「文々。異聞録」 第35話








  枕元の時計を見ると正午を随分と過ぎた時刻を指していた。

 茫洋とした意識のなか、思う。
  世界は俺なんかがいなくても正常に動いている、と。

  言い換えれば、それは俺が誰からも必要とされていないと言えるのではないだろうか。
 正義の味方という衛宮切嗣から託された理想こそが、今の衛宮士郎を形作るそのもの。
 だが、理想に反して俺には何の力もない。力を持たない正義の味方には存在の意味がない。

 それはこの一週間で如実に晒し出された現実。

  そして、その正義の行使には、救う人、明確な悪が必要だ。
  この聖杯戦争。
  そこには救える人も倒すべき悪もいた。そういたのだ。
  だけど俺は救うべき彼らを助けることができなかった。理想をぶつけられる悪役ももういない。

 今、聖杯戦争は終わりに向かって加速している。

  俺を除くと残るマスターはイリヤスフィールと遠坂凛の二人だけ。
  イリヤには若干の危うさがあるが、必要でなければ無闇に他人を巻き込むような奴ではない。
  それにイリヤはバーサーカーに絶対の自信がある。
  ならば小細工を弄することなく、バーサーカーと共に正面からぶつかってくるはずだ。 

  遠坂はセカンドオーナーとして、冬木の住人が巻き込まれることを是としない。
 それに彼女の人となりを考えれば、そんな肩書きを無視しても誰かを巻き込むなんてあり得ない話だ。

  そんな残った魔術師とサーヴァントだけで聖杯を賭けた馬鹿げた殺し合いをするだけ。
  倒すべき悪も、救える人ももういない。
  ――だとすると、衛宮士郎の聖杯戦争は既に終わっているかもしれない。

 そうだとしても、俺はもう迷わない。違えない。
  これからも爺さんから託された理想を貫く。
 それが借り物で、身勝手で、強迫的で、誰からも必要とされて無くても、
  衛宮士郎にとってかけがえのないものであることには変わりはしないのだから。
  陳腐な言い方だが、何が出来るかではなく何をするか、それが今の衛宮士郎に取って必要なのだろう。

  どれだけ矛盾を抱えようとも、俺は俺の理想を捨てたりはしない。
 ならば今は聖杯戦争を生き抜くことに全力を尽くそう。


 布団の中で身を捩らせ、起き上がろうとすると体の節々が痛んだが、
  昨夜とは違って歩けないほどではない程ではない。伸びをするとくぁと短い欠伸が自然と出る。

 これだけ深く眠りについたのは久しぶりだと思う。
  ここ最近はサーヴァントとマスターという関係で繋がっているからか、文の事ばかりを夢で見ていた。
  それが、今日は見なかった。それだけ熟睡していたのだろう。

  夢の中での彼女は、まさしく奔放と言う言葉がそっくり当てはまる存在だった。
  艶めく黒い翼をひるがえし、彼女の世界である幻想郷を新聞のネタを求めて駆け巡る。
  それは現代の社会では考えられないような生き方だ。
 馬鹿にした考えかもしれないが、ストレスとは無縁のようにさえ思える。
  そう言った意味でも、現代とは違う幻想と呼べるような場所なのかもしれない。


 いつもの私服に着替えて居間に向かうと、なにやら食欲をそそる匂いが漂って来た。
  桜がうちに来るとは思えないし、あの事件の後なのだ、藤ねえも当分はうちに来ないだろう。
  そもそも藤ねえの手掛ける料理は、こんな胃袋を刺激する匂いはしないが。

  ならば残るは天狗の少女だけだ。
 その予想通り、台所の覗くと桜のピンクのエプロンを借りて料理をする文がいた。
  靴を脱いだ文の身長は、小柄な桜とほぼ同じぐらいなので何とも映える姿である。

 「おはよう、文。……もう昼過ぎだけど。昼食作ってるのか?」

 「ええ、おはようございます。今日は士郎さんに貰ったお小遣いでいろいろ買ってみました」

 お小遣いというのはいつか渡した1万円札の事だろう。
  衣食住の問題ないとはいえ、お金は何かしら必要だと思ったからだ。

 「本当は食事の準備も俺がやらなきゃいけないのに悪いな。金まで使わせたみたいだし」

  「士郎さんは疲れているようですし、仕方がないですよ。
  それに商店街をいろいろと見て回るのも楽しかったです。
  ここに来てから聖杯戦争の事ばかりで、あまりこの世界を見てませんでしたからね」

 それも仕方ないですけど、と言葉を切り再び料理に専念する。
  彼女は馴染みなどないであろう炊飯器やガスコンロも使いこなしていた。
  その適応能力の高さに改めて関心を覚える。

 手伝おうかと思ったが、ある程度料理は完成しているようだった。

 「さあ、出来ましたよー。さてさて、幻想郷が外界から閉ざされて130年。
   海の食材を使うのは本当に久しぶりですね」

 驚いた事に炊飯器の中は炊き込みご飯だった。
  調整の難しいご飯の水気も丁度良いようだし、とても初めて炊いたとは思えない。
  しかも具材はタラバガニと牡蠣……、何ともリッチだ。よく1万円で足りたと思う。

  見ているだけで胃袋が伸縮して音が鳴った。

 「文、凄い美味しそうだけど、お金は足りたか?」

  「すっからかんです。まあまあそんなことは気にせずにどうぞ食べてみてください」

 副菜は風呂吹き大根と、ほうれん草の味噌汁。
  メインは炊き込みご飯であるという主張がはっきりとした献立。
 どれも慣れてない調理器具で作ったとは思えないレベルだ。

 「……うん、うまい」

 主菜の炊き込みご飯も蟹と牡蠣のしつこくない程度に主張しており、
  出汁として昆布の旨味がしっかりと生きている。基本をしっかり抑えた味付けだった。

 「そうでしょうそうでしょう。
   普段は扱わない食材だったので、苦心した甲斐がありました。……ん、我ながら美味くできましたね」

 文は含みのない笑顔でご飯を小さな口に運ぶ。
  昨日の文とはまるで別人と言える姿だったが、当然の話そんなことはない。
 昨夜に俺を睨み付けた射命丸文も、今も射命丸文も同様の人物だ。

 ……まぁ何事に対しても自信たっぷりなのは、どんな時でも変わらないが。

 「んく? どうしたんですか士郎さん? もうお腹いっぱいですか?」

 箸を口に咥えているためか、幼子のようなはっきりとしない発音だった。
  普段の滑舌の良さとのギャップに、ほんの少しだけおかしく思える。

 「いや、食べるよ。それより今日はこれからどうするんだ?」

 「……んー、どうしましょうか」

 イリヤは今日俺たちを殺しに来ると言っていた。

 だとしても、こうして陽の出ているうちに襲いかかってくるとは到底思えない。
  どうも聖杯戦争は人目の付く日中に戦わないのが、基本的なルールらしい。
  厳密に遵守しなければいけないわけではないようだが、わざわざルールを違えて襲ってくるとは思えない。
  当然それは遠坂も同じであろう。冬木のセカンドオーナーとして神秘の秘匿は重要な責務だ。


 そうなると、陽の沈むまでは時間が空くことになる。
 だったら俺はここ最近サボりがちな魔術の鍛錬がしたかった。

 イリヤに魔術回路を開けてもらったのだ。挑戦してみたいことも幾つかある。

  その旨を伝えようとするが、その前に文が口を開いた。

 「じゃあ士郎さん、今日は私の取材に付き合ってください。
  そうですね、新都に行きましょうか。あそこは栄えているのでなかなか面白そうです」

 ……なんでさ。

  まるで良いことを思いついたと言わんばかりの口調だった。
  ここまで自信満々だと俺の考えが間違っているんじゃないのかと思えてくるから不思議だ。

 「今はそんな場合じゃなくないか?」

 「……? おかしな事をいいますね。私がこの世界に来た目的は聖杯戦争ではなくて、
  外界へのネタ探しだと初めに言ったと思いましたが。
  だったらすることがない時ぐらいは本職に精を出したいですし。
  ……まぁ取材と言っても、観光のようなものになってしまうでしょうけど」

 厳密には異世界ですが似たようなものですと言葉を繋げた。
  ……それでいいのか新聞記者。

  文は和綴じの赤い手帳と万年筆を携えて立ち上がる。どうも俺には拒否権はないらしい。

  だけど確かにたまには息抜きも必要かもしれない。それに聖杯戦争も終わりが近い。
 聖杯戦争が終われば文は否が応でも幻想郷に帰ってしまうし、こんな機会は二度とないだろう。

  もしかしたら闘争の最中、命を落とすなんてことも十二分にあり得る。
  それとサーヴァントとは言えども女の子と二人で出かけるなんて滅多にない機会なのだ。
  一般的な学生よりその手の欲求が薄いことは自覚しているが、かといって興味がないわけではない。

 「そうだな。だったら今日は文とデートだ。
  それに文がお上りさんにならないように見ておかないとな」

 「なっ! いくら私でもそこまで恥ずかしい真似はしません!
  ……そ、それにデートって何ですか! 私は取材と言ったでしょう!」

 少女が顔を紅潮させて否定する。
  激しく腕をぶんぶんと振るう様は普段毒づく彼女からは考えられない姿だ。
 どうもこの天狗の少女は常人より達観した感性を持っているが、免疫がないことも幾つかあるようだ。
  その反応が妙におかしくて、人外である彼女に否が応でも人間らしさを感じてしまう。

 「じゃあ準備してくるから待っててくれ。それとごちそうさま。
   かなり美味かったよ。……こういうのもなんだけどまた作ってくれると嬉しい」

 「…………あ、はい。お粗末様でした」

 それは少女には珍しく間を空けての返答だった。


 ――――――――――


 新都に向かうバスに揺られる。

  やはり平日だけあって乗客は少なく、一組の老夫婦が最後尾の席に座っているだけだった。
  俺たちを見て微笑ましい眼差しを送っている。悪い気はしないけど、なんだかこそばゆい。
  文もその視線に気付いたようで、彼らにニコニコと愛想の良い笑みを返した。

 ……それがどうにも上辺だけに見えてしまうのは、俺の心が汚れているからだろう。

 学園はあの事件以降、未だ休校である。
  なのでこんな風に平日の昼下がりに遊びに行くのは些かまずいかもしれない。
  今更そんなことに気付いたところで、浮かれた文を見てしまうと引き返すのは不可能だ。

 彼女はいつもの古めかしい写真機でカシャカシャとバスの中を撮っている。
  それすらも微笑ましく許容する老夫婦に感謝の言葉を贈りたい。

 「んー、バスというものに乗るのは初めてです。早速貴重な経験が出来ました。
  士郎さん。このバスの式、ではなくて動力はなんですか?」

 目を輝かして俺に質問を投げ掛ける。

  昨日の夜に「感情の起伏が薄くなった」と言ったのは嘘かと思えるほど好奇心に満ちあふれている。
 その赤い瞳は新しい玩具を手に取った子供のそれだった。
  ここからはとてもじゃないが、あの捕食者のような瞳を思い出すことが出来ない。

 「それとそれと、あの吊り下がっているあの輪っかの飾りはなんですか?!
   首を釣るには若干輪の大きさが小さい様に思えますけど!」

 端から見て、異常なほどのテンションの高さだ。
  というか、つり革に対してそこまで曲解した見解は初めてだ。かなり怖いぞ。

 「動力は軽油という化石燃料だな。それを燃やして車輪を動かしている。
   それとあの輪っかはつり革だ。乗客があれを掴んで体を支えるのが用途だな」

  「なるほど、つまりこのバスの席全て埋まり、その上に立って乗る乗客までもいると。
   ちょっと嫌な光景ですが、そういうことかしら」

 手帳を開いてつらつらと文字を走らす。
  時折筆が止まるのは俺の言葉をそのまま書いているからではなく、
  自分なりに理解して文章を組み替えているのだろう。
  それだけ文の理解力は異常なまでに速い。

  まぁ今の話を解釈したのかは、その手帳を見なければ判らないけどな。
  ……それには俺も命が惜しいのでやめておこう。


 …………。


 ようやく新都のバスターミナルに到着した。

 文のテンションはずっと高めだった。
  道中、バスに揺られることに飽きた文が、バスの速度に駄目出しをいたのにはどうしようかと思った。
  今にも窓から飛び出しそうな勢いだったので、それを宥めるのに精一杯だった。
  単にからかわれていただけかもしれないが、彼女なら正直やりかねない。

 「うーん。大きいですね。幻想郷にここまで大きな建物はただの一つもありませんよ。
  石造りでさえ珍しいのにそれがこんなに沢山なんて。少し信じがたい光景ですね」

 立ち並ぶビル群を眺めて文が嘆息を漏らす。
  首を斜めに傾けて、くるくると回りながらシャッターを切る。
  どう見てもお上りさんだ。

  俺の冗談めいた発現がこうして現実のものになるとは思わなかった。

  ……周囲の人から、奇特なものを見る目を感じた。
  そりゃただのビルを次々とカメラに収めるなんてことはそうそうないからな。

  奇人変人の扱いならまだ良いが、十代中頃の見た目を考えると補導される可能性もある。
  妖怪である彼女の身分を証明するものなんて何もない。避けねばならぬ事態だ。

 「新都には何度か来ましたが、取材目的で来るとやはり新鮮に見えますね」

 ピタッと回転を止めて、俺と向き合った。ホッとする。

  頼むから奇怪な行動を取らないでほしい。
  人目を引く整った外見をしているだけに余計に奇行が目立ってしまう。
 だけど彼女は判ってやっている節もあるので、下手に突っ込むと余計変な行動をしかねない。

 「ああ、そうだな。俺もこうやって遊ぶ目的で新都に来るのも久しぶりだ」

 官民一体の都市開発によって、新都は近県一番の繁華地帯と言っても過言ではない。
  その新都で俺は彼女をエスコートすることになったわけだが、さてどうしたものだろうか。








































 後書き

 射命丸さんは自分自身の言動が他人に影響を及ぼすことを良しとしませんから、
  士郎に残せるものはあまりないかもしれません。
  だとすると、クロスにする意味が益々稀薄化していますが、ドンマイ。

 強いて言うなら、彼女が士郎に出来ることは現実をありのまま冷酷に伝えることだけです。
  それを聞いた士郎君がどう捉えるかは、また別の話。

 2008.8.10


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