「文々。異聞録」 第47話





 セイバーの振り下ろした聖剣。
 すんなりと呆気なく、文の肩から脇までを斬り裂いた。

  刃先は少女の皮や肉ばかりではなく、内臓まで達していた。
  僅かに遅れて溢れ出す、夥しい量の、鮮血。

  鋭く、深い創傷、人間ならば確実に死に至るもの。
 ただの深いだけの創傷であれば、圧倒的な再生力を持つ文にとってさして問題ではない。

 だけどそれは、ただの傷なんかではなく。
  セイバーのエクスカリバーは妖怪である文にとって、致命的になる。
  聖剣によってもたらされた傷は、即効性の毒となって少女の体を蝕む。
 そんな決定的な一撃が少女の胸を酷たらしく斬り開いた。

  目を覆いたくなる凄惨な光景。だが、決して目を逸らしてはいけない。

 「いっ、たぁ……」

  か細く、漏らされた少女の声。

  もう、悲鳴とも呼べないものだった。
  雨が止んでなければ掻き消されていた、消え入りそうな少女の慟哭。

  体にもうこれ以上は、力が入らないのだろうか。
 膝がガクガクと不自然に震えて、崩れ落ちてしまう。
  前にも後ろにも倒れてはいない、座り込むようにただ膝を地に付いているだけ。
 だが、それは誰の目から見ても二度と起き上がれないのだと、そう予見できてしまった。

 全身を赤く染め上げ、それと対比するように肌から血の気が引いていく。
  今、彼女は人間よりもずっと縁遠いはずの死に限りなく近づいていた。

  セイバーは疲労もあり大きな裂傷もあったが、致命傷と呼べるものは一つもない。
  文と比べればほんの些細なもので、 戦闘続行に何の支障もないだろう。

  片翼をバーサーカーにもぎ取られ、文は万全とは言えなかった。
  だが、文は全力でセイバーに戦いを挑んだ筈。
  だというのに、セイバーは宝具すら使用せず、尚も余力すら残っている。

  ……ああ、どういうことかというと。
  勝敗は決した。
  遠坂の宣言した通り、聖杯戦争はセイバーの勝利という形で幕は引かれた。


 セイバーが文を見下ろす。
 彼女の向ける瞳は一つの感情も灯さず、機械の部品を演じるかのような冷たさがあった。
  文が時折、見せるような相手を嘲弄する感情は孕んでいない。

  油断も躊躇いもなく、ただ冷静に文の動向を観察している。
  そこに付け入る隙など有りはしないだろう。

 「まだ息があるな。
   やはり貴様を完全に殺すにはその首を斬り落とす必要があるようだ」

 風王結界から開放された聖剣を、ゆっくりと文の首に宛がった。
  だが、文は指一つ動かす力も残っていないのか、何の反応も示さない。

 「…………」

 意識は失ってないようだが、瞳はぼんやりと曖昧であり、答える気力もないようだ。
  かつての少女なら、どんな窮地でも言葉遊びのような皮肉を返していたであろう。

  彼女が死にはしないにしても、失血で昏倒するのは時間の問題だ。
  だけども、文が意識を失うよりも早くセイバーは確実に文の命を刈り取る。

  口許だけはセイバーに対してなのか薄く笑っていた。

 「マスター、命令を」

 セイバーは遠坂凛の剣だった。
  最終的に文の命を奪う殺意は遠坂のものであるということなのだろう。

 「ええ、わかってる」

 遠坂の顔に浮かぶ、僅かな翳り。
 魔術師として完成しているとはいえ、彼女もまだ10代の少女だ。
  人間ではないとはいえ、自分と同じぐらいの年格好である文を殺すのも決断がいる。

  彼女は真夜中の冷たく冷えた空気を吸い込み、大きく吐き出した。
  そこにはもう翳りはなく、名前のままの凛とした表情。魔術師としての遠坂の顔。

 「……衛宮君、これから貴方のサーヴァントを殺す。
   でも、恨まないでなんて言うつもりはないわ。
  憎かったら私を恨みなさい。
   聖杯戦争に勝つことがお父様から託された遠坂家の悲願なの。
  今更、他人の命を奪うことに躊躇わない」

 ……でもな、遠坂。

  そう言い掛けた言葉を喉元で飲み込む。
 遠坂にどんな言葉を掛けたところで彼女の胸には響かない。
  聖杯戦争に賭けた意思は絶対であり、文の命を奪う意思も覆ることのない絶対だ。


 ……だけど、そうはさせない。
  そんなことを許していいはずがない。

 遠坂の聖杯戦争に賭けた悲願と同じように、俺にも絶対に譲れないものがある。
  正義の味方を目指す者として、傷ついている人を放っておけない。

  それが、遙か遠い場所の出来事だとしても、その気持ちは変わらない。
  目の前で傷ついているのなら、尚更だ。
  助けることができるのなら、俺は何だってする。どんなに卑怯と罵られてもだ。

 そして、俺には文を助ける手段があった――。

  それもかなりの確率で文の命を救うことのできる手段だ。
  先程のように向こう見ずにセイバーとの間に入るわけではない。
  今更、繰り返すまでもないが、俺にセイバーに立ち向かうような力はないのだから。

  そんな俺が、文を助けられる術。
  正式なサーヴァントとは言えない彼女だから許される裏技。
  大袈裟に裏技というが、なんてことはない、方法も酷く簡単だ。

  それは、ただ最後の令呪を使い、文との契約を打ち切るだけ。

 内容は何だって構わない。
  最後の令呪を使えば文は契約という名の呪から開放され、彼女は幻想郷に戻ることになる。
  俺が令呪を使うのを遠坂たちに感づかれない限りは、恐らくうまくいく。

  今思えば、二つ目の令呪をあんな風に消費したのも、この時に備えてのことだったのかもしれない。
  ……だとすると俺は無意識のうちに『文はセイバーに勝てない』と思っていたのだ。

 いいや、それだけじゃない。
  俺はセイバーを初めて見たときから、この出来損ないの心を激しく打たれていた。
  正直に告白すれば、俺はセイバーに見惚れていた。
  意識するまでもなく自然と、セイバーの挙動の一つ一つに対して目を奪われた。

 それは、俺は文をパートナーとして信じ切れていなかったということ。

  文をサポートできる力もないばかりか、彼女をこんな最後になるまで信じていなかった。
 ああ、俺は度し難い程の馬鹿だけではなく、どうしようもない裏切り者だったのだ。

 ……もう考えるまでも無い、最後の令呪を使おう。

  後のことなどは知ったことか、聖杯戦争がどうなろうとどうでもいいことだ。
  聖杯なんてものは考えるまでも無く、文の命とは比べられはしないのだから。

 それよりも憂慮すべきは文の怪我の具合だった。
  だけど、それは送り返した後、幻想郷に住む彼女の仲間が何とかしてくれると信じるしかない。

 …………。

 別れがこんな形になるとは思わなかったが、彼女を信じ切れなかった今、合わせる顔もない。
 だけど、一言だけ謝りたかったかなと思う。
  勝たせてやれなくて、ごめんと。
  そしてこれまで俺なんかに付き合ってくれてありがとう、と言いたかった。

  当然、その機会は二度と訪れない。

 令呪の刻まれた左の拳を血が滲むほど強く握る。
  そこに籠もる熱は、左手に魔力が帯びているばかりではないだろう。


  さっきまでの風雨はもう気配を感じさせないほど何処かへ遠ざかっていた。


 ――――――――――


  冬木中央公園は寂寞とした空間に変容した。
 冷たい大気が満ちた公園には、風韻もなく、文の荒い息づかいだけが聞こえる。

  聖杯戦争の終結。

 セイバーは文の首に宛がった剣で、彼女の細い首を刎ねる。
  妖怪の文であろうと、聖剣で首を落とされれば絶命は免れない。

  文にも、かつてのように避けるような体力もない。

  ただの一言、遠坂がセイバーに命令すれば全てが終わる。

 文は感情の読み取れない虚ろな瞳でセイバーを見上げるだけで、何の抵抗も見せない。
  言ってしまえば、諦観……。
  自由気ままに空を駆ける彼女に、なんて似つかわしくない言葉か。

 情けない話だが、これ以上は見ていられない。
  文の傷つく姿を見るのも、セイバーが文を傷つけるのも、遠坂が命令を下すのも。

 いい加減、もう限界だった。

  令呪に魔力を灯す。
  この行為も文に対する裏切りに等しいが、彼女に死なれるぐらいならどう思われようと構わない。


  ――足音が響いた。

 雨にぬかるんだ土壌を踏み潰す重厚な足音。
  それは、これまでになく、唐突だったのだろう。

 「ようやく決着か。
   このような児戯を眺めるのも酔余の一興ではあったが、それも厭きてきたところだ」

 黄金の男。
  金色にあしらわれた大仰な甲冑を纏い、同じく金に染まった髪を持つ長身。
  この開けた公園で今まで誰も気付かなかったのが、不自然なほどまで目立つ風貌。

  だが、それは姿形だけではない。

 「久しいな、セイバー。10年ぶりと言ったところか。
   それに奇しくもこの場所とはな。ククク、何とも数奇と言えるではないか」

 一目見て理解できてしまう、闇を眩いばかりに照らす黄金の精神。
  噎せ返りそうになるほどの破格の存在感。
 この場に居る誰もが男の存在を無視できず、違いはあれど驚愕の視線を向けた。

 男は向けられる視線を意に介すことなく、こちらに向かって悠然と歩んでいる。
  ……いや、『こちら』というのは語弊があるかもしれない。
 怜悧な双眸は俺や遠坂だけでなく、サーヴァントである文でさえも捉えてはいない。
 紅玉を嵌め込んだような瞳に映るのは、ただ一人セイバーだけ。
  男からすれば、視界の端に映る俺たちは路傍の石と何ら変わらないだろう。

 「アーチャー! 何故貴方がここにいる!?」

 セイバーが、なりふり構わずに声を荒げた。

 『アーチャー』と呼ばれた男のプレッシャーを浴びるも、セイバーは怯まない。
  どうやら、彼女の態度を見るに男とは因縁浅からぬ関係にあるようだ。

 それにあいつは……。

  そうだ、かつて会ったことがある。
  聖杯戦争の初日、冬木の言峰教会の長椅子に座っていた男だ。
  あの時は逆立てた髪を下ろしていたが、その程度で見間違えるはずもない。
 教会で見たときから感じていたこの他者を寄せ付けない気配はまったくの同質。

  しかし、放たれるプレッシャーはあの時とは比較にならないほど並外れたもの。
  意識を向けられることがなくても、ただ在るだけで押し潰されてしまいそうになる。

  男はセイバーと文の側面からおおよそ8メートルの距離で歩みを止めた。
  セイバーが全力で踏み込めば、刹那のうちに斬り込むことを可能とする間合い。
 そして、そのセイバーの浮かべるのは紛れもなく敵意。

  だが、そんな敵意などに動じることもなく、男は口角を薄く上げて笑った。

 「なに、そこでな。煩わしい雨が止むのを待っていたわけだ。
   セイバー、お前とは久しぶりの再会であろう? 我の髪が乱れてはなるまいよ」

 逆立てた金糸を整えるように触れる。

  「ククク、光栄に思うがいい。これもお前のためだ」

  口角を更に吊り上げて、男は言葉を続けた。
  それが当たり前であるように、何の気兼ねもなく、男はセイバーに嘯く。

  男の尊大な態度にセイバーは苛立ちと不快感を募らせ、
  その感情と呼応するように聖剣を握る手がより強くなった。

 「アーチャー、戯言はそれまでだ! 私の質問に答えろ!」

  セイバーは隠すことなく激昂した。

  だが、男がセイバーに見せる態度は敵意や悪意ですらない。
  この場には決して相応しいとは言えない別の何かだった。

  そして、これまで文の首筋に宛がっていた剣を男に向ける。
  血に濡れた剣を突き付けられても、何の動揺も見せることはなかった。


  ――その時、文の瞳がかつて無いほど色を帯びた。
  曖昧に揺らいでいた瞳が真紅に染まり、閉じかけていた虹彩が大きく開く。

  それだけではない。
 感情をむき出しにする彼女らしくない表情。
  未だかつて、文がそんな顔を表だって見せたことは一度でもあっただろうか。
  その獣が獲物を噛み殺すような獰猛な視線をセイバーに向けていた。

 そんな獣の殺意を受けても尚、セイバーは気付かない。届かない。
  割って入ってきた男から、彼女は決して目を離すことはなかった。

  セイバーは男の存在にあてられ、心中から文のことは消えていた。
  ほんの少しでも気があるのなら、敵対するサーヴァントにあんな隙を見せたりはしない。

  それはセイバーだけではない。
  彼女のマスターである俺も、今まで令呪を使うのを忘れていた。
 突如現れた存在の大きさに状況を適切に判断できなくなっている。

  ……くそ、俺はこんな時まで何をやっているんだ。

  だけど、考えてみれば逆にこれはチャンスでもある。
  セイバーと遠坂の気が男に向かっている以上、令呪の使用を感づかれる可能性が格段に減るのだ。
 タイミングとしては今が最高なのかもしれない。
  
  これ以上、時間を浪費しても彼女の危険を増すことになるだけ。
  もう限りなく潮時なのだ。
  左手に刻まれた令呪に再度魔力を込めると、ちりちりと紫電が走った。

  ……最後に後ろめたさから、文の顔をもう一度だけ見遣った。

  そこにいた少女は、俯き、儚げな表情を浮かべていた。

  誰に見せるわけでもなく、言われて気付く程度の些細な変化だった。
  俯きも、憂いを灯すのもほんの一瞬だけで、再び瞳を感情に波立たせる。

 そして、セイバーを無視し、波立つ瞳を俺に向けた。

  何かを伝えようと口を開く。
  少女は声を上げられないまで衰弱しており、口をぱくぱくと開くだけで誰の耳にも届かない。
 だが、読唇術の心得のない俺でも、彼女の言いたいことは理解できた。

  『何があっても令呪を使うな』

  彼女の瞳がどんな言葉よりも雄弁に語っていた。

 心臓がドクン、と大きく跳ねる。
  見透かされていたことに、息だけではなく心臓さえも止まりそうになる。

 令呪を使い、文を幻想郷に還すという俺の考えは見抜かれていた。
  その行為は浅慮だと咎めるように、彼女の赤い瞳が伝えてくる。

 …………。

 いや、これからどうすればいいかなんて、当然考えるまでもない。
  最善なのは彼女の意思を顧みずに、このまま幻想郷に送り還すことだ。
  次善策なんてものはありはしない。
  今令呪を使わない以外の選択は100パーセントに近い死が待っている。
 今はセイバーの注意を向けられていないが、次の瞬間にも文は命を落とすこともあるのだ。

 当然、文もそれを理解しているだろう。

  聖剣で胸を切り開かれて、まともに話すこともできないというのに。
  その身体で、ここに残ってもサーヴァント相手に何ができるわけでもないのに。
  それにこうやって、躊躇する時間すらも無限ではない。
  時間の浪費は只でさえ少ない選択肢を減らし、彼女を死へと近づけている。

  ……そんな絶望的な状況に於かれても、
  俺のなかで沸き立つのは彼女の意思を尊重したいというぶれた感情だった。

 ああ、馬鹿げている、それもとびっきりに。
  そんな考えは理屈や、効率などから大きく外れてしまった感情論でしかない。
  どんな理屈を捏ねても間違いでしかない選択だ。

  だけど、彼女との関係をこんな状態のままで終わらせたくなかった。
  ……畜生、それこそがどうしようもなく馬鹿げたエゴイズムだというのに。


 迷いに揺れている俺を文の赤い視線が糾弾する。
  彼女が、今も尚、止まる気配もなく流し続けるものと同じ赤。
  意識を保っているのも、奇跡に等しい出血量だ。

  どうして彼女がそんな有様になってもまだ、幻想郷へ還るのを拒むのかわからない。
 わからないが、目に宿る強さは滑稽なほど、ひたむきなものだった。







 後書き

 かなりの間を開けてしまいました。
  楽しみにして下さる方がおりましたら、ホントに申し訳ない。

  ただ、話自体は佳境に差し掛かっているので、このまま突っ走ればいいんですけど。
  それでもプロットの範囲を見る限り、まだまだ続くかもしれない。多分続く。

 2009.3.1


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