「文々。異聞録」 第48話
全てが終わりを迎えようとした時だった。 そんな間隙に現れたのは、総身を黄金色の甲冑で纏う男。 外見だけを飾った虚飾ではなく、精神の在り方さえも黄金そのもの。 男はセイバーからの問い掛けに何も答えずに、ただ彼女を静観していた。 ……一定の距離は保たれてはいる。 しかし、そんなものはセイバーの辣腕があれば、ゼロにも等しい距離。 セイバーは明らかに敵愾心を剥きだしにしている。 男に向けた矛先はこれまで対峙していた文に向けたものより、猛々しく、何よりも憎悪すら感じた。 セイバーがいつ男に斬り掛かっても、何もおかしくない。 まさか、あの男がセイバーの腕を知らないことはないだろう。 あいつは文とセイバーの戦いを見ていた、と言っていた。 だというのに、構えるどころか、戦おうという意思すらも感じさせない。 ただ、男の顔貌が作り出すのは、己のみを高貴とし、それ以外の全てを見下した冷笑、余裕、愉悦。 そう、愉悦だ。 男はしげしげと楽しげに、セイバーを紅玉に映している。 目を僅かに細め、己の宝を愛でるように、喜々として見澄ましている。 俺にはその笑みが、どうしても禍々しく、歪んだものにしか見えなかった。 如何に感情の篭もったものであろうと、あれは人が人に見せるような表情ではない。 セイバーは警戒を解くこともなく、眼光炯々として射る、とはまさにこのことだ。 そして、その警戒は決して間違いではない。 男のセイバーに対する敵意は薄くとも、双眸から感じる威圧感は人のそれではない。 あの巨躯を持つバーサーカーでさえも、ここまでではなかった。 半神半人であるヘラクレスにも勝るプレッシャーなど、とても人間が出せるものではない。 男がただの人間ではないことは誰もが感覚で感じ取り、理解に至っていた。 セイバーと男で交わされた会話の内容から察するに二人は初見の間柄ではないだろう。 話す内容の意味は殆ど理解できなかったが、ただ、セイバーは男を指して『アーチャー』と呼んでいた。 だとすれば、それが男の正体を知る重要なヒントなのだろうか。 聖杯戦争における『アーチャー』の意味するものはたったひとつしかない。 それに、男が教会にいた人物と同一であるのは間違いない。 聖杯戦争の終局を迎えた今になって現れたのは、何かしらの思惑があってのことだろう。 今はまだ敵意を感じさせないが、俺には到底この男が事態を好転させるとは思えない。 ……そして、あいつが教会の男と同一の存在だと確信を得てから、ずっと妙な引っ掛かりがあった。 その引っ掛かりは得体の知れない悪寒となって、かつてないほどの警鐘を鳴らし続けている。 こんな最悪とも言える状況下の所為だろうか。 本来なら直ぐに気付けてもいい答えへと、どうしても思考が散漫になり、辿り着けそうにもない。 今はまだ、何一つ掴めてはなく、その輪郭もあやふやでおぼろげでしかない。 だが、その不確かな何かが、聖杯戦争をかつて無いほど狂わせようとしていると予感した。 ―――――――――― そんな直中、射命丸文は一人だった。 少女は男とセイバーの作り出す、異様なまでに緊迫した空気に入り込む余地もなく。 悪く言葉を飾れば、蚊帳の外。 ただ、セイバーの後方で、息を荒げ、血を流し、何もできずに俯くばかりだった。 彼女の聖杯戦争はセイバーに切り伏せられた時点で終わっていた――。 地面にうずめるように頭を大きく垂らし、間隔の狭い呼吸を繰り返す。 致命傷となった肩から腹までを大きく切り裂いた傷口からの出血は止まりそうもない。 遠坂のアゾット剣により、腹部を穿ち、背中まで貫いた創傷も再び開いてしまっている。 天狗の象徴とも言える頭襟も戦闘時の衝撃によって弾け飛び。 一本歯の赤い靴も、脱ぎ捨てられて夜に晒されて。 雅やかな背中の翼もバーサーカーにもがれて、残る片翼もかつての力なく。 そんなボロボロで、生きているのも不思議と思える状態だ。 だけど、そんなになってもまだ、文は幻想郷に還ることを拒み続けている。 俯いた顔から投げ掛けられる視線が、俺の真意を測ろうとしている。 瞳だけは彼女の見目と対比するかのように、未だ力を失っていない。 表情にあどけなさはなく、小馬鹿にしたような笑みもなかった。 ただ、強い意志を持った、滾る瞳だけがあった。 並々ならぬ精神力だけが、彼女が事切れるのを支えているように感じてしまう。 もう、彼女に何を話していいのか、俺にはわからなかった。 俺は文を還す決断もできずにこまねいて、ただ成り行きに任せ、事態を傍観するだけ。 当然、俺のやるべきことは判っている。 左手の甲に浮かぶ最後の一画を使い、文を幻想郷に還すことだ。 ……ああ、だけど。 今も令呪を使わずにいると言うのは、俺の腹は決まっているのだろうか。 何が正しいのか解っている。 何度となく考えを巡らせても、令呪を使い、文を幻想郷に還すことが最善だ。 そのたった一つの願いで、文は今の絶望的としかいいようのない窮地から抜け出すことができる。 だというのに、俺は本当にどうしようもないほどの馬鹿で、臆病者だ。 彼女が幻想郷に還らないという意思を知り得てから、俺はずっと、どこかでホッとしていた。 文を何もせずに失うのと同じぐらいに、このまま別れてしまうことを恐れている。 それは確実に間違った選択で、どう考えても理性的とは言えない。 この決断は一生後悔することになると思う。いや、必ず後悔する。 だけどもう、とっくに結論は出ていたのだ。 それを彼女に伝えよう。 『わかった。令呪を使わない』 理性からはみ出た安っぽい感情が産み出す、ちぐはぐで無責任な言葉。 文とこんな形で別れたくなかった。 お互いがお互いに納得ができる形でありたかった。 なんてことはない、 この感情は義憤でもなんでもなく、ただの俺の我が儘だ。 声には出さずとも、俺の気持ちは文に通じただろう。 何せ文は俺の眼の揺らぎだけを、じっと捉えているのだから。 俺の眼は迷いに揺れていない、洞察力に優れた彼女ならばその意思を汲み取れているはず。 文は何の反応も示さなかったが、俺を見ることを止めた。 これで退路は完全に塞がれた、もうどこにも引き返すことはできない。 腹づもりも決まった今、本当は直ぐにでも、駆け出したかった。 俺がやるべきことは決まっている。 それは瀕死の文を連れて、この冬木中央公園から逃げることだ。 俺にできることは、そんなあるかも判らないチャンスを、待ち続けるだけ。 仮に何も考えずに文の元へ行けば、この膠着とも呼べる状態を悪化させるのは必然だろう。 俺は注視の対象ですらないが、目立つ行動をして、それを見過ごしてもらえるほど甘くはない。 そして、その被害を受けるのは間違いなく文だ。 彼女を幻想郷に還さないと決めた以上、そんな迂闊な真似は決してできない。 俺の取る行動は常に最善でないと、その分だけ彼女が死に近づいていくのだ。 今は文を連れて、逃げられるチャンスを待つ。 ……だが、実際この状況下で文を連れて逃げ切れるのか? 男はセイバーにしか興味を持たず、文に対しては歯牙にかける様子もない。 戦力は未知数。 だとしてもとてもじゃないが、油断できるような相手ではない。 そして、この場で最も脅威となるのは、紛れもなくセイバーだろう。 あの男の介入がなければ、今頃、どんな形にしても文はこの場にはいない筈だ。 今は男と同様に文を視界にすら入れていないが、いつでも殺せる状態なのはセイバーなのだ。 その目を盗み、立つこともままならない文を連れて逃げ切る? このだだっ広い公園から? ばからしいぐらい無謀な試み。我がことながら正気の沙汰を疑ってしまう計画だ。 だけど、そんな無謀も狂気も承知の上だ。 俺の正気なんて令呪を使わないと決めた時点でどうかしているのだから――。 ―――――――――― 「セイバー、そいつ、何者なの……?」 遠坂もセイバーと男は既知の間柄であると察したのだろう。 誰もが思う疑問をセイバーに問い質す。 セイバーは僅かに逡巡を見せたが、暫時して問いに答えようと口を開く。 「……10年前の聖杯戦争で、決着の付かなかったサーヴァントです。 彼のクラスはアーチャー。真名は最後までわかりませんでした」 …………。 瞬きを2、3度する程度の一寸の間。 遠坂の間の抜けた表情を見るのはこれが初めてかもしれない。 「10年前のサーヴァントですって!? それよりも、ちょっと待って。 え? もしかして、貴方、前の聖杯戦争にも参加していたの?」 「……はい。ですが、信じて欲しい。 今更言うのは都合がいいかもしれませんが、隠すつもりはありませんでした。 私がかつて経験した聖杯戦争は思い出すのも憚れる陰惨なものだった。 もしかしなくとも、私は無意識のうちに話題に上げるのを避けていたのかもしれません」 セイバーは奥歯を、ギリと軋ませ、秀麗な顔を曇らせる。 ……気のせいかもしれないが、セイバーが一瞬だけ俺を見たような気がした。 「はー、通りで冬木の地理や地形に詳しいと思ったわ。 聖杯の与えた知識なのかなと勝手に思っていたけど、実際に経験していたのね」 遠坂は釈然としない様子も見せるも、納得には至ったようだ。 これで男の言う『10年ぶり』という言葉が、今のセイバーの話で符合する。 男もまたサーヴァントだということが、これではっきりした。 それも10年前に起きた聖杯戦争で、セイバーはこの『アーチャー』と戦ったのだ。 そう、男は文と同じく、アーチャーのクラスのサーヴァントだという。 弓兵と呼ぶが、男の風貌と性格を見るに、とてもじゃないが、弓を射るようには思えない。 あの隠そうともしない仰々しい甲冑で、敵に悟られず矢を放つなんて到底不可能だ。 それを言えば、文も同じようなものだが、彼女は風を放つという手段を持っている。 アーチャーであることと、攻撃手段が弓であることは決して同一ではないのだ。 この男もまた、弓を射るわけではないかもしれない。 「すみません、リン。本当なら私が召喚された時に言うべきことでした。 このつまらない感傷が、貴方の危険を招くことになり得たかもしれないのに」 セイバーはすまなさそうに謝辞を告げるも、 アーチャーに向けたエクスカリバーの切っ先は決してぶれることはなかった。 この短い会話の中、たった一瞬でも、セイバーはアーチャーに対して隙を見せない。 「まぁいいけど。でも後で根掘り葉掘り聞かせてもらうわよ」 「はい。覚悟します」 思い出したくないというセイバーの心情を無視して、聞き出すというのは如何にも遠坂らしい。 そして、遠坂はセイバーから大きく距離を取り、邪魔にならないように身構えた。 ただならぬセイバーの様子を見て、これ以上の会話は何のメリットも生まないと察したのだろう。 アーチャーは今も、セイバーを見据えていた。 男が最後に言葉を発してから、どれだけの時間が経ったのだろうか。 極度の緊張下から、かなりの時間が経過したように感じるが、本当は数分程度なのかもしれない。 その蛇のような視線に対してか、セイバーは苦虫を噛みつぶしたように表情を歪める。 「貴方らしくもない。さっきから黙って何を見ている?」 セイバーの言に男は、僅かに緩んだ口許を堪えるように手を置く。 「ハ、すまんな、セイバー。 いやなに、久方ぶりとは言えど、確認するまでもなかったか。 ……セイバー、相も変わらず、お前は美しい。 喜ぶがいい、この無価値な世界で我の目に適うものなどほんの僅かよ」 零れたのは、あまりに高慢で、見え透いた美辞麗句を連ねた文句。 だが、この男に相手に媚びや、世辞を言うような感性があるとは思えなかった。 ただ、ありのままの真実として、感じるがまま、口に出しているのだろう。 「その相手の意思を顧みない軽口。10年経とうが変わらないようですね、アーチャー」 セイバーは不愉快を露わにし、アーチャーを睨む。 如何に雅語の言葉で重ねようとも、セイバーには届かない。 考えるに、セイバーの本懐は女性である前に、誇りある騎士なのだろう。 彼女は自らの性別を捨て、文字通りに自分の全てを国に捧げた。 騎士であり、王であろうとした彼女に口にしていいことではないのかもしれない。 「相手の意思の考慮? ふはははは! セイバーよ、やはりお前は下らぬ思惟でしか物事を計れぬようだな! 忘れたか? この世の全ての財は我の物であることを。 その我の所有物である雑種共に何を慮る必要があるというのだ!」 アーチャーは込み上げる嘲笑を押さえようともせず、声を上げて笑った。 セイバーを無能であるとそしるような、恐ろしいまでに横柄で不遜な思考。 「そして、セイバーよ。 貴様も我の物に過ぎぬということを努々忘れぬことだな。 よもや忘れたわけではあるまい? 10年前、この場で我の下した決定を」 「……あの時の求婚のことか? まさか、あのような戯言を私が本気で取るとでも思っていたのか?」 男に向けた苛立ちを隠そうともせず、セイバーは言葉を吐き出す。 「そうだ。貴様は我の元へ下るがいい。 この余計な物で埋め尽くされた世界であろうが、我は決して貴様を飽きさせることはないぞ」 求婚という思いがけないアーチャーの言。 セイバーの態度も顧みることもなく、さも当然であるように告げてみせる。 「……求婚ですって? 何なのこの金ピカ? 頭のネジが何本か飛んでいるのかしら」 今まで寡黙に徹していた遠坂も、求婚と言う言葉にあきれ果てたようにぽつりと漏らした。 だが、この男がどこまでも本気であるということは誰もが理解している。 遠坂の軽口とも取れる口調とは裏腹に、緊張によってか表情は、硬いままだった。 「世迷い言を……。やはり貴方とは相容れそうもない。 何故この場にいるかわからないが、あの時の決着、ここで付けさせてもらう!」 セイバーが既に風王結界から解かれたエクスカリバーに魔力を込め直した。 空気も同調するように震えさせる魔力量に、男は口許を喜悦に歪めた。 「は、相も変わらず、じゃじゃ馬のようだな、セイバー。 まぁいい、お前のような女を平伏させるのも、男子たる我の勤めだ。 英雄王である我が、直々に相手をしてやろう。――だが、その前にだな」 ふと、アーチャーの視線が初めてセイバーから離れる。 セイバーの肩越しに向けられた視線の先、そこにいる半生半死の少女。 文の姿が男の赤く染まった瞳に映し出された。そこには今までとは違う、明らかな嫌悪があった。 「セイバー、そのようなサーヴァントですらないまがい物にとどめを刺せ。 そのような輩が我と同じ『アーチャー』を冠していることなど、我に対する侮辱でしかないわ」 セイバーに向けるものとはまったく逆の、汚らわしいものを見る目つきで文を睥睨する。 まずい。 これまで男からはずっと無関心でいたが、ここに来て初めて意識を向けられた。 それも、殺意という最悪な形だ。 先程まで機嫌がよさそうだったのが嘘のように、気紛れで態度を変える。 文は意識を落とさないことに神経を使っているのだろう。 悪意を向けられても反応が乏しく、アーチャーを見上げることもできずにいる。 浅い呼吸を繰り返し、全身を襲う激痛と寒さに耐えるように両腕で自らの体を抱く。 血色の良かった唇は青紫に変色し、寒さと失血の為か僅かに震えていた。 セイバーはアーチャーにつられて回視するが、その表情には興味の色は浮かばなかった。 そこに浮かぶ感情は冷淡と言えるほど薄いものであり、直後に男へと向き直した。 「まさか貴方のような人が、敗戦したサーヴァントに関心を持つこともあるのですね。 それにこの傷だ。この少女はもう起き上がることもままならないでしょう」 セイバーに関心を持たれなかったのが幸いだったかもしれない。 これで男の言葉通りに、間髪入れずに剣を振り下ろしていたら、どうしようもなかっただろう。 そんなセイバーに男はまた、表情を一転させ、ク、と一度だけ含み笑うように喉を鳴らした。 「よいかセイバー。上辺だけではなく、本質を見抜け。 貴様が女だてらに王を名乗るというのなら、それこそ最低限の資質であるぞ。 ソレを指して、よもや少女だと? は、笑わせくれる。 姿形は人に近いが、人とは根幹から異なる別種の化け物よ」 あたかもこの世の道理を説くように、尚も言葉を紡いでいく。 「ソレは本能で人を喰らう魔獣だ。 存在そのものが、人に害を為す厄災となんら変わらぬ。 にも関わらずだ、人の肉と恐怖を喰らわねば、己すら確立できぬ愚か者共よ。 我の支配する時代には幾らでもいたが、今はろくにいないようだな。 だが、結構。淘汰されて当然と言えよう。我の物を我の断りもなく喰らうなど、到底我慢できぬわ」 文がかつて言っていた『妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を退治する』という言葉と合致する。 彼女の住む幻想郷では、その摂理によって、人と妖怪は共依存の関係にあるのだと告げていた。 この世界には、妖怪と呼ばれた存在はもうどこにも居ないのだろう。 そして、彼らは伝奇や伝承の中に忘れ去られてしまった。それが文に取って許せないのだという。 「生きて存在することが、この世に蔓延る穢れと同等よ。 その程度の傷で決着だと? ソレは醜く生き足掻くことに執着しない獣だ。 よもや、何か企んでいるかもしれんぞ。寝首を掻かれたくなければ、今すぐに首を斬り落とせ」 首を斬り落とす……。 今でさえも、立ち上がれないほどに衰弱しているのだ。 異常なまでの再生力を持つ文でさえも、そうなってしまえば生きていられるはずがない。 心拍数が上がり、その音がうるさいぐらいに聞こえた。 文を助け出すチャンスをじっと窺っていたが、事態はここに来て悪くなった。 これ以上何もせずにいるなんて、俺にはもう耐えられそうもない。 足場を確認するように一歩分、文の方に足を踏み入れた。 じゃりと、足場の土を崩す音。 そんな音ですらも、うるさく感じたが、誰も気付いた様子はない。 ぬかるんではいるが、全力で走るのには問題はないようだ。 ……エクスカリバーの向けられた剣先が、少しでも男から逸れたら駆け出そう。 このまま何もしないでいるより、絶対に文を助けられる可能性はあるはずだ。 そんな決意は余所に、セイバーは胡乱とした表情で、再び背後の少女を瞰下する。 やはり、そこに感情らしいものは宿らせない。 「貴方の言うがままに行動をするのは、存外気に喰わないようだ」 セイバーらしくない極めて感情的な物言いだった。 これは文に同情をしたわけではなく、言葉通りに男の言いなりになりたくないのだ。 もし、ここにアーチャーが現れなければ、間違いなくセイバーは文を殺していた。 そこまで、セイバーは男を嫌悪しているのだろうか。 10年前の聖杯戦争で生じた二人の確執を否が応でも想像してしまう。 「それに仮に貴方の言ったことが正しかろうと、貴方に従う謂われはない。 いいえ、違いますね。私に命令を下せるのは、マスターだけだ」 アーチャーは失笑めいた嘆息を吐き出すと、微かに呆様を見せた。 「たわけ。お前の考えはそこら幼童と同じようだな。 いや、我の威光を受け入れられないようでは、童よりも万物の道理を判ってはおらぬようだ。 ただな、我にとってはこのようなことは瑣末に過ぎん。時間を使うのも愚かしい。 ……まあいい、貴様がやらぬと言うのなら、我が手を下してやろう」 不意に男は中空に右手を掲げた。 そこには、今まで男の手に存在していなかった鍵のような形状をした剣が握られていた。 おそらくはそれが男の宝具のようだ。 だが、その歪な形からして、強力な概念武装にはとても思えない。 『ゲート・オブ・バビロン <<王の財宝>>』 アーチャーの紡ぐ言葉と同時に、背後の空間が歪んだ。 男の背後の闇が黄昏時のように深い赤色に染まり、まるで水面のようにゆらゆらと揺れる。 「な……!?」 誰とも知れない驚嘆が上がった。 アーチャーが背負う真紅の空間に鋭利な切っ先が浮かんでいた。 そして、それはひとつだけではなく、剣、刀、槍、鎌と言った無数の武具の群。 数十という、数えるのも愚かしいほどの武具の軍勢が、揺ぐ水面に浮き立つ。 それだけじゃない。 全ての武具に内包されている神秘がサーヴァントの宝具と同等、中にはそれ以上の物までもあった。 ……そんなことはあり得ない。 あり得ないが、あの武具の全てが宝具であるとしか考えられない。 「これは我が終世に蒐集した王の宝よ。 そのような醜悪な化け物に使うなど、どれもこれも惜しい代物ばかりだ。 ……しかしな、この世を乱すも正すも、全て人の業が為すべきこと。 貴様らのような余計に過ぎぬ存在は、早々にこの世から消え失せるがいい」 声に従うように男の背後の宝具の軍勢が、一様に文へ矛先を向けた。 直後、思考よりも速く、無意識に両脚が動く。 死よりも恐れている事態を回避するために、がむしゃらに走る。 工夫や、奇を衒うこともなく、直線の道程で彼女の元へ走る。 10秒もあれば文の手を握ることができる距離だ。 俺の行動に真っ先に気付いたのは意外にもと言うべきか、遠坂だった。 男の剣群を見る驚嘆とは違う、言葉に言い表せない別種の表情を俺に向けていた。 「征け」 そして、宝具の軍勢の一群が奔った。 アーチャーと呼ばれている所以を理解した。 男はああやって武器を矢のように撃ち出し、攻撃を行うのだ。 そして、吐き出される武器の全てが、伝説となり得る宝具という出鱈目さ。 射出されたのは四。 だが、その内のどれであろうと、絶命は免れない威力を秘めている。 投射の角度からして、セイバーの後ろに座り込む文だけを狙ったものだ。 とても今の文には躱せられるものじゃない。 仮に、俺が盾になったところで何の意味も為さないのも明白だった。 それよりも、矢が届くより先に、俺が間に合わない。 射出された宝具よりも速く、彼女の元に辿り着くなんて不可能だった。 ふざけるな! このまま彼女が死に行くのを黙ってみているつもりか! そんなの絶対に許せるわけがない! 思考をしろ、衛宮士郎! 何か、何かあるはずだ……。何か――。 「セイバー! お願い!」 彼女らしくない、大きな声が聞こえた。 セイバーが己のマスターの視線の先を追う。 翠の瞳が、俺を一瞥した。 それは遠坂のような表情ではなく、冷たく見下す、侮蔑だった。 どうしてセイバーにそんな目で見られているか、わからなかった。 だが、遠坂が叫んだ意味を悟り、彼女の視線の意味を理解する。 『何故、こうまでして敵であるマスターを助ける必要があるのか』、と。 瞳に感情を灯すのもほんの一瞬。 遠坂の剣であるセイバーに、疑問のあるなしに関わらず、感情を挟む余地はない。 「ハァァ!!」 己の頭上を通過しようとする紅い刀剣の宝具を、自身の宝具で叩き付けた。 体重の乗せた大上段を持ってしても、剣は勢いを殺せず逸れるだけ。 軌道を外れた剣は、公園の芝生を貫き、土壌の一帯を焼き焦がす。 宝具に付加された力だろう、ここまで色濃い炎はかつて見たことがない。 続く宝具も、魔力でブーストされた腕力によって、次々にねじ伏せていく。 そして、四つ全ての宝具を迎撃した。 セイバーは文との戦闘の疲れを見せず、今の迎撃で息一つ乱していない。 「ほう流石よな、セイバー。その魔力、その剣技、衰えてはいないようだ。 我が見込んだ女だけはある。まさに獅子と呼ぶに相応しい」 文を狙ったはずの剣を邪魔されても、男はまるで意に介す様子はなかった。 それどこか、嬉しそうに顔を歪めて、セイバーに賞賛を贈る。 しかし、男の放った宝具はたった四つでしかない。 未だこちらに剣先を向け、背後で待機する宝具は両手両足の指を数ても届かない。 もしあれが一斉に射出されれば、ここにいる俺たちは跡形も残らないだろう。 けれど、今はそんな絶望的な状況分析をしている場合じゃない。 ようやく、少女の小さな手を握る。 それは冷たく、体温というものを感じさせなかった。 「……文! 大丈夫か!?」 大丈夫なはずはない。だけど、訊かずにはいられなかった。 返事はない。 それでも、少女の瞳は生気を失ってはいない。 セイバーに斬られる直前の、諦めの色はもうどこにも宿らせてはいない。 言いたいことはいろいろあったが、このままここにいるのは危険だ。 文の体を背負い、公園の外へ走り出した。 そして意外にも、首に回る少女の腕は思った以上に、力強いものだった。 ぎゅっと、肩に掛かった手を思わず握り返したくなる。 ……以前も彼女を背負ったことがあったが、やはり重さは感じさせない。 そうとも。 千年以上生きようとも、見た目は二次成長も完全には終えていない子供なのだ。 遠坂はこちらをずっと見ている。 些か呆れた表情だったが、それは自身に対しての憤りとも感じてしまう。 「はぁ、私もなにやってんだか。どう考えても、こんなのは心の税金よね。 ……ま、これでこれまでの借金を返すどころか、 衛宮君に大きな貸しを作れたことだし、よしとしますか」 そんな意地の悪い声色を聞きながら、赤い遠坂の脇を通り過ぎた。 『ありがとう』と心の中だけで感謝の言葉を告げた。 それは決して、遠坂には届かない言葉だ。だけど、今はそれでいい。 次に感謝を伝えるのは、何もかも全てが終わってからだ。 何をしても、一生掛かっても返せないような貸しを遠坂に作ってしまった。 ―――――――――― 少女の重みを背中に感じ、ただ走った。 広大無辺に開けたこの公園をこうも恨めしいと思ったことはない。 身を隠す場所すらもなく、ただ距離を取るだけしかできない。 当然、速く走れば走るほど人の体は大きく揺れる。 セイバーから受けた傷に響くだろうが、ここで速度を落とすわけにはいかなかった。 ぬかるむ芝生に足を取られそうになるも、何があろうと転倒はできない。 今、このペースを乱せば確実に命を落とす。 どれだけ距離を離そうと、外気の冷たさに匹敵する視線から逃げられないでいる。 男の魔射の射程からは逃れられてはいない。 「笑わせてくれる。我を前にして滑稽なほど無駄な足掻きだ、雑種。 我が死と定めた以上、貴様らの死は絶対だ。潔く去ね」 男との距離は100メートル近く離れている。 なのにも関わらず、その声は眼前で告げられたように鼓膜を響かせていた。 向けられた殺意が、これまで以上に冷たく背中を刺した。 それは恐らく、俺の背中に宝具の一群を向けられたのだろう。 どれだけ速く走ろうとも、矢の勢いで放たれる宝具を躱せはしない。 「こんなところで終わらせるものか!」 死ぬものか、死なせてなるものかと、ただ足掻く。 しかし、そう自らを鼓舞する言葉は意味を得ることなく、虚しく殺意に飲まれた。 周囲に身を守るような遮蔽物はない。 いや、そもそも男の剣群を前に遮蔽物など何の意味もないものだ。 遮蔽物を容易く貫き、俺たちを殺し尽くすだろう。 「……私を前にして、他に剣を向けるとは随分と余裕のようだな、アーチャー」 セイバーの声は苛立ちを感じさせるものだった。 かつての敵を前にして、相手にされないというのは侮辱と感じたのか。 「何を言い出すのかと思えば、そのような馬鹿なことか。 王とは如何なる時も余裕であるものだ。 国を統べる者は絶対の超越者でなければならぬ。 でなければ、家臣も、民も支配できぬわ。――ク、ははは、そうか! お前はその余裕の無さから、自らの国に滅ぼされたのだったな!!」 アーチャーの狂ったような哄笑が、公園を支配した。 「アーチャー!! 貴様ーッ!!」 大気を震わせるセイバーの叫怒。 かつてないセイバーの憤激を受けても、男の蔑む解頤は止まない。 彼女の怒りなど、何の意にも介さないかのように嘲笑う。 そして、直後に金属と金属が激しく触れ合う剣戟が響いた。 振り向かなくても、何が起きたのかは瞭然だった。 セイバーが、怒号と共に男に向かって斬り掛かったのだ。 戦闘が始まった。 しかし、俺にはその戦いに気を取られている余裕はない。 今のこの一瞬だけが、公園から逃げ果せる唯一絶対のチャンスに違いないのだから。 …………。 セイバーが奏でる剣戟の音を背に公園を駆け抜ける。 これは紛うことなく、敗走だ。 正義の味方を目指すなら、決して逃げ出してはいけない戦いだった。 当然、俺がいたところで、ただ殺されてしまうだけだろう。 だけど、できるできないの問題じゃない、やるかやらないかの問題なのだ。 じいさんから託された夢を追うならば、ただ一度の敗走も許してはいけない。 でも、俺の背中には文がいた。 雨と、自らの血で全身を余すところなく濡らしていた。 熱を奪われないように体を震わせ、寒さに耐えている。 だが、生き足掻こうとするような腕の力は少しも失われてはいない。 だったら、俺は何もかも捨てて、文を助けることを優先しなければならない。 これ以上、目の前で誰かに死なれるのはもうたくさんだった。 彼女に死なれることが、何よりも、他の何よりも、怖くて仕方がなかった。 それに、この敗走も決して間違ったものではない。 かつての音は遠いものとなり、やがて何も聞こえなくなった――。
後書き 最長なのに文の台詞がないです。 47話も一言ぐらいしか喋ってなかったような。 2009.5.17