「文々。異聞録」 第45話




  一進一退だった戦局はここにきて、大きく変わることになった。


 エクスカリバーが、セイバーの手から奪われた。
 その聖剣は陰雨の闇をくるくると舞い、彼女から遠く離れた場所に突き刺さる。

  それを可能とした文の『猿田彦の先導』というスペルカード。
  天狗の代名詞と言える風の力を纏って突進といった、単純だがそれだけに強力な技。
 その技はセイバーの手から宝具を弾き飛ばし、彼女を容易く貫いた。

 ――宝具を失う。
  剣の英霊であるセイバーが、己の宝具を失うなんてことはあってはならない。
  自身の最も信頼する武器を無くした状態では、万に一つもセイバーに勝機はないのだから。

 文が素手でどうにかなる相手でないことは、間近で彼女の闘いを見てきた俺が知っている。
  これまでサーヴァントとは宝具無しで渡り合ってきたのだ。無手で勝てるわけがない。

 「ううァ……ッ」

  宝具を手放してしまったこともそうだが、セイバー自身の受けたダメージも深刻だった。
  五体満足ではあったが、遠目で見てもはっきりとわかる疲弊と、損害。

 大の字になって倒れる彼女の目には、天を厚く覆う雨雲が写り込んでいるだろう。
  彼女にそれを見るような余裕はない。
  苦痛に顔を歪め、全身に酸素を取り込もうと荒い呼吸を繰り返す。

 そんな有様でもまだましと言えた。
 もしも、激情に任せて突っ込んでいたのなら、セイバーはそのまま絶命していただろう。
  だが、直前で冷静さを取り戻した彼女はエクスカリバーを盾にし、その事態を回避したのだ。

  それはあの一瞬にできた最善の行動だったと言えよう。
  それでも、この状況はセイバーにとって圧倒的に不利なのは覆しようもない事実。

 「ふう」

 文はセイバーから少し離れた地点に着地する。  
  雨に濡れる髪をかき上げ、仰臥するセイバーを赤い双眸で見下ろしていた。
 セイバーも忌々しそうに文を睨むも、上体を起こすのがやっとで立ち上がることもままならない。

 「私の十八番を受けてまだ息があるとはね。ちょっとセイバーを過小評価していたかしら。
  でも、流石に直ぐには起き上がれないみたいね。……だけど、悠長に待ってあげないわ。
  セイバーには悪いけど、このチャンス、余すことなく生かさせてもらいます」

 彼女は瞬きにも満たない須臾の合間で、セイバーの眼前に移動する。
  そのまま彼女の顔面に目掛けて、滑稽なほど大振りな蹴りを放つ。

  本来はこんなに隙だらけで無茶苦茶な蹴りがサーヴァント相手に当たるはずもないが、
  身を守る得物もなく、未だ呼吸も整っていないセイバーにとっては十分すぎるほど脅威だ。

 両腕を十字にして蹴りを防ごうとするが、文はお構いなしに腕ごと蹴り上げた。
 全身に伝わる衝撃は外へと走り抜け、セイバーの体を空中へと投げ出す。

 人体をサッカーのボールに見立て蹴りつける、サッカーボールキックと呼ばれる技。
  ただでさえ危険な技であるが、文の健脚をもってすれば頭と体が泣き別れるぐらいの威力はあるだろう。

 「ガ――!」

 冷たくぬかるんだ大地に、セイバーの小さな体が玩具のようにバウンドする。
 絶対的に有利な立場にいても、一切の容赦も遠慮もない攻撃。

  文はセイバーの動向を欠片も見逃さないよう、無鉄砲に特攻はしないで徐々に間合いを詰めていく。
  それだけセイバーの爆発力は侮れない。僅ずかな油断が命取りになる。

 今、文が懸念しているのは、セイバーが再びエクスカリバーを手に取ることだろう。
 その為、エクスカリバーから遠く離れた場所まで彼女を蹴り飛ばしたのだ。

  抜け目のない文のことだ。
  今だって遠坂に拾われないように細心の注意を払っているはず。
  この見晴らしのいい公園では、アーチャーを冠する彼女の手腕ならコンマ数秒で攻撃が可能だろう。
  遠坂がエクスカリバーを拾おうとした瞬間に、文は容赦無く遠坂の命を奪う。
  つまり、エクスカリバーを手に取られる懸念さえを守りきれば、文の勝利はほぼ確実のものになる。

  今の文はそれだけ遊びがない。えげつない手段でセイバーを攻め立てる。

 「く……ッ! セイバー!」

 業を煮やした遠坂が傍観をやめて、文の後ろに回り込むように駆ける。
  文も遠坂の挙動には気付いているだろうが、一顧だにせずにセイバーから目を離さない。

 遠坂は文から七歩ほどの距離で足を止めた。
  しかしそれでもセイバー以外は意に介すそぶりもみせない。
  セイバーだけしか見えてないとでも言おうか。

 その気になれば文は今この瞬間にも遠坂を仕留めることができるも、
  伏臥してうずくまるセイバーの動向を探るだけだった。

 「……ふざけんじゃないわよ!」

  その敵とすら見なしていない文の態度を侮辱と感じたのか、声を荒げて激昂した。
  そして激情をぶつけるかのように、――遠坂が文に向けて何かを投げつけた。

 少女の膂力とは思えないほどの投擲。
  冷たく重たい雨を受けてもスピードを落とすことなく、闇を切り開いていく。

  彼女の得意とする宝石魔術なら、文にダメージを与えられるだろう。
  あのバーサーカーでさえも一度殺したのだ。まともに命中すれば致命傷は免れない。

  それでも俺には遠坂が破れかぶれになっているようにしか見えないでいた。

  ……俺の知る限り、文がサーヴァントの遠距離攻撃を受けたことはただの一度もないのだ。
  中でも鮮明に思い出すのはキャスター戦。
  キャスターの大魔術を回避する時に見せた文の動きはこれまでで一番の出鱈目さだったと言えよう。

 文は今も背後から迫る脅威に何の行動も起こさないが、それも先のガンドと同じく問題はないだろう。
  俺にはどうしても、遠坂の宝石が文に命中する姿が想像できない。

  ……だが、何かおかしい。

  闇に紛れてよく見えないが、遠坂の投げたものは宝石ではないように思える。
  回転して文の頭を狙うソレは宝石と呼ぶにはあまりにも大きい。

 だが、そんな懸念は余所に文はセイバーから目を離さずに完璧なタイミングで回避する。
  勢いを失ったソレはセイバーの側に音を立て、落ちてしまう。

  文はあきれ果てるように重みのある溜息をついた。

 「はぁ。凛さんは同じことを何度も言わないと理解できないような馬鹿なんですか?
   ……いい加減にしないと、セイバーよりも先に殺すわよ」

 ようやく振り向いて、遠坂と視線を交わす。
  赤い瞳に孕らまれた明確な殺意。ただの人間ならそれだけで恐怖に飲まれてしまう。

 だが、遠坂は視線から逃げようとはしなかった。彼女の浮かべる表情は怯えでも、怒りでもない。
  ――言葉で表現するのなら、彼女によく似合う、どこか意地の悪い微笑と言おうか。

 その態度を見て、流石の文も訝しそうに眉を顰める。

 「……何が可笑しいのですか? それとも気でも触れたのかしら?」

 「アンタ、前々から思ってたんだけど、躱すことにポリシーでもあるのかしら。
   まぁ今となってはそんなことは、どうでもいいんだけどね。
   ……私を侮ってくれて、ありがとう。ソレを避けてくれて、本当にありがとう」

 「はぁ」

 文はわけもわからないまま、臥したセイバーに視線を戻す。

 それから一瞬だった。

  セイバーが地面を蹴り、遠坂が投擲した何かを拾い上げた。
  それらの一連の流れを殺さずに、文の元に奔る。――手に握る何かを構えて。

 文の目が驚愕に染まる。
  あれだけのダメージを受けて、ここまで動けるセイバーに体力に。
  そしてそれ以上に、彼女の手に握られた一振りの黒の短剣に。

 ダメージがブラフだったと思える身のこなしでセイバーが短剣を突き出す。
  文は反射的に後方へ跳ね、刺突を躱そうとするも、セイバーの踏み込みが一歩半だけ速い。

  文は直前に身を捻り回避しようとするが、それさえも間に合わない。

  紫がかった黒の刀身が文の白いブラウスを裂き、柔膚に届く。
  臍から少し右の位置、小腸の密集した辺りだろうか。少女の下腹部に、短剣が刺さった。

 「〜〜〜〜ッッ」

  灼ける痛みに声にならない悲鳴を上げる。

 しかし、これまでの戦況をひっくり返す、セイバーの起死回生の一撃は止まらない。
  より深いダメージを与える為に、剣を前へ前へと突き立てようとする。

 「……こ、このッ!」

 文はセイバーに何度も風を放つが、一切がこれまでと同様に無効化されてしまった。
  それは文も当然のものとして理解しているだろう。
  だが、この距離と体勢ではそれぐらいしか文にできることがないのもまた事実。

  攻撃は全て徒労に終わり、文の表情が激痛と絶望に呑まれる。
  セイバーは勢いを弱めることなく、剣を握る手に渾身の力を込めた。

 「ハァァァァ!!」

  セイバーの大喊と共に剣が少女を貫いた――。


 ――――――――――


 遠坂の短剣は文の腹をあっさりと穿ち、今は背中から両刃の刀身を覗かせている。
  刀身は彼女の血と雨を吸い、闇に怪しく光る。

  セイバーの短剣を握る手には柄の部分しか見ることができなかった。
  短剣は根本まで刺さり、刀身の全ては彼女の体内か、背中から露出していることになる。

 傷を中心にブラウスを赤く染めていく。

  まるで切り取った一枚の絵のような光景だった。
  雨と風、そして少女から流れる夥しい鮮血だけが、冷酷に時を刻む。


  それから数瞬して、セイバーが剣を引き抜く。
 その行為に慈悲などあるわけもなく、無造作に引き抜かれた剣が疵口を広げる。

 「ゴホッ」

 文が力なく咳き込んだ。
  少女の口内に溜まった血が許容量を超えて、外気に溢れ出る。
 鮮血がセイバーの顔を濡らすも、大粒の雨が洗い流す。

 文はよろよろと後ずさり、転びそうになったが、直前で辛うじて踏みとどまる。
  前屈みで疵口を押さえるが、それだけではとてもじゃないが止血にはならない。

  背中にまで続く大穴だ。仮に腹の傷を塞ぐことができたとしても、背中からの血は止まらない。
  こうして立っているのもやっとだろう。

 「それはアゾット剣と呼ばれる、魔方陣の形成に使われる儀式用の魔術剣よ。
   だけど、もちろん剣としての実用性もあるわ。そして、セイバーは剣の英霊。
  自分の宝具だけじゃなくて、刀剣類だったら大体は扱えて当然だと思わない?
   アンタは投げ出されたエクスカリバーばかりを気にして、私の所持品には気にも掛けなかったわね。
  ……私を侮ってくれて、とても助かったわ。感謝してもしたりないわね」

 これまでの鬱憤を吐き出すように、遠坂は言葉を並べ立てる。
  文の視線は遠坂へと向いていたが、その虚ろな瞳に彼女が映っているのか怪しかった。

 文は遠坂の言うとおり、投擲されたアゾット剣を防げばよかった。しかし彼女は剣を躱してしまった。
  ほんの少しでも興味を示し、一目でもアゾット剣を見ていれば結果は大きく変わっていただろう。

  だが、人間を見下す傾向にある文は遠坂凛という少女を甘く見ていた。
  今に至るまでセイバーの付属品程度にしか彼女という存在を見ていなかった。
  しかし、遠坂はそれすらも計算に入れて行動に移した。
  それはプライドの高い魔術師である彼女にとっては筆舌にし難いほど苦肉の策だったはずだ。


 セイバーはとどめを刺そうと、短剣を振り上げる。
 文は意識がはっきりとしないのか、ぼんやりとその剣先を見つめるだけで身動きが取れない。

 「これで終わりだ――」

 そうセイバーは闘いの終局を告げた。

 …………。

 そのセイバーの言葉に、思考が曖昧にぼやけていく。

 「……ふざけるな」

 このままだと確実に文は殺されてしまう。それは絶対に許せない。
  だったら、衛宮士郎。
  お前の為すべきことはなんだ? こうして何もしないで突っ立っていることか?

 違うだろう!

  ――文がこれまでしてくれた忠告は頭から完全に抜け落ちていた。
  何かを考えるよりも先に体が動き出す。ただひたすらに文の元へと走り出す。

 セイバーが文の命を刈り取るまで一刻の猶予もない。
 ぬかるみに足を取られそうになるが、今は転んでいる暇などない。

 「やめろーーッ!!」

 文を庇うようにセイバーの前に立ち塞ぐ。
  俺は無手だったが、セイバーの前ではどんな凶器を持ったとしてもそれは無意味だろう。

 セイバーは短剣を構えたていたが、どうしてか俺ごと文を殺すようなことはしなかった。

 「…………」

 セイバーは無言だった。
  だが、こちらに向けられている重圧は尋常ではない。
 こうして対峙するだけでも、まったく生きた心地がしない。
  文や、バーサーカーとはまた違う、剣に貫かれるような寒気が全身に走る。

  しかし、そんなことで逃げるわけにはいかない。

  文はこれまで幾度となく俺の命を守ってくれた。
  正直に告白すると、それは嬉しいと思える以上にどうしようもないほど悔しかった。

 文が俺を守ってくれるのなら、俺も文を守る。
 勝算なんて知ったことか、何がどうなろうと絶対に彼女を守ってみせる。
 何ができるかじゃない、もう何もしないでいることに耐えられないんだ。

 ――風を切る音。

  コマ落ちしたと思える速度で、剣を鼻先に突き付けられる。俺の目には何も捉えられなかった。
 言葉にするのにも烏滸がましい圧倒的な力量差。だとしてもここで目を逸らすわけにはいかない。

 「やめてくれ、セイバー。文はもうこれ以上戦えない」

 「……そこを退け、エミヤシロウ。貴方を殺すことはマスターの意に反する」

 その言葉に遠坂が、ぎょっとしたように驚く。

 「ちょっとセイバー。それは言わないでって、前に約束したじゃない!」

 「すみません、リン。
   ですが、そうでも言わないと、この男はどいてくれないでしょう」

 彼女はぷいっとそっぽを向く。
  ……こんなどうしようもない俺を気に掛けてくれるなんて、本当に遠坂はいい奴なんだろう。

 だけど――。

 「ありがとう、遠坂。だけどここで文に死なれたら、俺は絶対に死ぬまで後悔する。
   だから死ぬようなことになっても、俺はここを動くつもりはない」

 「エミヤシロウ、貴様はリンの意がわからないとでもいうのか」

 苛立ちを隠そうともしないセイバー。
 俺の発言はセイバーにしてみたら、主を侮辱されるのと同じだろう。そう思われてるのも当然だ。

  「これは俺の我が儘だ。だから何があってもここを退かない。
  それにここで文を死なせたりも絶対にさせない」

 そう嘯いたが、何か策があるわけでもない。結局は俺のどうしようもない自己満足なんだと思う。

 「……そう、どうしても退くつもりはないのね。
   でもね、衛宮君程度なら殺さなくてもどうとでもなるわ。私のガンドで十分。
  せめてもの情けよ。このまま聖杯戦争のことは忘れさせてあげる」

 恐らく俺はガンドの一発で確実に昏倒する。
 この距離じゃ躱せるとも思えないし、身を守る術も持っていない。

 遠坂が俺を指差し、魔力を込める。

 「じゃあね、衛宮君。アンタのことそんなには嫌いじゃなかったわよ」

 そして、黒い弾丸が放たれた。

  文の息づかいが背後から聞こえる。今ははっきりと彼女の存在を感じられている。

 遠坂は俺を気絶させたら魔術で記憶を操作するのだろう。
  聖杯戦争に関する記憶。それは即ち、文との思い出でもある。それを消されてしまうという。

 それがどれだけ残酷なことか、遠坂にはわかっているのだろうか――。







 後書き

 どちらが悪役かと問われたら確実に射命丸。

 2008.11.25


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