「文々。異聞録」 第37話




  冬木市の郊外に大きく広がる森。
  そして、この森の奥地にイリヤスフィールが拠点とする居城があるという。

  ――時刻は夜の七時を大きく回っていた。

  こんな所に街灯なんかがあるわけもなく、怪しく照らす月だけが頼りだ。
  車道に面してはいるが、用意もなく入れば確実に遭難するだろう。
  それだけ広大な面積を誇る森。アインツベルンがここを拠点にしたのも頷けた。
 所狭しと木々が生い茂るそれは森というより、既に樹海。
  ただでさえ視界が狭いのに、夜であることが更なる悪条件となる。
  まともな神経をしていれば、こんな時間にこんな所へ攻め込むなんて愚の骨頂であろう。

  だが、俺たちは躊躇なくその森に足を踏み入れた。
 侵入する者を拒むような凍土の冷たさが靴の裏より伝わってくる。
  それがこれから起きることを予期するような悪寒となって全身を駆け巡った。

  こうやって魔術師の拠点に攻め込むのは無謀極まりない行為だ。
  それは半人前の俺でも知る魔術師の世界における常識であった。
  この森はイリヤスフィールのフィールドであり、如いては腹の中に等しい場所である。
  ……おそらくイリヤは踏み入れた瞬間に俺たちの存在に気付いているだろう。

  今はまだ何のアクションもないが、侵入した以上は何が起きても不思議ではない。
 そう思うと体が自ずと慎重になる。神経を研ぎ澄ませて起こり得る最悪な事態を想定する。
 ただイリヤの性格を考えると不意打ちなんて真似はしないかもしれない。
  しかしその「かもしれない」はこの場において惰弱な考えでしかないのだ。
  ……踏み入れた時点で何かあると危惧していたが、それは杞憂に終わったようだった。

 俺の前を歩く少女は薄暗い森の中を一切の躊躇いなしに進んでいた。
  俺も倣うように彼女と同じ足取り、同じ道筋を歩く。
  こういった足下も不確かな舗装のされてない道ではそれが堅実であるからだ。

 その為か、視線が自然と文の足下に向いてしまう。
 少女はいつもの高下駄を模した赤い靴を履いている。そして頭には山伏の付ける頭襟。
  やはり、敵地に乗り込むに当たってはあの格好で無ければならないようだ。
 尤もそれは気持ちの問題だけで特にこれといった大きな意味は無いようにも思える。

  普段は隠している背中の翼も今は外気に晒している。
  その微かに揺れる黒い翼を見るとどうしても、彼女に抱えられて空を飛んだ記憶が有り有りと蘇る。
  
  本当は二度と経験したくないと思っていたのだが。
  ……実はその決意とは裏腹にたった今まで経験をしたばかりであった。

  ついさっきの事だが、もう既に記憶から封印したいほど酷いものであった。
  文曰く、時間が惜しいということで、ここまでの道程を彼女に抱えられて飛んできたのだ。
 結果、市の郊外に位置する数十キロの距離もものの数分で到着。
  それでも思う。どれだけお金と時間が掛かろうともタクシーでここまで来るべきだったと。

 彼女は人目に付かないように闇に紛れて飛んでくれてはいた。それはいい。
  だが、加速する度に耳から脳みそが飛び出そうになるのは如何なものだろうか。
 それでもかなり加減してくれてたらしい。もう何があっても勘弁してもらおうともう一度強く誓う。

 「……でもどうせなら、空からイリヤの居場所まで行った方が早かったんじゃないか?」

 鼻歌交じりに藪の中を突き進む文にふと沸き上がった疑問を投げてしまった。
  何かとんでもない墓穴を掘った気がする。

 「空からだと何かと目立ちますし、地面を歩かないと地形とかが判りませんから。
  ……これからの闘いは厳しいものになります。これまでが前哨戦と言っていいぐらいに。
  勝率を少しでも上げるには地道な努力も必要なんですよ」

 意外だった。
 言葉遣いとは裏腹に豪快な性格をしているので、そんな事は気にしていないと思っていたのだが。
 まぁもし「そういえばそうですね。そうしましょうか」と言われたら自分自身を呪うところだった。


 パキリ、と枯木を踏み砕く音が静閑な森に響く。
  背中を見せる文は質問に答えながらも澱みのない歩みを見せている。
  目的地までのルートが頭に入っているのだろう。ついでにこの疑問も訊いてみることにした。

 「聞き忘れたけど、文はどこでイリヤがここにいるって知ったんだ?」

 「ああ、先日イリヤさんが士郎さんの家に泊まった帰りに彼女にカラスをつけさせましてね。
  一般的な使い魔と違って魔力もないその辺にいたただのカラスです。
   如何に優れた魔術師とはいえ、彼らの存在に気付けはしないでしょう」

 ……いつの間にそんなことを。
  それはべろんべろんに酔っぱらったつい先日の事だ。
  ……今思うとあの時は楽しかった。
  イリヤとの関係はあの直後に硬化してしまったが、またああやって酒を呑める日が来るのだろうか。
  いや、弱気になってはいけない。絶対にそうしなければならない。

 確かあの時の文はイリヤの衝撃的な行動に固まっていた筈だ。よくそんな余裕があったと思う。

  「他にも抜け目なくいろいろとやってそうだな」

 「ふふふ。どーですかね」

 冗談交じりに言ったはずが、文は怪しく微笑んでみせる。
  ああ。これは間違いなく何かやっているに違いないだろう。


 ――――――――――


  いつまでも続く暗く深い森のなか。
  道と呼ぶには些か大仰だが、ある程度は走り回れるぐらいに開けた場所が幾つもあった。

  そして、人の踏み入れたような痕跡も。それも真新しいものばかりだ。
 文の言葉を信じてないわけではないが、この奥に何者かがいるのは確かなようだ。


  ついに森を切り抜けると石造りの城があった。
  見るものを圧倒する重圧的な佇まいまさしく魔術師の管理する居城――。
  あそこだけ別の国のような異質な空間を作り出している。
  数十はある窓からは灯りを漏らすものも幾つかあった。人が住んでいる証拠だ。
  それにここからでは判らないが、魔術的な対策も何重にも施されている筈。
  これ以上、考え無しに進むのは危険だろう。

 「……イリヤの奴、本当に城住まいだったん――」

 人工の景観に棒立ちになって思わず感嘆を漏らすも、文が咄嗟に右手で俺の口を塞いだ。
  抗議の声を上げようとするが、文は人差し指を鼻の前に立てる。静かしろってことだ。

 「シッ、静かに。……気配を殺しなさい」

 俺に聞こえる程度の小声までトーンを落とす。その表情にいつもの薄い笑みない。
  ただ事ではない文の様子。呼吸を落ち着かせて、神経を集中させる。
  満足そうに頷くと口を抑えていた手を離す。そして、腰を低く落として藪の中に隠れた。
  その状態でこいこいと手招きをする。彼女に近づいて、俺も倣うように身を潜めた。

 文は一拍置いてから口を開く。

 「結論から言うと、現在この城に侵入してる者がいます」

 予想外の言葉に大きな声を出してしまいそうになるが、
  感情をコントロールして再び気を落ち着かせる。感情の制御は魔術の基本だ。

 「……俺たちよりも先に誰が?」

 「そんなの考えるまでもないです。凛さんとセイバーでしょう」

 そうだ。今残るマスターとサーヴァントのペアはその二人だけ。

 ……これから戦う相手という自覚なのか、前と違ってセイバーに敬称を付けていない。
 方や遠坂に対しては未だにさん付けなのは敵と見なしてないからなのだろうか?

 文の視線は城のエントランスの辺りに集中している。
  その時、ドン、と何がか崩れるような爆音が響いた。
  そしてその音が徐々に大きくなっていく。まるでこちらに近づいてくるように。

 「――来るわ。もう少し身を屈めてください」

 一際大きな爆音がエントランスで起きた。

  その音に森に住む鳥が慌ただしく空へと飛ぶ。
  たった今まで寝静まっていた森が戦場と化したのを察知したかのように。

  閉ざされていた城門がただの木片と化していた。その城門から矢のように飛び出したのはセイバー。
  更に斧剣を振りかざしてバーサーカーがセイバーへと迫る。

  城の前の空けた土地にセイバーがバックステップで後退するも、間髪入れずに斧剣が大地に刺さった。
  セイバーの後退した場所に寸分違わず。
 ……そこにセイバーの姿はなかった。彼女はバーサーカーの身の丈を超すような跳躍で躱していた。

 「ハァッ!!」

 跳躍を回避だけでは終わらせずに、落下の勢いを加えて不可視の剣を振り下ろす。
 対するバーサーカーの反応速度も人間のそれではない。
  すかさず空中であまり自由の効かないセイバーに斧剣を薙ぎ払った。

 剣と剣が触れ合い、鮮烈な火花が散った。
  拮抗した剣圧。互いの肉体に刃は届かない。

 セイバーは勢いを殺すために二、三度、身を捻らせて着地する。
 凛々しく細められた翠色の瞳はバーサーカーを捉えており、巨人もまた同様にセイバーを離さない。
 こうして身を潜める俺たちに気づけるような余裕はないだろう。

 エントランスからまた一人誰かが駆け出してきた。
  ……あの目に染みるような赤い服は見間違えるはずもなく、遠坂だ。

 「セイバー!!」

 遠坂は声を掛けるが、セイバーは微動だもせずに睨み合いを続ける。
  相手は昨夜二騎のサーヴァントを脱落させたバーサーカー。寸毫の気のゆるみが命取りになる。

  遠坂はそれを察したのかセイバーの闘いの邪魔にならない位置に移動した。
  セイバーから後方5メートル。確かにそこなら魔術的な補助に最適だろう。

 「……役者が揃って来ましたね」

 隣で息を潜める少女がそう呟いた。
  声のボリュームは小さいが、僅かに興奮が混じっているのが伝わる。

 「そうだな。あとはイリヤだけか」

 イリヤの姿はまだ見あたらない。だとすると、まだ城の中にいると考えるべきだろう。

 「私たちはここで彼女たちの決着が付くのを待ちましょう。
  自ら矢面に立って三つ巴になるのは利口だとは思えません」

 ここにいる全ての勢力は敵対している。
  彼女の提案は正々堂々と言えたものでは決してない。
  それでも勝ち残ったサーヴァントが、消耗しているのは確実だと言える。

  だったらその漁夫の利を狙うのが、この場においての最も合理的な作戦だろう。

 「……見てください。バーサーカーのあの剣。……柳洞寺でぶん投げたものと同じですね。
   刀身を繋ぐために鋲が打ってあります。あれで大丈夫なのかしら」

 文の言うとおりにバーサーカーの得物を見ると、確かに一枚岩を削ったようなあの斧剣だ。
  確かにアサシンに切断させた箇所を大きな鋲で止めている。

  ……それはつまりサーヴァントの中でも並外れた身体能力を持つ
  バーサーカーに取って得物は二の次でしかないということか。

 「『あげるわ』なんて格好つけておきながらリサイクル。
  これはアレですかね。エコですか、エコロジーですか。ぷぷ。
   柳洞寺に戻って壊れた剣を回収している姿を想像すると笑えますね」

 笑いのツボに入ったのか、文が声を殺して肩を振るわせて笑っている。
  ……妖怪のツボは俺のような凡人には理解しがたかった。


 ――――――――――


 ――そして、最後の役者であるイリヤスフィールがエントランスから姿を現した。
  だが、イリヤの様子がいつもと違っておかしい。
  息が荒く足取りもどこかおぼつかない。どうにも体調が悪そうに見える。

 「バーサーカー! さっさとセイバーとリンを殺しちゃいなさい!」

 そんな状態でもいつもと同じ気丈な声でバーサーカーに命を下した。

 「フン。言ってくれるわね。でも今回は前のようにはいかないわ。
   最良のサーヴァントがなんでセイバーと言われているのかここで教えてあげる」

 「うるさい。そんなのわたしのバーサーカーにしてみたら、何が相手だって同じよ」

 「……イリヤスフィール、何をそんなに焦っているのかしら?
  いつもの小憎たらしさが少しばかり足りないようだけど」

 遠坂の言うとおり、イリヤの言葉にはどこか焦燥が含まれていた。
  少女の身体がふらついているように見える。焦りの原因はその体調不良なのだろうか……?

  「わたしはそこに隠れているシロウとアヤの相手もしなきゃいけないから忙しいの!」

 …………あ。

 イリヤが明らかに気づいている様子で、俺たちの方を見ている。
  その視線に気付いた文が身を屈めるが、もう何をやっても手遅れだろう。

 「お兄ちゃん、そんなところに隠れてないで出てきたらどう?」

 「一体何を……?!」

 遠坂が何事かとイリヤの視線の先を追った。……そして遠坂と目が合う。
  訝しんでいた表情が、驚愕のものに変わった。それもほんの一瞬だけだったが。

 「……あんたたち何やってんの?」

 遠坂の呆れ半分の視線が俺たちに突き刺さった。

 「いえいえ士郎さんとちょっと近所を散歩していたら、
   偶然にもこんなところに迷い込んでしまいました」

 ……その言い訳はかなり苦しいぞ。
  俺んちからここまでどれぐらいの距離があると思っているんだ。

 「…………」
 「…………」

 イリヤと遠坂の空気が急激に白けていく。

  当然だか今は冗談を言えるような雰囲気ではないようだ。
  文は嘆息を一度だけ吐くと、いち早く藪から抜け出した。俺も慌ててその後に続く。

  俺たちの姿を確認したイリヤが満足げに微笑んだ。

 「こんばんは。お兄ちゃん、アヤ。
   今日は前と違ってシロウたちがゲストね。わたしの城へようこそ。
   今夜はアインツベルンを代表してわたしが歓迎させてもらうわ」

 スカートの端を上品に掴み、優雅に一礼をした。少女の淑女然とした態度に見とれてしまう。
 この瞬間ばかりは体調不良はおくびにも出さない。それはイリヤなりのプライドだろう。

 「お兄ちゃんたちは殺す前に、お返しとしてお茶会に招待したかったけど、
  ――それにはこいつらがちょっと邪魔ね」

 エントランス前から遠坂とセイバーを見下ろす。

 「言ってなさい。子供だからといって泣いて謝っても許してあげないわよ」

 今まで一触即発の中でバーサーカーと牽制し合うセイバーが微かに口だけ動かす。
 視線は真っ直ぐに正面の巨人を見据えたまま、剣は中段に構えている。

 「リン。このままでは埒が明きません。――宝具使用の許可をください」

 宝具とはサーヴァントの奥の手。
  真名を以て開放した宝具は魔術を超す神秘を引き起こす。
  魔力の消費も膨大な為、ここぞと言うときにしか使えない。

  ……いきなり登場した俺たちの存在は全く無視しているかのようだ。
  セイバーとバーサーカーの周りだけ別次元のように緊迫している。

 「いいわ、セイバー。真名が露見しても構わない。
   貴方の力をこいつらにガツンとお見舞いしてあげなさい」

 だが、イリヤはそんな状況下でもおかしそうに笑う。

 「クスクス。何をしたってバーサーカーには勝てっこないのに」

 イリヤの自信は絶対だ。それを裏付けるだけの強さがバーサーカーにはある。
 そして遠坂もセイバーに全幅の信頼を寄せている。お互いに何があろうと揺るぐことはない。

 「前の闘いは住宅地だったから使えなかったけど、ここだったら一切の遠慮はいらないわ。
   ランサーも一撃で倒したセイバーの宝具がどれほどのものか見せてあげる」

 「へぇ。それは楽しみ――!?」

 ――ゴウ、と風が鳴った。

  その音にイリヤも言葉を切ってしまう。
  発生源は探すまでもない。セイバーの持つ不可視の剣からであった。
  見えざる剣が暴風を帯びて渦巻いている。吹き荒む風が轟音だけではない。
  何もかもを圧倒する魔力の開放がされようとしている。

  この場の誰もが息を呑んだ。隣にいる文もその光景に目を奪われている。

 「……凄い」

 その一言だけ、ぽつりと漏らした。

 「この風は風王結界(インビジブル・エア)と言うわ。
  本来は刀身の尺を隠すのが目的じゃなくて、剣の正体を隠すためのカモフラージュでしかないの。
  セイバーの持つ剣はそれだけ正体がわかってしまうほど有名なのよね」

 遠坂が余裕の現れか、つらつらと説明する。
  どうやら圧縮した風によって光を屈折させて剣を見えざるものに変えているようだ。
  ならばその『風王結界』は鞘に過ぎない。そして、今その鞘から力を解き放とうとしている。

 徐々に抜き身となっていくセイバーの剣から感じる夥しい魔力。
 その刀身は目映く輝いており、人々の思いだけで鍛え上げられた想念の結晶であると伝える。

  俺には理解が出来た。セイバーの持つあの剣は正体は――。

 「バーサーカー!! 何をもたもたしているの!? 宝具を使われる前にセイバーを殺しなさい!!」

 イリヤがバーサーカーに罵倒するように発破を掛けた。
  その少女の態度は先程までの余裕を感じさせない。
  無理もない。あの剣から感じる夥しい魔力量は此度の聖杯戦争の中で一番のものだろう。

 バーサーカーが咆吼を上げ、セイバーに駆ける。
  その巨大な斧剣でセイバーを叩き潰すまでに一秒も必要ないだろう。
  息をつく間もなくセイバーを肉薄する距離まで詰めた。
  その瞬息よりも刹那の時、セイバーが剣を肩に担ぐように構えた。

 『エクス!!<<約束された>>』

   そして、巨人の斧剣よりも速く――、
   目視できるほど凝縮された魔力を眼前に開放せんと振り下ろし、宝具の真名を解き放つ。

 『カリバーーァァッッ!!<<勝利の剣>>』

 視界を埋め尽くす光の奔流――。
  その聖剣より放たれた光の波が剣斧を振りかざすバーサーカーを呆気なく飲み込んだ。






















 後書き

 今まで空気だった遠坂&セイバー組が久しぶりに登場しました。
  このクロスSSでは士郎と遠坂が同盟関係にありませんから、自ずと登場回数は減ってしまいます。

 2008.8.26


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