「文々。異聞録」 第40話



 原形を残さず散らかったバーサーカーの肉片。
  かつてのバーサーカーとたらしめる要素は何一つもない。
  それがギリシャの大英雄ヘラクレスだったものの、成れの果て。

  こうしてバーサーカーの命は尽き果てた。

  酸鼻な光景にイリヤは震えるだけだった。
  バーサーカーを絶対だと信じていた自負は消え失せ、眼下の惨劇に対してただ恐れ震えるだけ。
  敵対している以上、自分もああなってしまうかもしれない。
  そんな恐怖からはどう足掻いても逃げようもなく、ただ惨劇の終わりを願うだけだった。


  尚も音を超えて空を疾駆する赤の軌跡。射命丸文。
 バーサーカーを文字通り散らかした今も、その速度を落とすことなく狂奔を続ける。
 付近を通り抜ける度にワンテンポ遅れて発生する轟音と、バラバラになりそうなほどの衝撃。
  胃酸が逆流するほどの恐怖と緊張が体を蝕み、体が思うように動かない。

 そして何を思ったのか、文はこれまでを遙かに超す高度まで駆け昇った――。
  月を背にして一呼吸ほどの滞空をすると、そのまま地上目掛け真っ逆さまに急降下を開始した。
 これから起こり得る事態に予想が付くも、その速度を前には身を伏せる暇もない。

  ――地表を突き破る爆音。大地が局地的に揺れ動く。

 衝撃波がサークル状に走り抜け、体が数メートル先まで吹き飛ばされる。
 激しい頭痛と、全身に貫くような激痛。――が、何も起き上がれないほどじゃない。

  「――――!!」

 イリヤの無事を確認しようと声を上げるも、それは奇妙なノイズとなり言語にならなかった。
  あまりの轟音によって聴力に異常を来していた。
  頭痛の伴う不愉快な耳鳴りがするだけで、他には何も聞こえない。
 だけど、こんなのは一時的なものだ。それよりも今はイリヤの安否を確認しなければならない。

  目を凝らして、立ち込める砂埃の向こうを覗くとイリヤの小さな姿を見つけた。
  頭を抱えて蹲っているが、意識を失っているような様子はない。
  エントランス付近の高所にいたのが功を奏したのだろう、俺に比べれば被害は小さいようだ。
 良かった。今は敵という立場だが、彼女に死んで欲しいなんて思ったことは一度もない。
 胸を撫で下ろしたくなるも、今はまだ安堵するような時じゃない。

 眼前には地表を深く抉り、巨大な窪地が出来ている。
  これじゃままるで隕石が落下したクレーターだ。現実味のない非常識な破壊力。
  ……これが聖杯戦争の終わりに来て、初めて見せる射命丸文の本気。

 文はバーサーカーの何もかもを蹴散らした。それも肉片すらも残さずに。
  無慈悲に完膚無きまでにバーサーカーの存在をこの世から消した。

  少女はかつて自らの力を見せびらかすのは好きではないと言っていた。
  なのにこんなもわかりやすい形で誇示している。それの意味するところは何であろうか。

 砂塵にまみれたクレーターの中心部。そこにぼんやりと立ち尽くす天狗の少女。

  バーサーカーにもがれた片翼も含め、目を逸らしたくなるような傷の数々。
  まさに満身創痍と言った様相だった。
 スペルカードを発動する前はあそこまで酷くなかった。察するに傷の大半は発動後に出来たものだ。
 おそらく無茶な状態での行使によって、自分自身もかなりのダメージを負ったのだろう。
  ただの人間なら明らかに死んでいる出血量。
 純白のブラウスは血で濡れていない箇所を探すのが難しいほど真っ赤に染まっていた。

 そんな傷だらけの少女はきょろきょろと何かを探すように辺りを見渡していた。
  そしてクレーターの淵にいた俺の姿を見つけるとニコリと笑みを作る。
  全身の傷に反し、その顔は不思議と綺麗なままだったのが、少しおかしい。
  普段見せる相手を小馬鹿にしたような含みものない少女らしい清廉な微笑。
  ただ見ているだけでこれまでの恐怖と緊張が徐々に解けていくようだった。

  ……だけど、どうしてなのだろう。

  その笑みに魅入られると同時に、思い出してしまう。
 『妖怪は人を誑かし攫い食べてしまう』。そんなキャスターの隻語――。

 その真っさらで可憐な笑みは何かしらの魔力があるのは確かだ。
  キャスターは文の事を『人間の目を惹き付けるような姿形』と評価していた。
 確かにその顔の造形はゾッとするまでに整っている。不自然なまでに欠点がないと言えよう。

 だが、それこそが人間を喰らう為の甘美な罠にではないだろうか。
  ……何を馬鹿な。
  こんな時に俺は一体何を考えている。それがからくも勝利を上げたパートナーに対して思うことなのか。
  だけど、脳裏に浮かぶ不安はどうしても打ち消せない。

  それに文ははっきりと言ってたじゃないか。――妖怪は人を喰うものなのだと。
  ……だったら、こいつは俺を喰うために惑わそうとしているんじゃないか?

 いつまでも突っ立ったままでいる俺に文は首を傾げ何か言いたげな視線を送る。
  その視線にビクリと体が構えるように反応してしまうも、唾を飲み込み、文の出方を待つ。

 「――士郎さん。
   次に目を覚ましたら、温かい布団の中というのを熱望します」

 それは不快な耳鳴りを塗り潰す、明朗で綺麗な声だった。

  そして少女は人形の糸が切れたかのように前のめりにぶっ倒れた。


 ――――――――――


 その不自然な倒れ方からして、少女の意識は飛んでいた。
 うつ伏せに倒れたまま、ぴくりとも動く様子がない。呼吸をしているのかも怪しい。

  バーサーカーとの闘いで、己を限界を超える力を出したのだ。
  それでなんとかあの化け物から勝利を得る事が出来た。考えれば当然の代償だった。

 ――なのに俺は一体何をしている?

 今はくだらない疑心暗鬼なんかにとらわれている場合じゃない。
 だというのに俺は何を考えていた?彼女に喰われるだと?そんなのは憶測だけで無根拠だ。

  仮に文が人喰いの妖怪だとしても、俺の窮地を何度も救ってくれたじゃないか。
  翼をもがれても、涙を拭いて、あのバーサーカーに立ち向かってくれたじゃないか。
 そこまでしてくれた少女に懐疑の眼差しを向けるなんて、何様のつもりなんだ、衛宮士郎。
  お前のような、ろくでなしが他人を疑える立場の人間だと思っていたのか?


  クレーターの斜面を転げ落ちるように駆け、力なく倒れ文の体に触れる。
  やはり意識を失っており、揺するのも躊躇するほどぐったりとしていて動かない。
  失血の為か体温の低下が著しく、死人のように冷たい。脈拍と呼吸も不安定のように思える。

  ……こんなのは素人診断だし、そもそも人間の常識が妖怪である彼女に通用するのかも怪しい。
 何にせよ危険な状態にあるのは確かだ。
  急いで傷の手当てをしないと命に関わる問題になるかもしれない。

 無理に動かすのは危険かもしれないが、妖怪の生命力を信じて彼女を背負い斜面をよじ登る。
 ……気絶した人体は重いなんて言うが、そんなのは嘘だ。
  だって、こいつはほとんど何も感じないぐらいに軽いじゃないか。
  だというのに俺はこんな少女に何もかも背負わせて、滅茶苦茶になるまで戦わせて、……クソ!

 クレーターの淵に辿り着くと、これまで憔悴した様子だったイリヤが反応を示した。

 「ふーん。アヤは生きてるんだ」

  子供特有の高い声ははっきりと聞き取れた。
  頭痛はするが、この感じだと聴覚は大丈夫だろう。

  未だ座り込んだままのイリヤは、どうしてか俺から少しずれた箇所を所在なげに見ていた。
  視線も心なしか定まっていないように思える。
  ……砂煙で俺の位置を正確に把握しきれていないのだろうか?
 だけど、今はそんなことに気を取られている場合じゃない。一刻を争う状況だ。

 「そうだ。こんな所で絶対に死なせるものか」

 寝息ではない弱々しい呼吸が耳元に触れて、焦燥感に駆られる。

 「そう。助けてあげたいのは山々だけど、わたしのお城、こんなんなっちゃったからね。
   ちょっとここじゃ無理かな。悪いけど森を抜けてから手当をするしかないみたいね」

 今やイリヤの居城はセイバーの宝具によって、殆どが瓦礫の山だ。
  もしかしたらという淡い期待もあったが、それも水泡に帰した。

 だったら、イリヤの言うとおり今からこの森を抜けるしかない。
  だが、ここに来るだけでも相当な時間が掛かったのだ。
  只でさえ広大な森であり、悪路、視界不良も加わって四時間近くは掛かったと思う。
  同様に森を抜けるのだって同じぐらいの時間が必要だろう。なら尚更急がないといけない。

  しかし、一つだけ気がかりがあった。文には悪いがこれだけは訊きたい。

 「……イリヤはこれからどうするんだ?」

 「わたしは暫くここにいるわ。
   敗者だもの、これ以上聖杯戦争には直接関与はしないつもりよ」

 少女は敗北を真摯に受け入れていた。
  ひょっとしたらバーサーカーの負けという事実に取り乱すのではないのかと思っていたが、
  俺が思っていた以上に彼女は大人なのかもしれない。
  いや、事実そうなのだろう。少女はかつて見たことがないまでに毅然としているのだ。

 「……大丈夫なのか?」

 令呪を失っていない限りは聖杯戦争に脱落したことにはならない。
  かといってサーヴァントがいなければ勝ち残るのはほぼ不可能と言える。

 残るのは俺たちと遠坂とセイバーの二組だけ。
  彼女たちがサーヴァントを失ったイリヤを狙うとは考えにくい。
  なら命を狙われる心配はないだろう。
  でも、こんなところにまだ子供とも言える少女を一人にするなんて真似はしたくない。

 「お兄ちゃんはわたしなんかの心配より、自分とアヤの心配をしなさい。
  こうしてシロウと話せるのは最後になるかもしれないけど、いろいろと楽しかったわ」

 「…………」

 俺の心を読むかのような言葉。

 「わたしのバーサーカーをぐうの音も出ないほどに倒したんだからね。
  セイバーなんか、こてんぱんにやっつけちゃいなさい。……そうじゃないと許さないんだから」

 イリヤの凜とした表情がほんの少しだけ崩れかけた。
  ……ああ、俺はここにいちゃいけない。この場所はイリヤとバーサーカーだけの聖域だ。

 「ああ、もう行くよ」

 もうそれだけしか言えなかった。
 背中に命の重みを感じながら、二度と後ろを振り向かずに走り出した。

 「――ばいばい。シロウ」


 ――――――――――


 衛宮士郎が去ってから三時間程が経過した。

  士郎は無事にアインツベルンの森を抜けられたようだ。
 それだけはこの致命的に綻び始めた身体でも何とか知覚する事が出来た。

 そして運が良かったのか、それとも必然だったのか。
  ――どうやら、この森に進入した奴とは接触せずに済んだらしい。

  イリヤスフィールはホッと安堵の溜息を吐く。
  この三時間、その事だけが少女の心中にあることだった。
  張り詰めていた緊張が解けた所為か、これまで以上の抗いがたい眠気に襲われた。

 (だけどまだ駄目。まだ寝ちゃ駄目だ)

 イリヤスフィールは人間ではない。
  ホムンクルスという魔術によって造られた人工生命だった。

  正確にはホムンクルスを母体とした人間とのハーフなのだが、在り方は人とはまるで違う。
 母の胎内にいた時から様々な施術が加えられており、その時点で彼女は真っ当に生きる道を閉ざされていた。
 だが、そんな事は彼女を造ったアインツベルンにとって関係のない話だ。
  何故なら、此度の聖杯の器であるイリヤスフィールには真っ当な人生なんてものは不必要だからだ。

  それ故、器である彼女は倒されたサーヴァントの魂を取り込む度に人間としての機能を失っていった。
 そして先程、五体目になる自身のサーヴァントを取り込んだ結果、彼女の視界は完全に閉ざされた。
  赤い瞳はもう何も映していない。ただ深い闇を映すだけ。
 その瞳に最後に焼き付いた光景は絶対であったバーサーカーが滅茶苦茶に潰されるといったもの。

  (それが人生最後の光景かー。ま、考えなくても最悪よね)

 だけども、イリヤスフィールは嘆かなかった。
  それどころか少女は自分の人生を不幸だと思っていない。
  アインツベルンの悲願を達成する為の道具、それがイリヤスフィールであると自分を割り切っていた。
  陳腐な言い方をすればこれが彼女の運命であり、そうあるべきと定められていたとでも言おうか。

 だが、そんなイリヤスフィールも唯一と言ってもいい気がかりがあった。

  それは10年前の聖杯戦争の生き残りで、
  実父である衛宮切嗣が自分を忘れてこの町でのうのうと暮らしていたこと。
  その事だけがイリヤスフィールにとって何よりも許せなかった。
  会ったら殺してやろうと思った。酷たらしく殺してやろうと思った。

  しかし、殺そうと思った相手は何年も前に自分とは関係のないところで死んでいた。
 その事実に言葉では表現出来ないような行き場のない感情が渦巻くのを感じた。

  だけど、切嗣は10年前の戦禍で一人の孤児を拾っていたらしい。
 だとすればソイツは自分の兄弟に当たる存在だ。
  どんな奴なのか、一目見てやろうとワクワクしていたのを思い出す。
  そしてソイツに衛宮切嗣にはぶつけられなかったありったけの感情をぶつけてやろうと思った。

  だが、実際会ってみたら驚くほど無防備なソイツに随分と拍子抜けしたものだ。
  聖杯戦争の事もろくに知らないまま、暢気に平和な生活をしているじゃないか。
  左手には聖痕の兆候が出ているというのに。
  切嗣は死ぬまでの数年間に何をしていたのだとあきれ果てたものだが、
  その時に何故だかソイツ、――衛宮士郎の事をもっと知ってみたくなった。

 そして二度目の邂逅。
  何故だか、衛宮士郎は黒い羽根が生えたへんてこなサーヴァントの尻に敷かれていた。
  本来あるべきサーヴァントの主従関係もあったものじゃない。そんなとびっきりのお人好しだった。
  それからも衛宮士郎とは何度か会って――。
  お話もたくさんした。家に招かれた。酒盛りもした。魔術回路も開けてやった。

 (あの方法は今思い出しても恥ずかしいけどね)

 そして最後に殺してやろうと――思ったわけだが、実際はこの有様だ。
  人は見かけによらないというが、どうやらそれはサーヴァントにも当てはまるらしい。
  あんな弱そうなサーヴァントにバーサーカーが負けるなんて万が一にも思わなかった。
 悔しいし泣きそうもなったが、ここまで容赦無く敗北の烙印を押されると逆に清々しくもある。

 (……今思えばシロウを殺さなくて良かったかな。アヤは別だけどね)


 ――草木をぞんざいに踏み付ける音。

 その息のつまる禍々しい存在感は消せないのか、その存在には視力を失おうとも気づけた。
  もっとも、この男も気配を消すつもりはないようだったが。

 「ふーん。アンタだったんだ。
   わたしは聖杯である前にレディなんだから丁重に扱ってよね」

 ホストが座ったままというのは些か礼儀に欠けるが、
  招かざる客だし、こんな奴だ、気にしてやる事もないだろう。

 ……本当は士郎に付いて行きたかったが、この男の目的は自分であると理解していた。
 それに最後ぐらいはこうやって姉らしく弟の身を案じてやるのも悪くない気分だった。

 黙してイリヤを見ていた男の口角が醜く歪んだのがわかった。
  たった一つの思いを馬鹿にされているようで少女は酷く不愉快だった。







 後書き

  セラとリズはどうしたんだって? ……(´;ω;`)ブワッ。

 2008.9.25


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