「文々。異聞録」 第33話
葛木にやられた箇所がズキズキと痛む。頭と腹の二箇所。 人間のものとは思えない鋭い連撃だったが、骨や内臓には大きな損傷はないようだ。 だが、立っているのもやっとのダメージであることには変わりはない。 数時間はまともに走ることも難しいだろう。 そして、俺と文の前に立ち塞がるのはイリヤとバーサーカー。 文は五体満足だが、問題は俺だ。 このまま戦闘に入ればキャスター戦と同様に文の足を引っ張ってしまう可能性もある。 現に文も俺を庇うかのように一歩前に出て、イリヤたちと対峙していた。つくづく自分が情けない。 ……キャスターと葛木の姿は見あたらなかった。 キャスターは投擲されたバーサーカーの斧剣によって柳洞寺の一角ごと巻き込まれた筈。 その一撃で消滅した可能性もあるが、敵を欺くことに長けたサーヴァントだ。 やられたと考えるのは早計なのかもしれない。 それにマスターである葛木はいつの間にか姿を消し、どこか身を潜めている。 「アサシンは死んだわ。バーサーカーの命を一つも奪うことなく、ね。 でも強かった。これまで戦ったサーヴァントの中で一番」 イリヤがここにいるということは当然そう言うことだろう。 あの状況でアサシンが道を譲るはずがない。それが例え勝ち目のない闘いだとしても。 剣鬼はバーサーカーに臆することなく死ぬまで剣を振るい続けた。 そして死地に直面した瞬間も涼しげな態度を一切崩す事はなかっただろう。 「キャスターはしぶとく生きているようだけど、 霊核に致命的な傷を負ったみたいだから、時間の問題でしょうね。 おそらく夜明けを待たずに消滅するわ。 柳洞寺に張られた結界も消えたし、マスター共々どこかに雲隠れしたみたいね。 ……どうせ死ぬんだから玉砕覚悟で掛かってくればいいのに。ふふ」 とは言うが、キャスターの事などどうでもいいような口ぶりだった。 途端、俺たちを見つめる瞳が鋭くなる。垂涎の獲物を捕らえたかのように。 「そしてここに残るのはわたしたちだけ。どういうことか説明しなくてもわかるよね。 ――お兄ちゃん、アヤ。一切の慈悲も容赦も無くバーサーカーが貴方たちを潰すわ」 イリヤスフィールがそう宣戦布告をした。 彼女は本気だろう。本気で俺たちを殺す気だ。 イリヤは今朝の別れの時点で覚悟を決めている。俺たちとの馴れ合いはもう終わりなのだ。 だが、俺はどうだろうか?正義の為に誰かを殺す覚悟は出来ている。当然殺される覚悟もだ。 そうは思っていても俺にイリヤを殺すことが出来るのだろうか? 彼女は既に知り合いと言っても良い。それに魔術回路を開けてもらった借りもある。 あの無垢な笑顔を向けてくれた少女を正義の名の下に殺せるのか? そもそも俺なんかではバーサーカーに勝てるわけがなく、文もまた自信がないと言っていた。 尤もその実力があったとしても、とどめを刺すことが出来なければ同じ事。勝てないのも同じ。 こんな生半可な覚悟では殺してくれと言っているようなものだろう。 深く深呼吸をする。 そして、あの細く白い首を締め上げる自分の姿をイメージする。 ――――吐き気がした。 ……自分が他の人とはどこかずれているのは薄々気付いている。 それでもあの少女を手に掛けてしまったら、俺の中で決定的な何かが壊れてしまうだろう。 ――それは慎二の時もそうだった。 俺は目の前で凶行に走った慎二を殺すことができなかった。 結果として多くの生徒が死んでしまった。それは慎二を殺せなかった俺の責任でもある。 だとしたら俺の理想に殉じようとする覚悟はその程度のものだったのだろうか。 切嗣から託された理想を未だかつて一度も疑ったことはない。 だけど今になって目指すべき理想に齟齬が発生している。 それは同時に衛宮士郎のアイデンティティを覆すことになりかねない問題。 生涯をかけようとする理想を一度でも疑ってしまったら、そこから何もかもが壊れてしまう。 そして、その時点で尊いものとは言えなくなるだろう。 だけども俺にこの少女を殺せるはずもない。 ならば彼女に尋ねよう。なんの為の聖杯戦争なのかと。 己を誤魔化す言い訳に過ぎないのを理解した上で。 「……一つ聞きたい。イリヤは聖杯を手に入れてどうするつもりだ?」 少女がきょとんとした。 それでも俺の真剣さが伝わったのだろうか、躊躇いながらも答える。 「……どうしてそんなことを聞くのかわからないけど、少しだけ教えてあげるわ。 アインツベルンは聖杯そのものが目的よ。願望機としての聖杯には興味がないの。 でも聖杯を求める姿勢は妄執と言ってもいい。 そんな長きに渡って聖杯を求め続けたから、手段と目的が入れ替わってるかもしれないわね」 重要な箇所が幾つか抜けているが、一つ判ったことがある。 イリヤは願望機としての聖杯は必要じゃないということ。 そして、それこそが俺にとって最も必要な答え。 アインツベルンは聖杯を悪用する気はないと考えていい。 遠坂や言峰の話が本当なら聖杯は使いようによっては世界を滅ぼしかねない代物。 だったら慎二のように聖杯戦争で誰かを傷つけない限り、俺はイリヤと争う理由はない。 だけど――。本当にそれでいいのだろうか――。 「士郎さん、どうしますか?」 「え?」 文が俺に何らかの判断を求めている。 「なにを呆けた顔をしているんですか。 この場でイリヤさんと戦うかどうかですよ。私はまだまだ戦えます。 ……まぁあれに勝てるかどうかは別として、ですけど」 バーサーカーと睨み合いを続ける文の表情は心なしか、いつもの余裕がないように見えた。 無理もない。ヘラクレスの『十二の試練』によって十一もの命のストックがある。 それを全て奪わなければバーサーカーは際限なく襲いかかってくるのだ。 それに遠坂たちが削った命のストックはこの数日のうちで無かったことになっているという。 それだけでこれまで遭遇したサーヴァントとは別格と言えた。 そして、聖杯戦争とはサーヴァントと魔術師が織り成すバトルロイヤルだ。 敵わないとしてもイリヤとはいつかは戦うことになる。 残った他のサーヴァントにそれを期待するのはあまりに惰弱で甘い考え。 今はイリヤと戦う理由はなく、勝算も極めて低い。 ここは逃げ出すべきだろう。文の脚ならそれも可能のはず。 ふと、昨晩の事を思い出す。 「お父様」とぼんやりとした意識の中で父親を求めるイリヤの姿だ。 その寝顔はあどけない子供そのものだった。 イリヤの父親が誰かは知らないが、どんな親だって子供にこんな真似は決してさせない。 ――やはりこのままじゃいけない。 理想がどうこうではなく、俺はイリヤにこれ以上戦って欲しくない。 こんな殺し合いに関わっちゃいけないんだ。それは偽らざる俺自身の本心。 「――戦う。 こんな馬鹿げた闘いにイリヤみたいな女の子が関わるなんて間違っている。 これ以上イリヤに命を奪わせるわけにはいかない。ここで止めさせてみせる」 イリヤが目を丸くして驚いてみせた。 俺の言葉がどうやら意外だったらしい。文もまた目を見張っていた。 「へえ、驚いた。やる気なんだ。 お兄ちゃんの事だから命乞いはしないにしても、わたしを言葉で説得するんじゃないかと思ったわ」 「同感です。士郎さんの恥ずかしいご高説が始まるかと思いました」 文がイリヤに同調するように頷く。……調子狂うな。 「イリヤがそこまでして聖杯戦争に固執する理由はわからない。 だけど聖杯戦争に参加する信念は本物だと思う。 確固たる決意があるのなら俺が何を言ってもイリヤの心には響かないし、届かない。 だったらここは力ずくでもイリヤを止めてやる」 雪の少女が嬉しそうに口許を三日月のように形作った。 クソ、これから戦うというのにどうしてこうも笑っていられるんだ。 「はい、わかりました。私、射命丸文も士郎さんの意に従いましょう」 そして、僅かに声を上擦らせて文が応えた。 バーサーカーと向き合い、先に見せた陰はおくびにも出さない。 その表情はイリヤと寸分違わず同じもの。声も喜悦によって歪んだのだ。 「バーサーカー!!やりなさい!!」 雷鳴が轟くような狂戦士の咆吼。 その粗暴なゴングが奏でられ、静まり返った境内が再び戦場と化す。 ―――――――――― 先に動いたのは文の方だった。 風の刃をバーサーカーに向かって放つ。 それと同時に自身も続くように巨人へ駆け出した。 先遣隊の刃が頭部に命中するが、巨人はまったくひるまない。 それどころか、石柱のような巨大な拳を振るい文を迎撃せんとする。 ――そう今のバーサーカーは無手である。そしてそれが文の勝機となり得る要因でもあった。 だとしてもその拳もまた、喰らえば致命傷を負いかねない代物。 文は駆ける速度を緩めずに、紙一重で迫り来る巨人の拳を躱す。 しかし、完全に回避したはずの拳打は肩口を裂き、肉を抉った。だけども文は無視をする。 一切スピードを落とすことなく、バーサーカーの腕をかいくぐり跳ね上がった。 そしてカウンター気味の回し蹴りを顎部へ放つ。その鋭い一撃は巨人の脳を強かに揺らす。 結果、得られたのは僅かな硬直。 その刹那の時を利用し、文は巨人の体躯を足場にして蹴打を重ねた。 だが、バーサーカーの剛腕が文の脚を掴み取った。脳へのダメージをものともしないように。 巨人が文に向かって笑いかけた……ように見えた。 抜け出そうとする暇すら与えずにバーサーカーは腕を大きく振り上げ、地面へと叩き付ける。 文は瞬時に風を圧縮したクッションを作り、衝突による衝撃を和らげようとする。 それでは完全に勢いを殺しきれないと思ったのか、両腕を上げ受け身の体勢を取った。 腕が地面に接した瞬間、文は空中高く飛び上がった。受け身によって力の向きを変えたのだろう。 弾けるように上空へ投げ出された文は翼を羽ばたかせ、スタート地点に着地する。 肩口の破れた箇所から傷を覗かすが、少女はそれを意に介さずにバーサーカーを見据える。 焦りも見せない。それどころか先と同じく喜悦に顔を歪ませ、声を出さずに笑っていた。 「私の足を掴んでおきながら開放したのが間違いね。やはり狂戦士風情、おつむが些か足りないわ」 そうやってイリヤを挑発するが、少女のバーサーカーに対する自信は揺るぎない絶対のもの。 そんな挑発的な態度を気にもせず、夜風にたなびく髪を抑えていた。 「――だけど、私の風が無効化されるとは思わなかったわ。 以前はダメージが無いにしてもよろめかせる事ぐらいは出来たのにどーゆうカラクリ?」 イリヤが自信に満ちた表情で耳に掛かった銀髪をかき上げる。 「ふふん、それは秘密よ。……ま、でも少しヒントをあげる。 バーサーカーの『十二の試練』は命のストックを増やす以外にもまだ隠された能力があるわ」 「……へえ、それは重畳。やりがいがあるわね」 風による攻撃が通用しなかったのまたバーサーカーの宝具によるものらしい。 だとするならば、文の風は全て徒労に終わる可能性もあるということだ。 「ふふ。アヤ、貴方は本当にバーサーカーに勝つつもで………?」 突然、少女が言葉を止めた。 俺や文が何かしたというわけではない。 自信に満ちた表情を崩し、何か起きえてしまった事態を飲み込もうとしている。心なしか顔色も悪い。 「――嘘、ランサーがやられた? この短時間で二体のサーヴァントがやられたの? ううん、キャスターを入れれば三体になるわ。これでアヤを入れたら四体。……ちょっとまずいかも」 自分に言い聞かせるように呟く。 ……ランサーがやられたというのは本当なのだろうか。 槍兵とは初日に遭ったきりだったが、奴とは文と邂逅を果たすまでに何度も殺されかけている。 それどころか学園の廊下で深紅の槍に貫かれて殺されたかもしれない。 ――そのランサーが誰かに倒されたというのだろうか? イリヤが俺たちを正視した。 視線は今までのような冷酷なものではなく信じられないほど弱々しいもの。 「ごめんなさい、お兄ちゃん、アヤ。今日はこれ以上は戦えないわ」 イリヤが本当に申し訳なさそうに俺たちに謝る。柳眉が力なく下がり、縋るような覇気のない瞳。 何か企んでいるわけでもなく、心からの謝意としか思えない。 元々イリヤスフィールという少女は何かを画策するタイプでもないことは理解しているつもりだ。 俺と文は面食らったように顔を見合わすが、互いに事態の把握は出来ていないようだった。 「いきなりどうしたんですか?それにランサーがやられたというのは?」 俺に代わって文が質問を投げかける。 「キャパシティの問題なの。時間を空けてなら問題ないけど、 たった数時間で四体ものサーヴァントを取り込んだらそれこそその場で機能停止になり兼ねないわ。 ……ランサーがやられたというのはホントよ。それもたった今起きたこと」 ランサーが誰かに倒された事以外はイマイチ要領を得ないが、 少女の顔を見るによっぽど深刻な問題なんだろう。 「質問の答えを意図的にぼかしているようですが、……まぁいいでしょう。 私はこの場は手を引いても構いません。……士郎さんはどうですか?貴方に一任します」 実際に戦うのは文であって俺ではない。とてもここで我が儘を言える立場ではない。 それに愁いを帯びたイリヤの顔を見ていると、沸き上がっていた手前勝手な義憤も萎びていった。 「……ああ、俺も構わない」 俺と文の答えにイリヤが口許だけそっと笑みを浮かべた。 背中で手を組むその姿は年相応の少女にしか見えなかった。 「本当にごめんなさい。――――でも明日。明日必ず殺しに行くわ」 それだけ宣告すると少女は貴族のように一礼をし、バーサーカーと共に去っていった。
後書き 物語が怒濤の加速を見せています。 まるで打ちきりが決まったジャンプ漫画のようです。 加速の切欠は射命丸文が聖杯戦争に微妙にやる気になったことです。 結果、今までかみ合わせの悪かった物語に潤滑油がさされました。 彼女自身にそこまでの影響力はありませんが、まぁそこは主人公補正です。 モチベーション向上の理由は27話で彼女自身が語りましたが、実はそれとは別の理由もあります。 本当は語らないでいる理由の方が彼女のとって重要だったり。 それが周りから言わせれば大したことじゃないので、黙っているだけです。 ……実際は大言を吐いた割にはその後者の理由も吹っ切れずにいるんですけど。 口調がどっちつかずで安定しないのもその影響です。 物語上でいつか語るつもりですが、本当に大したことじゃありません。 2008.7.17