「文々。異聞録」 第42話





 黎明の訪れを示すような朝影がカーテンの隙間から微かに漏れ出していた。
  その朝の光が薄暗く物静かな室内を微かに照らす。
  窓を閉め切っていた為、空気が滞留していたが不思議と嫌な気持ちはしなかった。

  胡乱とした頭で時計を確認すると時刻は9時を回っていた。

  まだ6時かそれぐらいだと思っていたが、また随分と寝坊してしまったようだ。
 座ったままの姿勢で寝ていたからか、体を動かす度に関節がパキパキと心地よい音を立てる。
  聖杯戦争が始まってからと言うもの、すっかり生活習慣が乱れてしまった。

  かつて握っていた手はいつの間にか解けていた。

 少女は眠っている。
  寝息すら聞こえない静けさにまさかと思うも微かに胸が上下するのを見ると、それも杞憂だったようだ。
  ……文の寝ている姿を見たのはこれが初めてだったが、
  そもそも彼女は隙らしい隙を一度も晒したことがない。こんな無防備でいること事態があり得ないのだ。
 だとするとそれは彼女なりに俺を信頼してくれたと考えてもいいのだろうか。
 自意識過剰と言ってしまえばそれまでだが、仮にそうだとしたらこれほど嬉しいことはない。

 (そうだな。今のうちに包帯とガーゼを清潔なものに交換しよう)

 目が覚めてしまわないように布団を退けて、昨夜に着せたパジャマを脱がす為にボタンに手を掛ける。

 「……何をやっているんですか」

 上から二つ目のボタンを外し終えた頃、少女と目があった。
  何故だか、これ以上ない蔑みの視線を向けてくる。

 「いや、何ってパジャマを脱がそうとしているだけだけど。――おはよう、文」

 ……何か重大なミスをしてしまった気がするが、それよりも朝の挨拶をする。
  そう、挨拶は大切だ。人間関係を円滑にする重要なファクターだ。笑っていれば尚のこと良い。

 「ええ、おはようございます。……それで何でパジャマを脱がすんですか」

 口許は引きつるように笑っているが、視線は蔑視以外にも羞恥が混じり始めた。
  それにどういうわけか、ぷるぷると震えているじゃないか。……どうしたって言うんだろう。

  …………あ。

 膨らみの上にあるボタンに手を掛けた時、ようやく自分の間違いに気付いた。
  いや、これから行おうとしているのは治療行為に間違いはないんだが、現在のこの行動はすこぶるまずい。

  文の顔がみるみると紅潮する。羞恥なのか怒りなのか、はたまたその両方なのか。
  どちらにしろよろしくない感情なのは間違いない。

 「それは、いや! ……ちょっとまて文! 何かしてはいけない勘違いをしているぞ!?」

 「……ええ。私も馬鹿じゃないので現状を理解しているつもりです。
  士郎さんにそんな甲斐性があるとはとてもじゃないですが、思えませんしね。
  ……でもね、恥ずかしいものは恥ずかしいのよ。
  そんな覆い被さるような形で寝間着のボタンを外されたら誰だってそう思うわよね」

 「そ、そうだよな。悪かった! だからその小刻みに震える拳をどうにか抑えてくれ!」

 文の右手は今、渾身の力を込めた拳が握られており、
  俺という矛先に放たれるのを今か今かと待ち焦がれていた。

  さっきまでの朝の清々しさはどこにいってしまったんだ。てか、今の俺は相当格好悪い。

 「……本当にすまん!」

 真摯にただひたすら謝る。

 ……俺は殴られるのか。こんな陳腐なラブコメみたいな展開で殴られてしまうのか。
 文の力で殴られてしまったら、頭だったら爆ぜてしまい、胴体だったら貫通してしまう。
  どちらにしてもデッドエンドだ。本気じゃないとしても悶絶するようなダメージは必至だ。

 だが、落ち度は俺にあるのだ。ここで殴られようと文句は言えない。
  そして、心の中で十字を切る。生きていられますように、と。……別にキリスト教徒でもないけどな。

 「ふう……。わかりましたから、まずはその手を放してくださいな」

 落ち着きを取り戻した様子で俺に諭すように語りかける。
  よく見ると、俺の右手は未だに文のパジャマのボタンを掴んでいた。

 「あ、ああ! ……殴らないのか」

 慌てて手を放し、文の顔色を恐る恐る窺う。

 「これで殴るなんて、どんだけ馬鹿な女なんですか。その程度の分別は私にもありますよ」

 文はゆっくりと上体を起こし、気恥ずかしさを隠すように胸元の着崩れを直した。

 「まったく、今まで築き上げてきたクールなイメージが台無しです。
   こんなこそばゆいというか、気持ちの悪い展開は私のイメージに合いません」

 そう素っ気なく嘯くが、どこか照れくさそうだった。
 クールかどうかは同意しかねるが、飄々とした彼女のイメージからは確かに逸脱していると思う。

 「士郎さんは傷の手当てをしようとしてくれたのですね。でしたら怒りませんよ」

 「ああ、そのつもりだったんだけどな。俺も寝起きで頭が働いてなかった。本当にすまん」

 頭を下げると同時に両手をぱんと合掌して再び謝罪する。
  様子から判断するにどうやら許してくれたらしい。

 「……それと水分を摂った方がいいと思うんだ。何か飲むか? 酒は流石に駄目だけどな」

 「ふふ。士郎さんなりの冗談ですかね。でしたら、ぬるめのお茶をお願いします」

 「わかった。今すぐ持ってくる」

  立ち上がり、部屋から出る。襖を閉める際に、文が痛みに耐えるように顔を引きつらせていた。
 俺の前では平気な顔をしていたが、本当は尋常ではないほどの痛いのだ。
  今まで平静を装って隠していたのだろうか。気付かないふりをして、台所へと向う。

 …………。

  文は用意したお茶を喉が鳴るような勢いで飲み干す。

  あれだけの失血をしたのに、まったく水分を摂っていないのだ。おそらく喉はからからだろう。
  水分は何にせよ多めに摂った方が良い。再びポットのお湯を急須に注ぎ、少女の湯飲みに淹れた。

  軽食にと用意したおにぎりも美味しそうに食べてくれた。食欲に関しては問題なさそうだ。

 そうなると、やはり気になるのは文のもがれた翼だ。
  背中を見ると僅かだが、パジャマ越しに血が滲んでいる。
  あの出血量だ。包帯とガーゼだけでは抑えきれないのだろう。

 「その、背中の傷は大丈夫なのか?」

 『翼』と直接に言うのは、気まずさからか憚れてしまう。

 「……ん。この翼のことですか」

 梅のおにぎりに酸っぱそうに顔を歪ませながら反応する。

 翼を除いた体の傷は余すことなく完治しており、その再生力は並大抵じゃない。
 見た目だけなら人間と同じだが、根本的に体の構造が別物なのであろう。
  だったら、バーサーカーにもがれた彼女の翼だって、治ってもおかしくない。

  「まぁ駄目でしょうね」

 「……え?」

 文の口から呆気なく告げられる、信じられない言葉。

 「本来なら肉体の欠損なんてものの数じゃありません。
  この左の翼をただ引き千切られただけなら数日のうちに生えてきたでしょう」

 「だったら、どうして……」

 「英雄様からの直々ですからね。私たち妖怪は人間とは違って、精神の生物です。
   肉体に負う傷は取るに足りませんが、精神に受けるダメージはその限りではありません。
   ヘラクレスのような英霊による攻撃は妖怪の精神をも侵します。それは私にしてみたら猛毒です」

 猛毒……。
  バーサーカーとの闘いで文が『英雄の剣は妖怪にとって猛毒になる』と言っていたのを思い出す。

 「英雄は魔を討つ存在ですから、私のような妖怪はどうしても相性が悪いんですよ。
  彼らのような存在から直接傷を負わされてしまうと、どうしようもないです。
  勿論、ある程度の傷なら治りますが、この翼に関しては腐り落ちてしまったようなものですね」

 長舌に疲れたのか、口の渇きを癒すようにお茶を啜る。

 ……だったら、文の翼はもうどうにもならないのか。
  それがバーサーカーを討てた代償だとしても、そんなのあまりにも大きすぎるじゃないか。

  俺なんかただ居るだけ。戦うのも、傷を負うのもいつも文の役目だ。……度し難く情けない。

 「……そんな顔しないでくださいな。
   新聞のネタは脚で稼ぐのは私の持論ですが、何も飛べなくなってしまったわけではありません。
   速度も精密性も戦闘には使えないぐらいに落ちますが、なんとかなるでしょう。
   それよりも記事は腕がなければ書けません。なので私はこの右手が残っている限り大丈夫です」

 ……大丈夫なはずがない。肉体が欠損して、大丈夫で居られるはずがあるか。

 漆黒の翼は烏天狗にとってアイデンティティみたいなものだろう。
 初めて会った夜、公園で自分が烏天狗だと名乗った時も、誇らしげに黒い翼を見せてくれたじゃないか。

  だが、それでも彼女が大丈夫と言うのなら、俺はその言葉に従うしかなかった。


 ――――――――――


 「では、今後の方針を決めましょうか」

 簡単な朝食が終わり、一息ついたところで文が気を取り直すようにそう告げた。

 「ああ、わかった。そうしよう」

 それには当然俺も異論はない。遠坂たちと殺し合う気なんて毛頭ないが、
  それでも遠坂がやる気である以上、俺たちは何らかの形で迎え撃つしかない。

 「セイバーがバーサーカーに負わされた傷は一日や二日で治るものではないでしょう。
   それに宝具の乱用によって、凛さんも魔力も枯れ果てているはず。
  狙うなら早ければ早いほどいいんですが、流石に私も今日は派手に動けそうもありません。
  なので今日一日は治療に専念をして、明日攻め入るのはどうでしょうか」

 文は召喚された当初とは違って、ここ最近はずっと聖杯戦争に積極的な姿勢だった。
  ……何が彼女をそうさせるんだろうか。

 「でも、遠坂の家は魔術師だぞ。無闇に攻めるのは危険じゃないか?」

 尤もそれはイリヤの時もそうだったが、
  彼女は小細工には頼らずバーサーカーを信じ、サーヴァントの力のみで勝ち残ろうとするタイプだ。
 それだけの実力がイリヤの使役するバーサーカーにはあった。

  遠坂は人の道から外れた行為はしないが、勝つためになら可能な限りの最善を尽くすだろう。
  彼女はまったく自分の家を隠していない。それがどうしても罠としか思えないのだ。

  ちなみに深山の小高い丘の頂上に存在する遠坂邸は曰くつきの幽霊屋敷として噂されている。

 「そんなのは私の風で木っ端微塵にしてみせますよ。
  たかが人間の張った結界なんて我ら天狗の起こす風の前には児戯に等しい。
  ……それともライダー戦に倣って超高度から、家ごと消し飛ばして見せましょうか」

 普通なら思いもよらない彼女ならではの発想だった。ライダーの時と違い家なら移動することもない。
  それは奇襲としてはこの上ないぐらいに十全だろう。だが、それだと――。

 『そんなことをしたら遠坂が死んでしまうんじゃないか』そう言い掛けたが、止めた。

  セイバーはともかく、文が本気で風を起こせば遠坂はおそらく、死ぬ。
 今の文なら遠坂を殺すことに何の躊躇も持たないかもしれない。

  俺がここでやめろと言うのは簡単だ。
  それでも万全ではない状態で聖杯戦争を勝ち抜こうとする文に対してそれを軽々口にしていいのか。
 だとしても、それを何もしないで見逃すなんてことは俺は決してできない。

 「……ま、今のは冗談ですよ。そんな卑怯な手を使っても面白くないですからね。
   真正面からぶつかって完膚無きまでに敗北を認めさせて、びーびーと泣かせましょう」

 俺が何も言わないでいるのを察してか、彼女はそう豪語する。

 ……文は俺の心中なんて手に取るようにわかるんだな。何でもお見通しというわけか。
  だけど俺も少しずつだが、彼女の考えがある程度は読めてきたと思う。

 「ああ、住宅地だと俺たちにもアドバンテージがあるからな。
   セイバーのエクスカリバーは攻撃範囲が広域だから住宅が密集している場所では使えないだろうし」

 遠坂が冬木のセカンドオーナーであるのを逆手に取れるのだ。

 「……それだと相手が全力を出せないじゃないですか。
   そんなので勝っても言い訳の材料にされてしまいます。この作戦は駄目ですね。止めましょう」

 文のその一言で遠坂の家への奇襲は無しになった。なんでさ。
 やっぱり、この天狗の少女は何を考えているのか、さっぱり理解できなかった。

 …………。

  どういうわけか、文は卑怯な手を一切使うことなくセイバーを倒したいらしい。
  マスターを狙わず、セイバーと真正面から決闘めいた闘いをしたいそうだ。
  それの意味するところは不明だったが、理由を訊いても前に話したと言われてしまった。
  正直なところ、俺はまったく記憶にない。

 「照れくさいのでもう言いません」

 最終的にはこの始末だった。
  文に俺の命を預けることになるだろうから、知っておきたかったけどな。
  だが、マスターである遠坂を狙わないらしいので、俺としてはこれ以上ない条件ではある。

 そして、あれやこれやと話し合った結果、
  遮蔽物もなく人目の付かない冬木中央公園で遠坂たちを待ち伏せることになった。
  その冬木中央公園はライダーとの決着を付けた場所でもある。

  しかし今回はライダーの時とは違って戦略もなにもなく、作戦とは呼べないお粗末なものだ。
  ただ、あそこなら宝具を開放しても、周辺の被害は少ないだろうし全力を出せる。
  文もセイバーも己の本領を発揮できるに違いない。

 俺としては近づきたくない場所だったが、文の意向をこれ以上無視するわけにはいかない。

  だとすると、問題は遠坂がその決闘に乗るか否かだ。だがそれも心配ないだろう。
  勝手な思い込みかもしれないが、彼女が真正面から挑む相手に逃げるとも思えなかった。

 昨夜も『寝込みには気をつけろ』と警告していたが、その心配はないはずだ。
  そう言った点も含めて、俺は遠坂を買っているのだ。いや、信頼を寄せていると言うべきか。
 本当に寝首を掻くつもりなら、そんなことをわざわざ相手に伝えてやる必要はない。

 肝心なところで非情になれない、というにはいささか語弊があるかもしれないが、
  遠坂も文と同じく卑劣な手段を使わないで、ぐうの音も言わせないほど相手を負かせたいのだ。

 そう考えると、根っこのところで文と遠坂は少し似ているのかもしれないな。
  本当にそう思う。……文は兎も角、遠坂は否定するだろうが。

 …………。

 「方針も決まりましたし、私はまた眠らせてもらいますね。
   ……お腹にものを入れたせいか、さっきから眠くて眠くてなりません」

 ふわ、と目尻に涙を浮かべて可愛らしい欠伸をする。

 「わかった。……でもその前に包帯を交換しないか」

 パジャマから血が滲んでいたのが、さっきから気になっていたのだ。
  ずっと言い出すタイミングを窺っていたが、寝てしまうのなら今しかない。

 「…………」

 しかし文はそれに何の反応を見せずにただ唖然とするのみ。

 「それとパジャマも新しいものに換えよう。汗もかいているだろうし、体も拭いた方がいいか」

 そんなこともあろうかと、おろしたてのパジャマを用意しておいた。清潔な手ぬぐいもだ。

 「しくしく」

 唐突に文が子供のように目を押さえて泣き出した。
  声で『しくしく』と言っている辺りが、酷く胡散臭い。

 「ど、どうしたんだ」

 「やっぱり、士郎さんにとって私は女性として認めてくれないのですね」

 「そんなことはないぞ。
   俺が言うのも変かもしれないけど、その、文は凄く綺麗だし、魅力的だと思う。
   ……でも今はそれよりも傷の手当ての方が大事だよな」

 「…………しくしくしく」

 今度は芝居がかった仕草と違って、僅かながらに落胆した感情がこもっていた。
  今の意味深な質問といい、彼女は一体何がしたいんだろうか……。

 「もう言うのも恥ずかしいですけど……。見たいんですか。私の裸」

  「…………ああ!!」

  どうやら俺は文の役に立ちたいという感情が優先されて、他がことがいい加減になっているようだ。
  文に直接的に言われるまで本当にその事に気付かなかった。

  さっきのボタンを外していた時も寝起きであることが本当の原因ではなく、
  彼女の力になれるという空回った思い込みが感情をぶっ飛ばしていたのだろう。
  ……これだと治療にかまける振りをして、彼女の半裸を覗き見ようとする変態でしかない。

 そしてさっき踏んだばかりの轍を再び踏んでしまった。我ながら酷いな、これは。

 「……悪いけどやっぱり一人で着替えてくれ。何か手伝って欲しいことがあれば、直ぐ来るから」

 足早に部屋から退出し、閉じた襖を背にして寄りかかると、ずるずると座り込む。
  自身を落ち着かせるように深呼吸を何度か繰り返す。……まったく、何やってるんだか。

 暫くして衣擦れや、水の跳ねる音が聞こえてきた。
  音だけだと余計に艶めかしく聞こえてしまうのは何故だろうか。

  そんな煩悩を自分の両頬を強く叩いて振り払い、強い決意で襖越しにいる文に声を掛けた。

 「……文、勝とうな。勝って聖杯戦争を終わらせよう」

 ピタリ、と音が止む。

 「当然。そんなことは確認するまでもないわね」

 自信に満ちた文の言葉。その表情さえも想像ができる。

  それに遠坂を思わせるような話し方。……やはり二人はどこか似ているのだと改めて思う。
  普段は猫を被りながら話すのを含めて、本当にそっくりだった。








 後書き

 狭い一室から移動することもなく話が終わりました。
  射命丸さんに至っては立ち上がってもいません。まぁ怪我人に無茶言うなという話ですが。

 2008.10.17


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