「文々。異聞録」 第32話
キャスターの短剣が文を襲う。 その短剣は波状というべきか、そんな異様な形状をしていた。 刀身は細く、貫くというにはあまりにも心許ない。 短剣とは言ったものの武器として機能するとは思えず、儀式用と呼ぶのに相応しい。 そもそもキャスターは俯せに近い体勢であり、文の急所を狙えるとは思えなかった。 傷は致命傷には至らず、反撃を喰らうのは必至だろう。 だが、仮にもサーヴァントが使用する武器。何らかの魔術的な作用を秘めていることは明白。 つまりそれは致命傷に至らない傷でも構わないことを暗に仄めかしている。 その切っ先が今にも少女の下肢に突き立てられようとしていた。 文はキャスターの行動に気付いておらず、未だこちらに目を向けている。 しかしこの窮地にて思う。文は本当に知り得ていないのだろうか。 あの常識破りの回避を見せた文がこうもあっさりと敵の攻撃を喰らう――? アサシンの剣技、そしてキャスターの魔術を躱す少女の姿は肌を未だ粟立たせていた。 それは一種の信仰と言うべきだろう。 俺には彼女にあの短刀が刺さる姿は到底想像がつかない。 幾ら慢心しようとも彼女はあの程度の攻撃を回避する力量を備えている。 そして、そのビジョンと重なるようにキャスターの短剣が空を切った。 文はキャスターを視界にさえ入れることもなく、短剣を下肢を僅かに傾けて躱す。 キャスターはひるまずに第二撃を振るった。だが、それも届かない。 文がゆっくりとキャスターを視界に入れる。 何をするまでもなく腕を組んでキャスターを半目で見下ろした。 ようやく立ち上がったキャスターは文を睥睨し、短剣を腰に構えて突き進んだ。 肉弾戦に不向きな魔術師とは思えないほど機敏さ。 それに女性のものとはいえ体重を乗せた刺突だ。 あんな形状の短刀でも、この勢いで刺されば致命傷になりかねない。 少女は腕を組んだまま避けようともしない。 そして何を思ったのか、キャスターを動きを制すように片足を上げた。片腕ではなくだ。 勿論、そんなことでは止まるはずもない。 直後、文に短剣が届く。 だが、その音は肉を切り裂くものではなく、何か乾いたような音――。 短剣は文の赤い靴に生えた一本歯に突き刺さっていた。 一本歯は10センチ以上の厚みがあり、キャスターの短剣は肉を貫くには至らない。 それに体重を乗せた一撃。それなりに深く突き刺さっており、簡単には抜けないだろう。 文は上げた足を折りたたむようにして、キャスターから短剣を奪い取る。 「貴方、私に気付いてたの……!?」 文が短剣の刺さった靴を脱いで片足立ちになる。 短剣を引き抜こうとするが、思った以上に深く刺さっているのか、なかなか抜けないようだ。 少女の頬が僅かに朱に染まる。 キャスターの動向は感知するも、こうなることには判らなかったのだろう。 「キャスターさん、私に言いましたよね。『貴方は風を意のままに傅かせる』と。 風を操れる私は風を知り、風を読むことも当然できます。 ――その私に貴方の呼吸の流れ程度が読めないとでも思いますか?」 文は疑問に答えてはいるが、彼女の意識は短剣の刺さった靴に移行しているようだった。 キャスターから再び目を離して作業に没頭する。 ……相手の神経を逆撫ですることに関しては一流だった。 「貴方の呼吸は気絶している人間のものとしては少しばかり不自然でしたから。 ……まあ、そんなわけで怪しい動きをすれば 余程の達人で無い限り呼吸が乱れますし、ある程度はこうやって察知できるってことです」 サーヴァントとは幽体である。 肉体は存在せず、エーテルによってその身を編まれている。 つまりサーヴァントに取っては食事は不要であり、睡眠すら必要ない。 だが、それでも呼吸だけは止めることができない。 何も呼吸は酸素を取り込み、体内に溜まった炭酸ガスを吐き出すための行為ではない。 身体能力や自然干渉にも影響する要素であり、呼吸の乱れは魔術行使にも支障を来す。 それは戦う者であるサーヴァントにとっても重要な要素であり、 文の類を見ない回避能力の一翼を担っていると考えていいだろう。 ようやくキャスターの短剣が靴から抜けたようだ。そしてそのまま闇へと放り投げる。 ゴミ屑のように投げ捨てられた短剣は放物線を描いた。 彼女のトレードマークの一つの一本歯下駄のような靴はいつの間に履かれていた。 一拍置いて金属が落下する小気味の良い音が境内に響く。 「魔術師に一杯食わせるとはとんだ狸ね!」 ――キャスターは短剣の落下音にあわせて高速神言を詠唱。 銃の引き金を引くような速さで魔術が発動する。今までにない至近距離で光弾が文を狙う。 「狸じゃありませんよ、天狗です!」 不意を突いた攻撃と言えた。だが、文は刹那の反応で葉団扇を薙ぐ。 人間大ほどの竜巻が発生したが、光弾はそれを拮抗すら許さずに飲み込む。 僅かでも文の竜巻に触れていた為か質量を持たない筈の魔力の塊が明後日の方角へと反れた。 「力を逃がすだけなら、まぁこんなもので十分か」 キャスターは微かに驚きを見せるが、 彼女自身もこの結果を予想していたのかすぐに平静を取り戻す。 「どうします?これ以上やっても無駄だと思いますけど」 首を傾げてキャスターに尋ねる。そしてこれは事実上文の勝利宣言と言えよう。 「……悔しいけど今の素材だけじゃ貴方を倒しきるのは無理みたいね。 でも魔術師がホームで負けるなんて洒落にならないじゃない。 だからどう?聖杯戦争の情報を幾つか提供するから、今回は見逃す気はない?」 思いもしないキャスターの提案に文が暫し逡巡する。 「……魔術師との取引ですか。あまり気が進みませんね。 しかし『情報』という言葉はいつ聞いても甘美な響きです。うーん、どうしようかなー」 文が何か良からぬ事を考えている顔でこちらを見た。 「士郎さーん!!どうしましょうかー!?」 文が判断を求め叫ぶ。 何をするわけでもなく、池の側でぼけっと立ち尽くしていた俺にだ。 それはつまりキャスターを殺すか否かという判断。 多くの人を救うためには聖杯戦争を早期に終わらせる必要がある。 俺はその為にこの手を血に染める決意は出来ている。正義という名の下の人殺しだ。 だからといって、柳洞寺の人を手にかけていないキャスターを殺してもいいのか――。 枯れ木――。 目の前に枯れ木が在った。 ……いや、違う。目の前のこれはそんなものではない。 一切の気配を感じさせず、俺の前に長身痩躯の男の姿が在った。 ここまで気付くことなく。闇に紛れたそれはまるで幽鬼のように。 呆気に取られてた時はもう遅かった。 幽鬼の放つ拳が俺の腹部に突き刺さる。背中まで突き抜ける衝撃は本当に貫通したかのよう。 「葛木、先生――?」 肺に僅かに残った酸素がそれだけを紡ぐ。 ヨレヨレの緑のスーツを着込んだソイツは間違いなく葛木宗一郎――。 だとすると、まさか先生がキャスターのマスターだとでもいうのか――? いや、あの魔女に傀儡の如く操られている可能性もあるのだ。このままでは攻撃はできない。 尤もあまりの痛苦に攻撃どころか呼吸すらもままならない。 二、三歩よろめくと、今度は後頭部を肘が鋭く抉る。目の奥に花火が散った。 一切の容赦を感じさせない連撃。 飛びかけた意識を強制的に覚醒させられて、地面に潰される。 「ガハッ!!」 だけど、意識を失わずに済んだのは僥倖と言えた。 敵前で気絶するなんて愚行だけは絶対にしてはならない。 きつけに舌をかみ切る覚悟だって俺は出来ている。 苦痛のあまり停止する直前だった肺を無理矢理働かせ、体内に酸素を取り込む。 ヒューヒューとか細い呼吸音。まるで踏みつぶされた蛙のようだ。 「士郎さん!?」 文も今まで先生、いや葛木宗一郎の存在を察知してなかったのだろう。 珍しく焦燥を覚えた様子で俺の元へ駆け出すが、魔女が予定調和のように道を塞ぐ。 「駄目よ、貴方はそこを動いちゃ」 「……そこを退きなさい。キャスター」 ハッキリとわかる怒気を孕んだ声。 激情に飲まれるわけでもなく底冷えするような冷たさ。 「宗一郎様があの状態の坊やを始末するのにものの数秒も掛からないわ。 貴方が坊やの元まで駆けるのに一秒も掛からないでしょうけど、それは私が邪魔をするもの。 フフフ、流石の貴方でも私を殺すのに数秒で足りるかしら?確実に坊やは死んでるわね。 ……坊やの命が惜しいのなら、そこでじっとしていなさい」 文は何かに耐えるように腕を組んで、キャスターに無防備を晒す。 その態度に満足したのか、魔女は声に出さず口端を吊り上げた。 「……キャスター。衛宮をどうする?殺すか?」 抑揚のない口調。葛木宗一郎は元々寡黙で無口な男だった。 キャスターとの遣り取りを聞くに操られているとはとても思えない。 「宗一郎様、申し訳ないですけど坊やを始末するのはもう少し待って貰えますか? このアーチャーをどうしても手に入れたいので」 「ああ、わかった」 葛木が倒れる俺の腕を捻り上げ逃げられないように拘束する。 後数センチ捻れば腕の間接が外れてしまう危うさだ。 ……逃げるも何も先の攻撃で立ち上がることすらままならないのだが、 これは今すぐにでも殺すことが出来るというアピールと考えるべきだろう。 キャスターが俺の様子を満足そうに一瞥すると、再び文の方を向いた。 「貴方はマスターの存在を軽んじているのね。 もし勝てそうになくても付け入るとしたらここだと思っていたわ。 聖杯戦争を戦うのはサーヴァントだけど、マスターもその参加者なの。 それをただの足手纏いにしか思っていないようじゃどのみち負けていたわね。 ……アーチャー、天狗は仲間を大切にすると言ってたけど、 それは相互に信頼を寄せてこそのもの。決して一方通行の間柄ではないの。 坊やを一度でも頼ったことはある?フフ、あるわけないわよね。 だったら貴方の坊やに対する扱いはとても仲間とは言い難いわ」 文は反論せずにキャスターの肩越しに倒れる俺を無表情で見つめていた。 そんな少女の顔を見ていると罪悪感が込み上げてくる。 ……いやそれは違うぞ、キャスター。 俺は遠坂やイリヤと違ってマスターとして優秀じゃない。 こんな状況に陥って文を困らせているのが、何よりの証拠。 だけど彼女はこんな俺の意見をいつも尊重してくれる。 ライダーを倒した時もそうだった。そして今も。 それがお前の言う信頼というものじゃないんだろうか――? 「フフフ、これで形勢逆転ね」 魔女が勝ち誇った瞬間だった。 耳を塞ぎたくなるような轟音と共にキャスターの姿が消失。 一体何が起きたというのだろうか。瞬きの暇もなく魔女がかき消えた――。 その疑問に答えるように突如境内に響く第三者の声。 「――それ壊れちゃったからあげるわ」 子供特有の無邪気さにどこかコケティッシュさも感じさせるアンバランスな声色。 正門付近に見覚えのある大小二つの人影があった。 見紛う筈もない巨漢はバーサーカーであり、傍らの少女はイリヤスフィール。 そして間髪入れずに再び響き渡る轟音。柳洞寺の一角に何かが衝突したのだろう。 ふとバーサーカーが常に携えていた斧剣がないことに気がつく。 その斧剣を持っていた豪腕は張り詰めた力を解放したかのように震わせている。 葛木に肘を喰らい胡乱としている頭で悟る。バーサーカーが斧剣をキャスターに投擲したのだ。 アサシンに両断されたとはいえ、あの豪腕で投げられたと思うと途轍もない破壊力だろう。 「キャスターごときには数秒もいらなかったわね。 貴方の召喚したサーヴァントの方がよっぽど手強かったわ」 クスクスとイリヤが口を綻ばす。 ……彼女がここにいるということは、アサシンはバーサーカーによって倒された。 だが今は文だ。彼女は無事なのか? キャスターのすぐ側にいたのだ。平気なはずがない。 ……彼女の居た方角を見ると、地面にぴったりと伏せる文の姿。 凄い格好だが怪我もなさそうなので安堵を覚える。 巻き込まれる直前に体勢を低くし投擲された斧剣を避けたのだろう。彼女なら十分にあり得る話だ。 「ふう。流石に今のはヒヤッとしましたね。……相変わらずイリヤさんは容赦ないです」 未だ潰れた姿勢のままの文。 「アヤもよく避けられたわね。フフ、ちょっと情けない格好だけど。 ピンチのところを結果助けたんだから、少しは感謝したら?」 「ありがとうございます。イリヤさん」 跳ねるように立ち上がり、服を付いた埃を叩きつつ頭を垂れた。 予想だにしていない反応だったのか、イリヤが面食らったような顔をした。 「……意外と殊勝なのね。皮肉の一つでも返されると思ったからちょっと驚いたわ」 「清く正しい射命丸ですから。まったく失礼な反応ですね」 今まで拘束されていた体がやけに軽くなっている。 這いつくばったまま首だけ後ろを向けると、葛木の姿がない。どこに行ったのだろうか? 文が一足で俺の元へと駆けた。今更そんなことに驚いてもいられない。 「大丈夫ですか?」 手を俺に差し伸べる。 「ああ」 まだ大丈夫とは言える状態ではなかったが、これ以上は格好悪いところは見せられない。 差し伸ばされた手――。 普段ブン屋としてペンを握る手だ。そしていつかライダーの胸を貫いた手でもあった。 俺は躊躇うことなく、差し伸ばされた手をそっと握る。文がニッと笑う。 そして、今握るこの手は間違いなく女の子のものだった。そんな優しさを感じさせた。
後書き マスターとサーヴァントの関係はキャスター組のがずっと上手です。 士郎の文に対する好感度は恐怖を感じつつもまあまあ高いですが、 文から士郎になるとどうなんでしょうか。まぁそこは大いなる謎ということで。 原作の射命丸も山での仲間意識はあるでしょうが、 それ以外の人間妖怪に対しては広く浅く記事になるかならないか程度のものでしょう。 緋想天での文は霊夢に対していろいろと尽力していたみたいでしたけど。 博麗神社が元の形になるように写真を撮ったり、ましては再建の手伝いをしてましたからね。 でも後者は萃香に命令された可能性も否めません。 2008.7.8