「文々。異聞録」 第43話




 冬の風雨は重く冷たく、体の芯まで冷やす。

 熾烈を極めたバーサーカーとの闘いから二日後の夜――。
  冬木は聖杯戦争始まって以来の雨が降っている。
 これまで雨気づく様子も無かったが、日付の変わる時分だろうか。
 ぽつりぽつり、と降り出した雨は瞬く間に容赦のないものへと変わっていった。

  雨に混じって吹く勁風は草木を大きく揺らし、ざあざあと悲鳴を上げさせる。
  こうやって立っているだけでも体力を奪われていくようで、自然の無慈悲さが染みていく。

  そんな最悪の環境下と言えるが、お陰でこの冬木中央公園には人気は無い。
  訪れた直後に公園内をぐるりと一回りしたが、時間帯の所為か人の姿はさほど見あたらなかった。
 こうして雨も降り出したとなっては、おそらく現在ここにいるのは俺たち二人だけだろう。

  これから起きることを考えれば、それは僥倖と言えるのかもしれないが。

 ……この冬木中央公園はつい一週間ほど前にライダーとの決着を付けた場所だ。
  それはつまり、サーヴァント同士の決着が初めて着いた場所でもある。
 そして、これから聖杯戦争の終結さえも迎えようとしているのだ。
 10年前の大火災といい、何かと聖杯戦争に因縁がある場所だと改めて思わされる。

  (もうあんなことは二度とあってはならない)

 ――10年前に起きた大火災。
  あれが聖杯戦争の戦火ならば、あんな惨劇は二度と起こしてはいけない。
  今回は何があっても絶対に阻止してみせる。

 …………。

 射命丸文はこの風雨のなか、さして気にした様子を見せずにいた。

  バーサーカー戦で受けた傷はとっくに完治していた。
  ただ、もぎ取られた翼だけは、どうにもならずその機能を完全に失っている。

  それを除けばたった一日足らずで今まで通りに活動ができるという。
  ……サーヴァントは魔力によって治療が行えるが、文のそれは純粋な再生能力だ。
 吸血鬼でさえも時間を逆行させる復元呪詛によってその身を復元させるというのに、だ。

 相性の悪い英雄でなければ、彼女と戦える存在はこの世にいないのではないだろうか。
 そう思えてしまうほど、彼女の実力はこれまでの闘いを見て痛感した。

 しかし、それが覆されるほど翼のダメージは深刻だ。
  飛行自体は翼の欠けた今でも可能だそうだが、戦闘での活用はどうも難しいらしい。
  サーヴァントが相手では精々奇襲が関の山だという。
  速度、精密性がこれまでと比べものにならないほど落ちているらしく、
  キャスター戦で見せた迅速にて緻密な動きはどう足掻いても無理だそうだ。
 つまり空中に於いては、セイバーの宝具であるエクスカリバーの的にしかならない。

 辛くも残った右翼だけを背中から晒しており、それを見ているとどうしても痛々しさを感じてしまう。

 「折角買ってもらったのに穴を開けてしまって、申し訳ないですね」

 翼に向ける視線に気付いたのか、文は正面を見据えたままそう告げる。

  度重なる激戦の末、幻想郷から持参した着替えが尽きてしまったらしく、
 今日の昼過ぎに似たデザインのブラウスを買い与えた。
 翼を出し入れする為の穴を服に作ったので、そのことを言っているのだろう。
 俺が気にしているのはそんなことではなかったのだが、わざわざ言っても彼女を傷つけるだけだ。

 「……いや、文に不自由がなければ別に構わない」

 「そう言ってもらえると助かります」

 それよりもブラウスの生地が雨によって肌に張り付いており、
  体のラインが浮き彫りになっているのを気にした方がいいと思う。

  少女特有の柔らな肢体は濡れることでより艶やかさを演出するが、却って目のやり場に困ってしまう。
 昨日の朝に起こした失態も思い出してしまい、どうしても意識してしまうのは仕方が無いだろう。
 雨が降る以上、これはどうしようもないことだし、口に出しても仕方ないのだが。

  しかし奇妙なことに少女は気付いていないのか、それに関して何の反応も示さずにいる。
 まるでそれが瑣末であるかのように燦然と浮かぶ赤い瞳が公園の遙か先を見つめるだけであった。


 ――――――――――


 雨風の勢いは弱まるどころか、一層激しさを増し続ける。

  地面も足が取られてしまうほどぬかるんでしまい、戦場の舞台である足場は悪くなる一方だ。
 サーヴァントの名を冠する文やセイバーにはそんなのは何の問題も無いだろうが、
 文の履く一本歯の生えた靴を見ていると、どうしても一抹の不安を覚えてしまう。
  尤もそれは錯覚であって、彼女に対してはそんなことは無用な心配に過ぎないだろうが。

 「士郎さん、今すぐネジを巻きなさい」

 少女がぽつりとそんなことを漏らす。
  だが、その言葉はどうにも要領を得ない。ネジなんてどこにあるのだというのか。

 「……ネジ?」

 「聖杯戦争のネジ。闘争のネジ。一度巻いてしまったらもう戻せないところまで。
   下らない理性や道徳がキリキリと悲鳴を上げるまで巻き上げなさい」

  こちらを一顧だにせず、その視線の先は遙か向こう。
  何かに気付いた少女は内から迸る喜悦を隠す様子もなく表情を禍々しく綻ばせた。

  喉が音を立てて鳴る。そこにあったのは人間を惑わせ誑かす、魔性の笑みだ。
  近づけば彼女の魔性に飲み込まれてしまう。今にしてそうはっきりと確信が持てる。

 その瞳が捉えた先に現れたのは二つの人影。
  予定調和のように姿を見せたのは、言うまでもなく遠坂凛と、最後のサーヴァントであるセイバー。

 最良のサーヴァントと謳われる剣の英霊。その真名はアーサー・ペンドラゴン。
  古代ブリテンの王にして円卓の騎士を束ねた世界で最も高名な騎士王。

 彼のアーサー王が女の子であったことにもかなり驚かされたが、
  『風王結界』から解き放たれた両手剣の正体は紛れもなくエクスカリバーそのものだ。
  その聖剣を持つことを許されたのはアーサー王ただ一人だけ。
 それは即ち彼女が紛れもない本物のアーサー王であることを暗に示唆している。

  文もアーサーについては見聞の深さから知っていたが、女性であったことには特に驚いた様子はなかった。
  曰く『幻想郷ではよくあること』だそうだ。意味は解らなかったが、言葉の重みは本物だった。

  ……騎士王である彼女が何の思惑の上で聖杯戦争に参戦したのかは判らない。
  アーサー王伝説における彼女の最期は決して幸せなものではなかったと記憶している。
  もしかしたら、彼女の聖杯に掛ける願いはそれに関することかも知れない。
  ただ、勝たねばならぬという絶対の意志だけが、翠の色を持つ怜悧な瞳からひしひしと感じられる。

  雌雄を決する決戦の相手としては申し分ないだろう。この雨の夜、どんな形にしろ決着は付く。


 ……彼女たちは雨でぬかるんだ公園の芝生を確実に踏みしめ、隙を見せずに歩み寄る。
 距離はそう、7メートルと言ったところか。
  文、セイバー共に瞬きにも満たない一瞬で間合いを詰め、攻撃を可能とする距離。

  そんな一触即発の距離で遠坂たちは歩みを止めた。

  セイバーは既に『風王結界』によって封印されたエクスカリバーを片手で携えていた。
  当然それは俺たちといつでも切り結べるという意思表示だろう。
  しかし不可視である筈の聖剣が雨に触れることで、効力を失われていた。
  今も刀身に纏う風が雨の雫を弾けさせ、その剣の存在をはっきりと浮き彫りとさせている。

  だが、刀身を隠し間合いを読まれないようにするのはただの副産物にしか過ぎない。
  『風王結界』の本来の機能はアーサー王の象徴とも言えるエクスカリバーを衆目に晒さない為の鞘だ。
  バーサーカーを九回殺した『約束された勝利の剣』こそが、最も警戒しなければならない脅威である。
  彼女の宝具がなければ、文はバーサーカーに勝てなかった可能性も十分にあっただろう。

 その脅威を内包する剣が今は俺たちに向けられようとしている。
 圧倒的な再生力を誇る文でもエクスカリバーをまともに受ければ一撃で死んでしまうだろう。

 雨の中、膠着を溶かすように遠坂がふうと息を漏らした。

 「……今朝、家の窓を突き破ってこんなものが投げ込まれたわ。言うまでもなくあんたの仕業よね?」

 遠坂の手には紙くずのようなものが握られている。
  彼女の視線から察するにその言葉はどうも俺ではなく、文に対してだ。
  横目に少女の顔を覗くとニヤニヤとしているだけだった。真意はとてもじゃないが読めそうもない。
  様子からして遠坂が何を言っているのかわかっているようだが。

 俺だけが話についていけないのを察したのか、遠坂がその紙くずを投げてきたので慌てて受け取る。
  それはB5サイズの大学ノートをくしゃくしゃに丸めたものだった。
  しかし、こんな丸めただけの紙くずでガラス窓を突き破るなんて、どんな強肩をしているのだろうか。

 「広げてみなさい」

 遠坂に言われたとおり、恐る恐る広げてみる。そこにはやけに可愛らしい筆跡でこう書かれてあった。
  『今夜12時、冬木中央公園でお待ちしております――』と。ただそれだけだ。

 「……なんだこれ? 文がやったのか?」

 この字は何度か見たことがある。文のものだ。どうも俺に内緒でこんなものを遠坂の家に届けたらしい。

 「はい。私が遠坂さんの家まで届けました。
   ……窓をぶち抜くには手首のスナップが重要かしら。こう新聞を投げる要領で」

 右手首を三、四回ほど鋭く揺らしてみせる。それに新聞は普通投げるものじゃないと思う。

 「しかしなんだってこんなことを……」

 別に文を糾弾しているわけではないが、疑問は残る。
  単身で警戒網が張り巡らされた敵陣に近づくなんて、どう考えてもデメリットの方が大きい。
  文の脚がなければ、それだけでセイバーにやられていた可能性もある。

 「だって、遠坂さんたちが来るのかわからないまま待ってるなんて馬鹿らしいじゃない」

 「…………」

 もっともと言えばもっともだった。この風雨のなか、誰も来なかったら本当に馬鹿みたいだ。
 だけど、単身敵陣に乗り込む程のデメリットを覆すほどなのか些か疑問ではあった。

 「アンタたち、今更だけど、聖杯戦争がどういうものか本当にわかってるの?
   罠を張るわけでもなく、こんな果たし状まがいのことをして、相手を侮辱してるとしか思えないわ。
  つくづく思うけど、そんなんでよくここまで勝ち抜いてこれたわね」

 「……ま、のこのこ現れた私も私だけど」と最後は独りごちるように呟いた。

 確かに俺たちがここで待ち構えているのがわかっているのなら、わざわざ姿を晒すことはない。
  距離を取ってセイバーがエクスカリバーを放てば、それだけで事は済んだ筈だ。
 あの光の奔流は見てから躱せるような代物じゃない。片翼を失った状態の文では尚更難しいだろう。

 「でも、どうしてなの?
   悪いけどアンタのこれまでの行動を見て、正々堂々と勝負をするタイプにはとても思えない」

 それは俺も疑問に思ったことだが、『照れくさい』と言われてはぐらかされてしまった。
 しかし文は心外と言わんばかりに嘆息を漏らすと、やれやれと首を振る。

 「何? 私を馬鹿にしているつもり?」

 「だってそうでしょう? 相手の目を見て叩き潰さなきゃ面白くないじゃない」

 いや、違う。
  当然それもあるだろうが、文の真意はそれだけじゃない。何かしら別の思惑があることは確実だ。
  それだったら照れくさいなんてはぐらかし方はしないだろう。

 「ふん。癪だけど、それだけは同意してあげるわ。……貴方、今回の聖杯戦争で一番の喰わせものよね。
   よくアンタみたいなのが衛宮君のサーヴァントなんて務まったものね」

 「いえいえ、そんなことはありませんよ。清く正しいをモットーに日々活動していますので。
   士郎さんとは所謂ベストパートナーという奴でしょうかね。へへへ」

 誰の目から見ても判るような見え透いたへつらいを急に見せる。
  だが、表情を見せないようにか口許を葉団扇によって隠していた。
  正面からの遠坂はわからないだろうが、俺には文の見下すような嘲笑を浮かべるのを見えてしまう。

 「化け物め。貴様如きがマスターに一端の口をきくな」

 これまで無言を貫いていたセイバーが初めて言葉を放つ。

  己のマスターが文によって侮辱されたのがわかったのだろう。
  静かな怒りを露わにして、本質を見抜くような鋭い慧眼で睨み付ける。

 文はセイバーの睨視を受け流さずに、正面から見定めるように受け止める。
 眼を細め、口を閉じ、顔から感情が失われていく。冷淡なものに変わっていくとでも言うべきか。
  その文の変化に伴って徐々に周囲の気温すらも下がっていく。

  「……もういいでしょう。私もそろそろ限界だわ」

 過激な内容に反して、抑揚のない声色。

 「そうね。今夜で聖杯戦争もおしまい。当然、その幕紐は私たちが引かせてもらう。
  アーチャー、貴方には一切の油断も容赦もしない。全力を持って倒してみせる。
  ……セイバー、遠慮はいらない。ガツンとやっちゃいなさい。宝具も一度だけなら使ってもいいわ」

 「はい。我が剣に賭けて、必ずや貴方を勝利へと導いてみせる」

 セイバーはエクスカリバーを胸に掲げ、遠坂に騎士として誓いを立てる。

 そのまま正眼に構えると、睨視と共に剣の鋒を文へと向けた。
  ビリビリと伝わる万人にも及ぶ重圧。それを総身に浴びても表情を作らずに眼を細めている。
  普段ならどんなプレッシャーを浴びても素知らぬ顔で受け流すだけだったが、今夜の文にそれはなかった。

 一陣の風が吹く――。

  その突風に触発されるようにセイバーが、魔力を爆発させて駆ける。
 10メートルにも満たないこの距離。セイバーにとって問題にもならない。
  たった一足で縮めて見せ、文に斬り掛かることができるだろう。

 文はそれに対して葉団扇を八相の構えのような体勢で、セイバーを迎え撃とうとする。
  それは文字通り、彼女の得意とする風の弾幕で迎え『撃つ』のだ。

 篠突く風雨を切り裂くかのように葉団扇を振り下ろし、開幕となる弾幕を少女が放った。







 後書き

 さてさて、始まりました。文とセイバーの闘い。
  遠坂と同盟を一切組むことなく進めば当然の帰結でしょう。
 何か盛大に張った伏線をいろいろと忘れている気もしますが、それはもちろん消化します。

 さて、この荒唐無稽の物語も残すこと後どのくらいだろうか。
  細かなプロットは立ててないので厳密にはわからないですが、終わりだけは見えています。
  今は「もうちょっとだけ続くんじゃ」とでも言って濁す。

 2008.11.1


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