄り添う銀髪の少女という奇妙な一枚が撮れたことだろう。
 文はニヤニヤしながら、カメラの巻き上げレバーを回して再びファインダーを覗く。

 「あー。写真を撮るときは被写体に断りを入れないと駄目なんだよ」

  「私は今まで被写体に断りを入れたことがないのでいいんです」

 文はイリヤの非難を無視してもう一枚パシャリと撮る。それはどんな理屈だ。

 「むー。アヤには女性としての慎ましさとデリカシーが足りないわね」

  「失敬な。記者に対する暴言として、あることないこと新聞に書きますよ」

 だけど、そういうイリヤも俺から離れようとしない。
  この少女の慎ましさとデリカシーは一体どこへいってしまったのだろうか。

 しかしこんな状態だと文に助けを求めても無駄のようだ。
  かといって気持ちよさそうにしているイリヤにどいてくれとは流石に言いづらい。
 ならば何でも良いので理由を付けて、この場を離れるのが良い方策のようだ。

 「文、イリヤ。腹が減ってるだろ?朝飯作るよ」

 「私はまだいいです」

  「お腹減ってないー」

 息ぴったりに俺の方策は却下される。頼むから二人とも空気を読んでくれ。
 心なしか二人がニヤニヤしているのを見ると、俺だけがからかわれているんじゃないのかと錯覚する。
 他になんと言えばここから離れられるのだろう。……あ、そうだ。これなら問題ないぞ。

 「じゃあ、俺は魔術の鍛錬をしてくるよ。最近はサボりがちだからそろそろ体が鈍りそうだし」

 これなら問題なくここから逃げ出す事ができるだろう。
  それにここのところ鍛錬を休んでいたのは事実。我ながら完璧な作戦だ。

 「シロウの魔術の練習? 見てみたいー!」

 俺の胸元に顔を埋めていたイリヤが上目遣いで放語した。

  「私もいいですか。興味がありますので」

 さらには文までも関心を示した。
  こうして完璧だったはずの俺の作戦は容易く瓦解した。

 「だけど、俺の魔術の鍛錬なんか見ても面白くないぞ」

 「シロウのやることだもの。面白いに決まっているわ」

  「つまらなそうだったら、すぐに見切りを付けるので大丈夫です」

  正直あまり見られたくないものだが、この二人に何を言っても聞かないだろう。
  まあこのままイリヤを懐に抱えているよりかは幾分かマシかもしれない。


 ――――――――――


 「へぇここがシロウの工房なんだ」

  「みたいですね。実は私もここで召喚されました」

 イリヤは興味深げに、文は懐かしむようキョロキョロと見渡す。
  ここにあるものは俺が集めたらがらくたばかりで面白いものなんてないと思うけど。

  「……魔術工房と呼べるほど立派じゃないけどな。せいぜい鍛錬場がいいとこだ」

 魔術らしいものなんて俺が投影したがらくたぐらいが関の山だろう。
  探せば切嗣が遺した魔術品もあるかもしれないが、俺には区別が付かないだろうし。

 「……私が召喚されたのは確かこの辺りですね。初めはここが士郎さんの家だと勘違いしていましたよ」

 文が照れくさそうに後頭部に手を置く。

  「おっかしー。こんな物置に人が住むわけないじゃない。
  んーと、この陣かな。あれ? でもこれ召喚陣じゃないわね」

  ……どうやら俺の話は誰も聞いていないようだった。

  しかしこの二人が思いの外、仲睦まじい様子で驚く。
 聖杯戦争の初日にあんな事があったのに仲良くなれるものなんだろうか。
 今後の禍根になりかねないと懸念していたが、それは杞憂に終わったようだ。
  もし聖杯戦争以外で知り合うことができたなら、良い友人になれたかもしれないな……。

 「ねえシロウ、この陣ってシロウが描いたの?」

 「いや違うぞ。文が召喚されるまでここにそんなのがあるなんて知らなかったし」

 おそらく切嗣が遺したものなんだろう。

 「……ふぅんそうなんだ。召喚陣以外で召喚されるサーヴァントね。だからこんなに出鱈目なのね」

 「出鱈目とか言わないでください! 傷つきますから!」

 文の憤る姿を見てイリヤがクスクスと笑う。微笑ましい光景だった。

 「じゃあ今から鍛錬するけど、本当に見ていくのか?」

 コクンと二人同時に頷く。どうやら本気にようだった。
  諦めた俺はいつもの定位置に座り込み胡座を掻いた。
  手近にあった木刀を手にとり、強化の魔術を行使するため意識を埋没させた。
  人に鍛錬を見られるなんて初めての経験だが、集中してしまえば大して関係はない。

 目を閉じてイメージする。

  目には見えず手にも取れない焼けた火箸をずぶずぶと背骨に刺した。
  背骨に第二の神経を作るのだ。
  ――激痛が走った。この痛みは何年経とうが慣れそうもない。

  そして疑似神経と言うべき魔術回路を生成する――。

 『――同調開始《トレース・オン》』 

 魔術回路に紫電が走る。
  大気から大源を汲み上げて魔力に変換。素材を解析して魔力を流し込む。

  ――木刀が強化された。

  見た目には変化はないが、鋼鉄以上の強度があるはず。
 聖杯戦争が始まるまでは成功率一割を切っていたが、ここ最近はかなり調子がいい。
  何か自分に取って何か良い影響でもあったのだろうか。

  その影響の一端を担っていそうな天狗の少女は、背後で眠たそうにあくびをしていた。
  俺と目が合うとあくびをかみ殺して、ばつが悪そうに苦笑いをする。
  確かに俺の魔術の鍛錬は派手さはなくて見てもつまらないだろうが、それは少し泣きたい。

 イリヤに至っては寝てるかと思ったが、そんなことはなく酷く真剣な表情だった。

 「――ねえシロウ。どうしていちいち魔術回路を生成しているの?」

 「え?」

 当然の疑問のように少女が俺に訊いてきたが、俺にはその質問の意味が解らない。

 「……もしかして知らなかったの?
   本来魔術師は毎回そんな風に魔術回路を作ったりはしないわ。
  一度開けば魔術回路をスイッチのオンオフで切り替えるのよ。
  そんなやり方をしているようじゃ命が幾つあっても足りないんだから」

 「そ、そうなのか?」

 イリヤの言う通りならば、俺の何年間もの努力は無駄なのだろうか。
 そもそも魔術を行使する以前に魔術回路の生成でさえ失敗することが多いのだ。
  失敗して死にかけたことだって一度や二度じゃない。
  これが本来一度だけで済むものだとしたら、暫くは放心しかねない事実だ。

 「……もー。キリツグも何でちゃんと教えないのかな」

 俺がショックに打ち拉がれていると目の前の少女がよく知った名前を呟いた気がした。

 「今イリヤなんて言っ――……!!」

  イリヤと目が合った途端、体が動かなくなる。
  紅玉をはめ込んだような紅い瞳に捕らわれて、瞬きすら許されない。

 「シロウって護りも何もないもないんだもの。こんな簡単に掛かっちゃうなんて」

 金縛りに掛かったように体が硬直し、声を出そうとしても変な呼吸音が漏れるだけだった。

 イリヤは俺をどうするつもりだ?
  まさか敵マスターとしてこのまま殺すつもりなのか?
  ……文の見ている前で?

 イリヤは今もバーサーカーを連れているはずだが、こんな文の側では幾ら何でも無謀だ。

 「ごめんなさい、お兄ちゃん。少しだけ我慢してて」

 イリヤは意を決したかのように、動けない俺へと身を乗り出す。
  何を思ったのか、少女はそのまま顔を近づけてる。
  あと数センチで触れかねない距離。白磁のように真っ白な容貌から目を離せない。

  間近で見ると少女の顔は測ったように端正な顔立ちであることに気づく。
  何年かすれば誰もが振り返るような美人になるんじゃないだろうか。

  そうして、イリヤの小さな唇が俺のと触れた――。
  神経がそこに集中していたのか瑞々しい弾力が伝わってくる。

 「ん……」

 少女の淡く湿った吐息が漏れて俺の顔を微かに濡らした。
  その幼く白い顔は紅潮している。
  当然俺の顔も同様か、それ以上に赤くなっていることだろう。

  背後から『はわわわわ……』という文の錯愕した声が聞こえてきた。
  シャッターを切る音がしなかったのは僥倖と言えようか。
  普段の文ならお構いなしに撮っていそうだが、あまりの事態に忘れているのかもしれない。
  もしかするとこういったことにはウブなのだろうか。

 そんなどうでもいい事を考えていると、少女の舌が俺の口内に進入する。
  口を塞ごうにも、体はぴくりとも動かない。
  躊躇いがちに口内を探る舌が俺の舌と触れ合うと、熱を持った液体が流し込まれた。
  ……少しだけ粘度のあるそれはもしかしなくても少女の唾液なのだろうか。

 その流し込まれた液体を、俺の喉が別の意思を持ったかのように嚥下をし出す。
  食道を通って胃に到達すると液体は灼けるような熱を持ち、意識を朦朧とさせた。

  ……それは甘美な痺れとでも言うべきなのだろう。
  脳が一切の抵抗をやめて、硬直した全身の力が抜けていく。

 少女は俺が液体を飲み下したのを確認すると唇を離した。
  つぅ、と一本の銀糸が俺たちを繋ぐように掛かるが、それは儚くも切れて落ちる。

  俺の体内にはイリヤから流し込まれた液体が滾るように暴れ出していた。
  視界がぶれて、耳鳴りが聞こえる。だけどそれは悪い気分じゃない。

 イリヤは鋭意な表情を作るが、顔は照れくさそうに紅潮したままだった。

 「――えっと。ちょっと辛いだろうけど我慢してね。
  だけどこれで強制的に魔術回路がオンになったはずよ。
  頭でスイッチをイメージできれば、簡単に魔術回路をオンオフができるわ」

 スイッチ……。
  そう言われても、痺れた頭ではうまくイメージできない。
  それよりも思考のウェイトは今起きたショッキングな出来事の方を優先している。

  暫くすると腹の中のたぎりが収まり、視界も回復していった。
  何かが全身に染み渡った感じがする。

 「じゃあ金縛りを解くね」

 再び目が合うと今までが嘘のように体が動き出す。

 「大丈夫?」

  「……ああ、だけどなんだってこんなことを」

 おおよその察しは付いたが確認せずにはいられない。

 「……ごめんなさい。
   でも今ある間に合わせで魔術回路を開く方法がこれしかなかったの。
  そのまま伝えたらお兄ちゃん絶対に嫌がるだろうし、暗示を掛けさせてもらったわ」

 イリヤが気まずそうに顔を陰らせて真相を伝える。
 俺の心臓はさっきからドキドキと早鐘を打っていた。これじゃとてもイリヤを責められない。

 「……いや、イリヤには感謝するよ。ありがとう」

 「どういたしまして。えへへー」

 少女は目を細めて破顔した。嬉しそうに俺に抱きつく。

 ……そういえばさっきから文の反応が全くないな。

 気になって後ろを見ると文が赤い顔で惚けていた。
  中空をぼっと見ており、視線は定まらずにいる。心ここにあらずと言った様子。

  しかすると一番動揺していたのは、この少女だったかもしれない。


















 後書き

 なんか微妙にエロくなってしまった。

  射命丸さんがエロいことにウブというのはオリ設定です。
  幻想郷は少女しか表に出ていないので、案外そういうことに弱いんじゃないのかと。
  まぁ実際天狗は天狗勃という名前を冠した精力増強剤があるぐらい色に強いらしいですけど。

 2008.3.3


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