「文々。異聞録」 第39話



 周囲の風が収束し、鎌鼬となって少女を纏う。
  巻き上がった小石が風の刃に触れると、まるでバターのように切断された。
  それは鎧であり、触れるものを切り刻む刃。
 迂闊に手を出そうものなら、肉どころか骨ごとなます切りにされるだろう。

 だが、バーサーカーは意に介すことなく猛進する。
  荒ぶる鎌鼬の圏内に進入し、未だセイバーの血で濡れた斧剣を振るう。

 風の刃がバーサーカーの肉体に触れるも、皮一枚切る事も適わない。
  それどころか風に動きを捕られた様子もなく機動力はまるで損なわれていない。

  文は苦々しい表情で、眼前に迫る縦斬りを巨人の身の丈を超す跳躍で躱した。
  空中という自由の効かない空間。
  通常ならば不利な状態に陥るが、その常識は文には当てはまらない。
  少女にとって、空中こそが最も得意なフィールドだからだ。
 キャスターとの闘いを見て、最もそれを痛感した。

  そして文は何もない空中に一本足で立っていた。
  翼を動かすまでもなく、それが当たり前であるかのようにバーサーカーを俯瞰する。

 目を凝らすと少女の足下に球状に圧縮された風の塊が渦巻いていた。
 その足場をバネにして軽業師の如く後方へと跳ね飛ぶ。
  つむじ風も反動によって蹴り飛ばされ、バーサーカーへと飛来。ドンと派手な音を立て胸部に命中。
  が、それも鋼鉄の肉体に弾かれて霧散してしまう。ダメージも見受けられない。

 「これも駄目か」

 重力による落下に身を任せる少女にバーサーカーが間合いを詰める。
 この程度の距離なら1秒も必要としないだろう。
  しかし文は襲いかかる巨人にではなく、地面を狙って葉団扇を二度振り抜いた。

 団扇から発生した二つの突風は大地に刺さるも、
  軌道を変化させ地面を這いながらバーサーカーへ奔った。
 だが、バーサーカーはひるむこともなく、吹き払う風を蹴り破る。

 「足止めにもならない」

 文は翼を大きく翻し着地を止め、空中で迎え出る態勢を取った。
 バーサーカーは自身の間合いに入るやいなや、斧剣を頭上高くに振りかざした。
 文はセイバーと同じく、バーサーカーの攻撃を回避することに専念したようだ。

  ……バーサーカーの戦法は極めて単純だ。目に入る敵に目掛けて斧剣を振るうだけ。
  只の一欠片も奇を衒うことのない正攻法。
  だが、ここまで攻守ともにずば抜けた能力を持っていれば、
  その正攻法でどんな敵にもオールマイティに戦える結果を生む。
  現に文はこれまで数々な技を駆使したが、ただの一つも『十二の試練』を貫けていない。

 豪剣の切っ先が文の鼻先を掠めそうになった。

 「おぉ、怖い怖い」

 回避を続ける文は余裕そうに見えるも、おどけた言葉にはどこか焦りが含まれていた。
  恐れを知らないバーサーカーは間合いを詰め、剣速を加速させる。
 アサシンの剣を避けきった文も、触れずとも肉を裂く巨人の剣には勝手が悪いのか。

 「ちょっとだけ退避させてもらいます」

  文は翼を勢いよく羽ばたかせ急激に空に向かって飛ぶと、10メートル程度の高さで停止した。
 闇夜と溶ける黒い翼、その反面純白のブラウスは眩しく映り込んでいる。

 「ずるーい。そんなの反則よ反則」

 イリヤが頬膨らませて抗議をする。

 この距離ではバーサーカーの間合いの外だ。
  理性を失ったヘラクレスは本来得意である弓も使うことは出来ないようだ。
  その結果、攻撃手段はかなり限られている。
  キャスターにしたように斧剣を投擲することも可能だろうが、
  不意打ちでもなければ文に当たるはずはない。

 そんな状況下でバーサーカーは低い唸りを上げながら立ち尽くしている。

 「うふふ。私への異議申し立ては事務所を通してください」

 ……事務所とは聖杯戦争を管理する教会のことだろうか。
  イリヤの頬は更に大きくなり、空を悠々と飛ぶ文を非難する。

 「もー。そんな意地悪言っていると、先にシロウを狙っちゃうんだからね!」

 空を仰いでいたバーサーカーか、ギロリと俺を睨んだ。

  ここまでイリヤとの闘いは暗黙の了解ようにマスターを直接狙うことはしなかった。
  聖杯戦争初日に文がイリヤを直接狙ったことに起因しているのだろう。
  そうだとしても直接決めたわけではないので、イリヤに言い分には何の非もない。
 文もその事には納得しているようで、困惑を表すように翼を力なく垂らした。

 「あー、それは困るわね。では1分だけ時間をくださいな」

 「……いいわ、60秒ね。
   でも1秒でも過ぎたらお兄ちゃんを殺すわ」

 イリヤは渋々妥協案を飲む。

 空中戦を最も得意とする文にこの妥協案はかなり破格の条件。
  相性が良いとは言えない相手だと言うのに、その相手が得意とする土俵で戦うこととなる。
  反故すれば、イリヤは確実に俺を殺すだろう。

  ……まただ。
  また文を不利に追い込んでしまう原因になってしまった。
  俺の力の無さがどこまでも彼女の足を引っ張ってしまう。

  『力を持たない弱者の分際で烏滸がましい』

  理想を捨てない限り、どこまでも付きまとう文の言葉――。
  今もその言葉通りの現実が目の前にあった。

 (……こんな俺に出来ることは何かあるのか?)

 ただそれだけが頭から離れなかった。

 ――――――――――


 猶予は50秒を切った。
 彼女は何もせずに空中で翼をゆっくりとはためかせ、ぶらぶらしているだけだ。
 ただ、いつになく思慮を巡らせているような顔を浮かべている。

 残り時間の半分を切ろうとした時、腕組みを解いて俺たちを見下ろした。

 「これから話すのは独り言です。貴方たちは聞きたくなければ聞かなくてもいいわ」

 彼女の言葉から感じる空気もどこか神妙で何の飾り気もない。
  これまでにない装いを漂わせており、らしくない、と言うのが正鵠だろう。

 そして少女が、曰く独り言を話し出した。

 「私は運が良かった。
   これまで戦ってきたサーヴァントに純粋な英霊は一人として居なかったわ。
  同じ狢のメドゥーサ、亡霊でしかない佐々木小次郎、裏切りの魔女メディア。
  彼らは英雄と呼ばれる存在ではなった。だから私も制約なく戦えたわ」

 メディアというのはキャスターの事だろう。
 どこで知り得たのかは不明だが、情報の収集と分析はブン屋である彼女の専門分野だ。
  あり得ない話ではない。

 「『制約』って何のこと?」

 イリヤは俺とは違う点が引っ掛かったらしい。その疑問を遠慮なく文に投げ掛ける。
 ……どうやらその『制約』が話の本筋だったようで、
  文はイリヤに関心するような一瞥をくれると淀むことなく話を続けた。

 「妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を退治する――。
  それが私の住む幻想郷での尊い秩序であり、妖怪と人間の間に築かれた信頼。
   ならば妖怪を退治する人間。それは即ち英雄と呼ばれる存在――」

  何が正しくて何が間違っているか。
  そんな事は時代や場所によって大きく変わってくるもの。
  彼女は喰らい、殺される間柄を秩序と尊び、信頼と呼んだ。
  ……納得出来ない。納得出来ないが、文がそう言うなら事実なんだろう。

 「英雄は人間たちの願いによって奉られる者たち。
   古来より彼らは私たち妖怪の天敵であり、
  そうあって欲しいと願われた英雄の剣は妖怪にとって猛毒になる。
  妖怪が英雄に倒されるのは世界の定めたルール。なるべくしてなり、負けるべくして負ける。
  ――そして最たる大英雄ヘラクレス。
  私のような一介の烏天狗ではとてもとても敵うような存在ではありません」

 古典的な英雄譚は英雄が魔を討つ、そういった話が非常に多い。
  ヘラクレスもネメアの獅子を始めとする数々の化物を滅ぼしたのは有名。
 文の話が本当ならば、ここまで絶望的に相性の悪い相手はいない。

 「英雄に勝つと言うことは、それは上から下へ流れる水を逆流させるのと同じです。
   正直に言って無茶もいいところですね。
  ……でも、たまには妖怪が英雄を打ち破ってもいいと思いませんか?
   ですから、私は挑みます。私の風が流れる水を押し戻してみせましょう」

 少女は一枚のカードを取り出した。

  あれはスペルカードと言う彼女の切り札。
  彼女はこれまでの闘いで一度しかあのカードを使ったことがない。
  それもその筈、あれはサーヴァントで言うところの宝具に該当する神秘。
  宝具と同様に迂闊に晒すわけにはいかない。
  それとも、今に至るまでスペルカードを使う機会に恵まれなかったのだろうか。

  カードを誰の目にも映るように天に掲げた。

 風符「天狗道の開風」――。

 はっきりとした口調でカードに記された内容を読み上げた。

 「このスペルカードには私の得意技を記してあるの。
   で、今宣言した『天狗道の開風』がその技。
   私は扇の一閃と共に霊力で練られた旋風をバーサーカーに放つわ」

 「何それ? もしかして私のバーサーカーを相手してご高説?
  ……随分と舐められたものね」

 文の物言いに自分のサーヴァントが甘く見られていると感じたのか、不機嫌を露わにした。

 「いえ。これは私の住む幻想郷のルールみたいなものでしてね。
  このルールを無闇に破ると恐ろしい方々にボコボコにされてしまいます。
  なので癖みたいなものですから、気になさらないでくださいな。
  ……もっとも今回に限っては出力までも落とすつもりはありませんけどね」

 文に魔力の高まり、構える葉団扇に巨大な旋風が発生した。
  いや、この旋風ではなく竜巻と呼べるクラスの暴風だ。

  そしてこれはライダーと決着を付けたスペルカード。

  その竜巻が持つ威力は近くで見ていた俺が最も理解している。
  雲にぽっかりと大きな穴を開け、数キロ先のライダーを天馬ごと切り刻んだ。
  ライダーの腕は千切れ、天馬は頭部を削り取られた。思い出すだけで肌の粟立つ光景だった。

  この技ならばバーサーカーの『十二の試練』でさえも打ち破れるだろう。

 「じゃあ、行くわ。精々避けてみなさい。……避けられるものならね」

 文が葉団扇を一閃した。

 距離はたったの10メートル。来るとわかっても躱せるようなものじゃない。
  竜巻の大きさはバーサーカーを優に超え、その速度はまさに疾風迅雷。

 バーサーカーは回避動作を諦めたのか、両腕を軽く掲げて竜巻を受け止る態勢に入る。
  そして息をつく暇もなく、巨人と竜巻が触れた。
  押し潰そうとする竜巻の風圧は凄まじく、バーサーカーの足が瞬く間に大地にめり込む。

 距離を取る俺のところまで暴風が吹き荒れる。
  目に砂が入らないように腕で覆うも、さして効果は得られない。

 拮抗の間すら与えず、竜巻がバーサーカーを飲み尽くし、押し潰した。
 尚もミキサーのような風の刃が腹這いになる巨人の肉体をガリガリと音を立てて削り取る。

 竜巻が消える頃には巨人の姿は地面に埋め込まれるまで潰されていた。
 巨体はぴくりとも動かない。いや、動けない。

  そして正確に1分――。
  文が大地に下りた。


 夜の森がかつて静けさを取り戻す。
 後はただバーサーカーが起き上がらないことを祈るだけだった。

  だが、その静寂に無邪気な笑い声が響く。

 「あははは。笑わせてくれるわね。アヤの切り札ってその程度なの?」

 イリヤの声に反応して地面に埋まっていたバーサーカーがむっくりと起き上がる。
 その巨躯には何の傷も見受けられず、低いうなり声を上げている。

 「……命を奪うどころかノーダメージですか。ちょっと目眩がしそうな事実ね」

 少女が頭を押さえて首を振る。

 「バーサーカーには何をしても無駄だって理解したようね。
   ふふ。もう思い残すこともないかしら。じゃあこいつをやっちゃいなさい」

 バーサーカーが何度目にかなる咆吼を響かせ、文を強襲せんと駆ける。

 「ま、白兵戦でやれるところまでやってみますか」

 文がバーサーカーを再び迎え撃つ。
 横薙ぎに振るった斧剣を身を屈めて回避し、巨人の懐に飛び込む。
 風による攻撃が届かない今、文はバーサーカーに対してセイバーよりも間合いが狭くなる。
  その為、自ら死地に赴くような距離でしか文は攻める事が出来ない。

 葉団扇を無防備な腹に目掛け、横一文字に斬りつける。
 風を纏う葉団扇は鋭利な切れ味を持つが、巨人に対してダメージを与えるに至らない。
  その攻撃に怯むことすらもなく、文に蹴りを放った。
  斧剣による攻撃でなくとも、ガードは出来ない。バーサーカーの放つ攻撃全てが必殺だ。

 文は地を抉るバックステップで何とかその前蹴りを躱すも追撃は止まらない。
  掬うように振り抜いた斧剣は大地を削り、文に目掛け飛礫を飛ばした。
  散弾を超える威力を持つその飛礫に文は咄嗟に風のシールドを展開して防いだ。

  しかし、文に取ってバーサーカーとの戦闘は回避のみに専念しなければならない。
 本来避けなければならない飛礫を風のシールドによって受けてしまった。
  結果、ほんの一瞬だけ生じてしまう硬直。

 バーサーカーは間合いを埋めて、有無を言わさず斧剣を叩き付ける。
 間一髪のところで文は斧剣を身を捻って躱すも、ここは既にバーサーカーの領域。

  飛礫に隠れた左腕が文を狙う。

 「!!」

 突き上げるようにして放たれた拳は風のシールドを紙同然に突き破り。
 勢いを落とすことなく、文の胸部を穿った。
 背中まで貫く衝撃。
  文の口から鮮血が溢れ、華奢な体が威勢良く打ち上げられた。

  ……滞空時間はゆうに10秒近くあっただろう。
  文はそのダメージにより受け身を取る事もままならず、強かに地面へと叩き付けられた。

 「〜〜〜〜ッッ!」

 都合、二度に渡っての衝撃。
  しかし落下時の衝撃よりも、バーサーカーの拳によるによりダメージが甚大だった。
  その耐え難い痛みに悶絶するかのような呻きを上げる。
  再び血が吐き出すのを見ると、内臓にも損害を負っている。

  ……もう、これは闘いになっていない。
  文の攻撃は完全に通用せず、方やバーサーカーはただの一撃でさえも致命傷になり得る。
 お互いの身体能力の差以上に、『十二の試練』があまりにも常識外れの宝具だ。

 「あははは。
  アヤは飛ぶのが好きみたいだから、バーサーカーがやってくれたようね。精々感謝しなさい。
  でももう駄目。さっきみたいにうろちょろされても面倒だわ。――その羽根、もぎ取ってあげる」

 イリヤの言葉にバーサーカーが文の体を人形のように掴み上げた。
 ダメージから回復しきれていないのだろう、文は無抵抗そのものだった。

 そして、これからバーサーカーはイリヤの命令通りの行動を行うのだろう。


 「……やめろーーーーッッ!!!」

 こんなの黙ってみてられるか! 文から足手纏いと罵られようが構うものか!
  ここで見捨てたら、俺はその時点で爺さんの理想を追う価値のない人間に成り下がってしまう!

 「クスクスクス。止めない。止めないわ。
   お兄ちゃんは大人しくそこで見てなさい」

 座り込んでいたイリヤが起き上がり、俺に向かって優雅に歩み寄る。
  少女の笑みが凄惨なものに歪み、紅玉の瞳が魔力を灯した。

 「ガ……ッ!」

  土蔵での時と同じく体がイリヤの魔力によって縛られてしまう。
  ……しかし術者との距離が離れている為か辛うじて体が動く。
  魔術に逆らって神経が切れようが、知ったことか。
  全神経を足に集中して一歩一歩と刻むも、――文までの距離は絶望的だった。

 丸太のような黒い腕が少女の黒い翼を乱暴に掴んだ。
  如何なる時も飄々としていた文の顔が悪い夢を見るように引きつった。

 「はッ、は。……冗談じゃ、ないわよね?」

 金色の瞳からは相変わらず、なんの表情も読み取れなかった。
  こいつはイリヤスフィールの命令に従うだけの木偶にしか過ぎないのだと、そう彼女は悟ってしまった。

  文の表情に諦念と自嘲が浮かび、そして、巨人の腕に力が込められた――。

 「――――!!」

 ブチブチブチと――。筋肉が断裂するかのような不快な音。
 バーサーカーの豪腕によって、少女の左の翼が何の慈悲も躊躇もなく引き千切られていく。

 「ああ……ッ! ああああああッッ!!」

 目を見開き、苦悶の表情で絶叫を上げる。
  恥も外聞も捨て去り、涙すらも浮かべて泣き叫ぶ。

 心が潰されてしまいそうな悲鳴。
 彼女を助けられるなら、俺は首だってもぎ取られても構わない。
  あの文がこうして泣き叫ぶのは俺にはとてもじゃないが、耐えられそうもない。

 喉が枯れ果てたのか、悲鳴は既に声にすらなってない。
  だけど、ゆっくりと確実に、少女の背中から黒い翼がもぎ取られていく。

  俺は見ているだけで何も出来なかった。
  目を逸らすことも耳を塞ぐことも許されず、ただ見ているだけ。

 …………。

 そして、根本から文の左翼が引き千切られた。
  バーサーカーはまるでゴミを扱うかのようにその翼を投げ捨てる。
 文の背中から夥しい量の血があふれ出し、純白のブラウスを赤く染め上げた。


 ――――――――――


 文はバーサーカーの手の中で生気が尽き果て、まともに身動きが取れずにいる。
  ただ、意識を失っていないのが幸か不幸か。

  ……イリヤの金縛りの魔術が先程よりも弱まっている。
  これはもしかしたら距離の問題だけではなくて時折見せるイリヤの不調が起因しているかもしれない。
 だけど、まだ走れるほどには回復してない。

  足下に落ちていた枯木を拾い、強化魔術を行使する。

 『――同調開始《トレース・オン》』 

  イリヤに魔術回路を開けて貰ったので、本来必要だった工程を幾つかすっ飛ばすことが出来る。
 何とか枯木に魔力を通わせて、一組の弓と矢を急造した。

 イリヤには悟られないように文に目配せをする。
  天性の勘の良さか、文が虚ろながらも俺のアクションにややあって反応を示す。
 そして弓矢を見た文が俺の意図に気付き、小さく首肯をした。僅かならがに驚きの表情だ。

 バーサーカーの腕が残った一翼に手が掛かった瞬間、狙いを定め、弦を引き絞り矢を放つ。
 吸い込まれるように巨人の眼球に命中した矢尻、それは当たり前のように弾れた。

 バーサーカーが反射的にこちらを向く。

 「お兄ちゃんは放っておきなさい。そいつを殺した後に好きなだけ遊べるんだから」

 こんな弓矢は通用しないのはわかっていた。だけど、ほんの一瞬でも奴の注意を逸らせればいい。
 ……それが、最後のチャンスになる。

  そして文は僅かに弛緩した腕をこじ開けて、弾けるように飛び出た。

  これまで以上の距離を開けてバーサーカーを牽制をする。
 口角から垂れる血と頬に残る涙の跡をブラウスの袖で拭き取り、呼吸を丁寧に落ち着かせた。

  そんな隙を文が見せても、バーサーカーは襲いかからない。
 イリヤを守らなければならないバーサーカーはここから離れることは難しいのだ。
  ここまで追い込まれれば、文もイリヤを狙う可能性もある。
 文の速さは絶対的にバーサーカーを勝る。
  これ以上、離れることはイリヤの襲われる危険性が増す。


 「死ぬほど痛かったので、良い気付けになったわ」

 団扇で自らを扇いで強がりを言うが、今の彼女には何の余裕はないだろう。
  背中からはおびただしい量の血が流れており、貧血の所為か足取りも覚束ない。

 「馬鹿みたい。そんなふらふらで何が出来るっていうの?」

 呆れた様子でイリヤは文を睨んだが、天狗の少女は逆に媚びるような視線を送った。

 「イリヤさん、私の提案に乗りませんか?」

 「は? いきなり何を言い出すのかと思ったら、馬鹿みたい。
   わたしが貴方なんかに譲歩するようなことがあるとでも思っているのかしら?」

 益々、イリヤの視線が厳しくなっていくが、文を態度を崩そうとはしない。

 「実のところ私、翼がなくても飛べます。
   もちろん速度は格段に落ちますけど、その気になれば士郎さんを連れて逃げるのも可能です。
  ……そんなことになればお互いに面倒でしょう?」

 文に嘘をは言っている様子はなかった。
 それにイリヤが断れば二の句を継ぐ暇もなく実行する。そんな雰囲気さえも漂わせていた。

 「……話だけは聞いてあげるわ」

 「へへへ。ありがとうございます。
   これから私、先程と同様に一枚のスペルカードを展開します。
   そのスペルを最後まで耐えきったら貴方方の勝ちです。
  ただ、それだけです。何一つ難しいことはありません。」

 胡散臭いへつらいの笑みを見せ、条件を提示した。

 「一度もバーサーカーを殺せてない癖にえらそうに。
   ……ふん、いいわ。ここまで来て逃げられるのもまっぴらだしね」

 相手のペースに乗せられるのか気にくわない様子だが、イリヤは、不承不承ながらも、文の提案を呑む。
  彼女はバーサーカーに対して絶対の自信がある。そのプライドを賭けても引くわけにはいかない。

 「ま、どのみちこんな状態でスペルカードを展開すれば、確実にぶっ倒れます。
  後は煮るなり焼くなり好きにしてください」

 そう、その言葉通り、彼女は今にも倒れそうなほどにふらふらだ。
 当然、イリヤもそれを考慮した上で、提案を受けたのであろう。

 文の足下は、これまでの出血により小さな血溜まりが出来ていた。
  歩こうとするも、心強かった彼女が頼りないと感じてしまうほど不安定なものだ。

 「あわわ!」

  血溜まりに足を滑らせたのか、尻餅をつく。
  ぴしゃん、と血が周囲に跳ねて、自らを更に赤く染めた。

  ……あの彼女が転ぶなんて、信じがたい光景だった。
  何も道化を演じているわけじゃないだろう。

  その証拠に、よろよろと起き上がる文自身も、転んだという事実に驚きを隠せないでいた。

 「……邪魔。走りにくいわ」

 暫しの逡巡を見せた後、文は一本歯の靴を、ソックスごと脱ぎ捨てた。
  そして血に染まった大地に裸足になって下りる。

 だけど、転んだ原因があの靴によるものだけとは考えにくい。
  失血による体力消耗に加えて、片翼を失った所為でうまくバランスが取れないのだ。

 それでも少女は唯一残された右翼を、限界の限りに広げた。

  ……もぎ取られた片翼も反応したのだろうか、顔をしかめて苦痛に耐えようとする。
 そんな様子をイリヤはニヤニヤと笑みを浮かべている。

 「……ところでイリヤさん。
   神秘に打ち勝つにはそれ以上の神秘が必要何でしたっけ?」

 「そうよ。神秘はより強い神秘に打ち消されるのが理。
   つまりバーサーカーの『十二の試練』を破るにはエクスカリバーのような概念武装が必要だわ。
  あんたがそんな概念武装を持っているとはとても思えないけどね」

 アサシンの太刀がバーサーカーに通らなかったのはその為だ。
  幾らアサシンの剣技が優れようとも、彼の持つ太刀ではどうやっても『十二の試練』は貫けない。
  現に文の使う葉団扇も同様に弾かれてしまっている。
  それ以前に今は『十二の試練』を超えるどころか、バーサーカーになんのダメージも与えていない。

  ……何故、彼女は今になってそんな事を訊いたのだろか?

 「ありますよ。いえ、居ると言った方がいいのでしょうか」

 「……何を言っているの? 気でも触れちゃったのかしら?」

 確かに文の言葉はいまいち要領を得ない。
  それどころか意図的に何かを暈かしているかのような口ぶり。

 「神秘とはつまるところ幻想でしょう?
   ――貴方の目の前に千年を超す幻想が居ませんか?」

 「……え?」

 幻想種は在り方そのものが神秘であり、それだけで魔術を凌駕するとされている。
  魔術が知識として力を蓄えるのならば、幻想種は長く生きることによって力を蓄える。  
  彼女自身が千年クラスの幻想種であるのなら『十二の試練』を打ち破ることもあり得なくはない。

 だとすると。

 ニィ、と天狗の少女が小馬鹿にしたような笑みを作る。
  赤い目がより深く濃度を増し、虹彩が細く狭まった。……柳洞寺で見せたあの目だった。

  今、射命丸文は虚飾を脱ぎ捨て、妖怪本来の表情を浮かべていた。

 「あなたたち。
   死にたくなかったらそこから動かない方がいいわよ。
  これから使うスペルはもともと制御が効くようなものじゃないからね。
  ……それをこんな有様で使えばどうなることやら」

 1枚のカードを取り出した。

 先程に発動した『天狗道の開風』とは全く違う図柄。
  意味するのは別のスペルカードを展開させるということ。

 「理解と音速を超えた幻想郷最速。捉えられるものなら刮目しなさい」

 『――――幻想風靡』

 その直後、文の姿が爆音と共に掻き消えた。
  凍土に足跡とは思えない大穴を三つ残して。

  たった三歩。たった三歩で天狗の少女は音速を超えた。
  初動加速で音の壁を突き破り、超音速に達する。
 同時にソニックブームという音速を超えた時に生じる衝撃波が発生。

 鼓膜が破れそうになる衝撃に俺とイリヤは反射的に耳を塞ぐ。
  それでもキィィン、という耳鳴りが止まない。 

 尚も文は速度を上げる。

  ただ、速く――。
  その一点以外は何もかも置き去りにした風神の少女――。
  神速の世界は誰の目にも捉えられない。赤い流線だけが微かに痕跡を残す。

 周囲に自生する常緑樹が大穴を開けて砕け散った。
  神域の疾風と衝突し、次々と抉り取られるように潰されてく。

  ただの一歩でも動けば、俺もあの木々ように潰されてしまう確信。
  言いようもない恐怖が全身に走る。
  それはイリヤも同じだった。両手で耳を覆い、矮躯を縮める。

 ――バーサーカーの頭が熟れた石榴のように爆ぜた。

  頭部を皮切りに巨人の体躯に穴を次々と空ける。
  腹部、前腕、上肢、足趾、背部、脚部、太腿、胸部、腰部、下腿。

  イリヤは声も上げずに、震えてその光景を見つめていた。
  バーサーカーは己が死んだことも気付けない。耐性を付ける以前の問題だった。

 そして、人体を構成する全てのパーツが跡形も残さずに消し飛ぶ。
  そこにあるのはヘラクレスと呼ばれた大英雄でなく、ただの潰れた肉塊だけ。

 ――こうなってしまえば決着もない。もう何もかもが終わっていた。








 後書き

 これにてバーサーカー戦は終了。
  今回はいろんな面でやり過ぎた感が否めません。
  だけども、二十歳を過ぎても忘れちゃいけないのが中二ソウル。


 2008.9.16


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