「文々。異聞録」 第49話





 寒夜の極限まで冷え切った空気を肺に吸い込む。

  疲労の溜まった体はそれ以上の酸素を求めるが、目一杯吸う必要はない。
  人の体は無意識に、吐いた分だけ吸うようにできており、大息は余計な疲れを招くだけだ。

 新都の夜は、人気もなく不気味なほどの静けさを保っていた。
  今はもう止んでいるが、冬の凍てつくような風雨に、誰しも身を晒したくはないのだろう。
  その雨に濡らされて、夜と同じぐらいまでに、黒ずんだアスファルトの上を走る。

 背負われた文は、気息の乱れは公園の時よりも収まってはいるものの、未だ寒さに震えている。
  肩に置かれた腕は、外気と変わらないほど冷たくなっており、予断は許さない状態だ。
  だけど、その手は、決して脱力することなく、放すまいという、そんな力強さがあった。

 それは文が、今もまだ望みを捨てていない証拠だろうか。

  戦線から逃げ出した今、これからのことなんて、何一つ決まってはいない。
 だが、文が諦めずにいる以上、俺はこの窮地からの脱出に全力を尽くす。

  新都と、深山の境界線である冬木大橋まであと少し――。

 …………。

  ここまで来れば、もう逃げ切れたと考えて、大丈夫なのかもしれない。
  いや、逃げ切るというより、逃がしてもらったというのが正確だろうか。
 そもそもが、人一人背負った俺が、規格外の身体能力を持つサーヴァントを相手に逃げ切れるわけがない。

  おそらくは、この瞬間もアーチャーと呼ばれた男は、セイバーとの戦闘中だ。

  アーチャーの攻撃手段は、常軌を逸したものだった。
  弓を用いることなく、無数の宝具を惜しむことなく虚空に展開して、攻撃対象に撃ち放つ。
 その宝具の一つ一つが、ただの一撃でサーヴァントを屠るだけの威力を秘めている。

 ……これまで、サーヴァントの実力に何度も驚かされたが、アーチャーとは比肩できない。
  それだけ、どのサーヴァントよりも、存在からしての規模が抜きん出ている。

  だとしても、セイバーがそのアーチャーを相手にしても、簡単に負けるとは思えない。
 ライダーとバーサーカーという、二体のサーヴァントを打倒した文を、セイバーは余力を残し退けたのだ。
 文との戦闘による疲弊はあるだろうが、セイバーは未だ宝具であるエクスカリバーを残している。

  アーチャーの誇る剣群でさえも、エクスカリバーと同等のものはそうはない。
  そして、聖剣の担い手のみが開放することができる、猛然なまでの光の奔流に剣群は飲まれるだろう。

  ……そこには希望的観測といった願望も、少なからず含まれているかもしれない。
  手前勝手に染まった罪悪感だろうが、俺たちを助けてくれた彼女の負けを考えたくはなかった。


 ――そう、遠坂は、俺たちを助けてくれた。

  いや、うぬぼれで無ければ、遠坂は俺だけを助けてくれたのだろう。

 あの時、アーチャーが現れなければ、セイバーは文を殺していた。
  これは確実だ。
  あんな状況下でなければ、遠坂は文を見逃すようなことは決してなかった。

 だけど遠坂は、俺だけではなく、サーヴァントである文すらも、セイバーに命じて、魔射から守ってくれた。
 本来殺す予定だった相手を、わざわざ助けてくれた。……それはどうしてだろうかと、今に考える。

 遠坂は俺を殺す気はなかった、と言っていた。

  それに文を倒した後に、遺恨を作らぬよう、聖杯戦争の記憶を俺から奪うとも。
 それは俺にしてみたら、例えようもない恐怖でしかないが、遠坂にしてみれば最善だったのだろう。

 もし、記憶操作もなく、アーチャーに文を殺されていたら、俺はどうにかなっていたかもしれない。
  恐らくは、無駄だとわかっていても、逆上して男に立ち向かっていた。

  そして、為す術もなく殺されていた。

 ……もしかしたら、遠坂はそれすらも見越して、文も助けてくれたのだろうか。
  そうだとすると、遠坂は結果として、こんな俺の心までも救ってくれたことになる。

 俺にとって遠坂は憧れの対象だが、遠坂にしたら、俺なんて同じ学園の同級生の一人にしか過ぎない。
  そんな俺が死んだところで、彼女は何一つ困りはしない。

 遠坂凛という少女は、口で言うほど非情な魔術師に、徹し切れてはいない。
  だけど、彼女はその甘さにつけ込まれてもものともしない、確かな才能と、無比なる実力がある。
 あの聖杯戦争を勝ち抜けるのは、おそらくは遠坂のような強かな人物なんだろう。


  ……こうやって、逃げ出した俺が言えた義理はない。
  願うことさえも、極めて無責任で、独善的で、利己的なものでしかない。

  そうだとしても、俺は遠坂たちに聖杯戦争を勝って欲しいと、そう願った。


 ――――――――――


  冬木大橋は、町と町を繋ぐ橋だけあって、こんな時間帯でも車の行き来はそれなりにある。

  ただ、車道と歩道は別の段に設けられており、車から俺たちが目に入る心配はまずない。
 更に魔力で水増しした視力で歩道を対岸まで見通し、歩行者を確認する。

  裸足で、血にまみれた少女を背負っているのだ、万が一にも目撃されるわけにはいかない。

  確認が終わり、歩道に踏み入れたところで、徐々にペースを落とし、走るのを止めた。
  体力的にはまだ可能だが、これ以上走れば、文の体力を余計に消耗させるだけだ。

  本心としては、出来る限り早く家に戻り、文の傷の手当てをしたい。
 耳元から聞こえる少女の肩息を聞いていると、気持ちはどうしても焦ってしまう。

  だが、それは要らぬ心配だろう。

  バーサーカー戦の後、彼女の傷の手当をした時に気付いたことがある。
  彼女は人間相手の手当をしたところで、その殆どが無意味なものでしかない。
  例え、早く家に着いたとして、俺には血と汗に汚れた体を拭き、床の用意しかできることはない。

 妖怪である彼女にとって、耐魔効果も付加されていない傷であれば、時間経過で瞬く間に完治してみせる。
  文字通り、目に見えてわかるレベルでだ。
  見た目に反して彼女は、人間と本質から別種の生き物であるということを、計らずとも理解してしまう。
 怪我の具合によって多少の時間の差はあるが、殆どの傷は手当ての必要はない。

  逆に深刻なのは、セイバーや、バーサーカーといった英霊と呼ばれる存在によって受けた傷。
  伝承や、伝奇により、妖怪を討ち滅ぼす存在とされた英雄からの攻撃は、彼女にとって猛毒になる。
 英雄が人々から、そうあって欲しいと願われている限り、酷く治りにくい傷となってしまう。
  おそらくは只の人間と同程度ぐらいの治癒力でしかないだろう。
  その傷も当然、人間相手にする治療をしたところで、何の気休めにもならない。

 そして、勝負の決着を付けた、風王結界を解かれたエクスカリバーによる、袈裟斬りの一撃。
  つまるところ、それは彼女という妖怪を殺すための一撃だ。
  仮にその刃傷が命を奪うまでのものでないとしても、聖杯戦争の期間で治癒は絶望的でしかない。

 だったら、もう文は戦うことすら――。


 「士郎さん」

 背後からの突然の呼び声に、外界へと意識を呼び起こされる。

 「文、起きたのか?」

 俺のすぐ耳元で、聞こえる少女の声。
 文は肩に顎をうずめているため、囁きほどの声でも、はっきりと聞き取れる。

  体勢が体勢なので、顔を見るのは難しいが、それでも彼女の声を聞いて、心から安堵した。
  公園では話すことも叶わなかったが、この短時間でこの程度は回復したのだ。

 「いえ、ずっと起きてました」

 「そうか」

 公園からここまでの間、規則的な気息を繰り返すだけだったので、寝ていたのだと思っていた。
 発声は以前と比べると、酷く小さいものだったが、声色に苦痛は感じさせない。

 「怪我は、大丈夫か?」

 公園で訊いたことを、再度繰り返す。

  文にしてみたら、随分と滑稽で馬鹿らしい問い掛けだろう。
  こんな怪我で大丈夫な筈がないし、第一に俺が聞いたところで、してやれることは何もない。

  だとしても、俺が彼女に訊けることなんて、今はこれぐらいしかない。

 「ちょっとキツいですね。泣けてくるほど、体に力が入りません。
   いやはや、こんなに痛い思いをしたのも、一体どれぐらいぶりでしょうか。
  ……立っていられないほどのダメージなんて、もう何百年と忘れていた気がします。
  バーサーカーに翼をもがれた時もそうでしたが、ここに来てから、痛い思いをしてばっかりですよ」

 自嘲気味に乾いた笑みを溢す。
  饒舌とも言える、澱みのない明るい口調だったが、聞いているだけで胸が詰まってしまう。

 「あれだけの啖呵を切ったのに、貴方には随分と格好悪いところを見せてしまいました。
   今まで何かにつけて格好つけてた分、ちょっとばかし、情けなかったりもします」

 ……どう返せばいいのだろうか。
  脳裏は些か混沌めいたもので、気の利いた言葉は何も思い浮べることはできなかった。
  そもそも、どんな言葉を連ねようとも、彼女には何の慰めにもなりはしない。
  尤も、俺のような人間が何を言おうとも、その精神を左右されはしないだろう。

  それ以前に俺は彼女に対して、何か言える立場ではないのだから。

 …………。

  束の間の沈黙。
  300メートルほどの冬木大橋も、まだ中程までしか進んでいない。

 「……実を言うと。
   最後に私を斬り伏せたセイバーの剣、躱そうと思えば、躱せました」

 先刻とは違い、ぽつりとした調子で文が呟く。

 ……あの瞬間、言われて見れば、確かに違和感はあった。
  文は回避をしようともせずに、茫洋とした様子で、セイバーの剣を受け入れていた。

 まあ、どちらにしてもじり貧で負けていたでしょうが、と恥ずかしむように彼女は補足する。

 「私はあの時、死んでいいと思った。
   死の恐怖をも軽く塗り潰す、酩酊にも似た恍惚感が、あの時の私を満たしました。
  『死ぬ覚悟』はできていたんです。
  私が千年にも渡って生きていたのは、彼女のような存在に滅ぼされるためじゃないのかと。
   このまま朽ちていくだけならば、死力を尽くし、人によって討たれるのも悪くない、そう思えました」

 少女の体は、失血と雨に打たれた所為で、冷え切っていた。
  だが、セイバーによって作られた刃傷は、尋常ではない熱を持ち始めていた。 
  背中越しに、彼女の血がじんわりと俺のトレーナーに滲んでいくのがわかる。

 その小さな体の血を、全て流してしまうじゃないのかと、そう思った時。
  肩に掛かっていた少女の手が、万力のように締め付ける。その痛みに、思わず歩みを止めた。

  「でも、男が現れた瞬間、私は忘れられた。私の全てが、彼女の意識の外へと抜け落ちた。
  ……あんなたった一瞬で、私の存在は塵芥にも!
  それどころか、事もあろうに私を救うだと! どこまで舐めれば気が済む!」

 少女の声色が徐々に上がっていく。

  それに、生命に瀕しているとは思えないほどの握力だ。
 痣を作るどころか、骨を砕かんばかりの激痛が走る。
  ミシミシと軋む鎖骨の音が、骨を伝導し、俺の内耳を震わせた。

 だが、その軋音以上の叫喚が、俺の鼓膜と、脳と、心臓を震わせる。

 「……許せるか。絶対に許してなるものか!
   私を、天狗を、ああも埒外に見下すだと……! 巫山戯るな!!
   あの餓鬼が、生きたまま腑分けにしてやる!
  豚のように泣き叫ぼうとも、五臓六腑を喰らい尽くしてくれる!!」

 文飾に彩られた言葉ではなく、ただ、感情のままに吐き出された叫喚。

 遺伝子に刻まれた人としての本能が、彼女の怒声に脳髄を痺れさせ、足を竦ませる。
 彼女に恐怖心を覚えるのは、これで何度目になるだろうか。

 もし何も知らなければ、恐怖の坩堝のなか、俺は発狂していたかもしれない。
  だが、俺はそんな恐れの感情よりも、やるせない憐憫を覚えてしまった。

 ……文が吐き出したもの、それはきっと、憤怒ではなく、慟哭。
 少女は、怒りをぶつけているのではない、それすら凌駕する傷嘆を喚き散らしている。

 自らの命を差し出しても良いと思えたセイバーに、無視をされた。
  無視とは、存在の価値を認めないということ。
  更には、敵として認めたはずの彼女に、自分の命すらも救われてしまった。

  それが、文にとって、耐え難いほど悔しかったのだ。

  かつて、人々に忘れ去られて、世界から消えてしまった妖怪。
 その恐れられる故の儚さに、俺はほんの少しだが、触れられたのかもしれない。

 …………。

 「文……」

 彼女の名前を呼んだ。

  そんな意味を持たない呼び声に反応してか、肩を握る力が緩くなる。
  麻痺したかのような痛みが両肩に残ったが、そんなものは何でも無い。

  ぽとり、と暖かな雫が首筋近くを打った――。

 雫の正体はすぐに気付けた。だけど。

 「……泣いてなんかいませんよ。雨じゃないですか?」

 先までの風雨は止んで、もう随分と久しい。
 だけど、文は泣いてないと言った。
 だったら、彼女は泣いてなんかいないのだろう。

 「今だけは、こうさせてください。今日は酷く、疲れました。
   ……それと、令呪を使わないでくれて、ありがとう」

 そう言うと、文は自らの顔を隠すように、肩先に顔をうずめた。
  仄かに湿り気を含んだ、緑の黒髪が頬に触れ、くすぐったさを覚える。

  ……文は眠ったわけではないだろう。

 夜がかつての静寂を取り戻す。

 耳に入るのは、水かさの増した未遠川の川音、アスファルトを走る自動車の走行音。
  それに混じり、小夜烏のなき声が、微かに聞こえた。


 聖杯戦争の夜は、未だ終わりそうもない。







 後書き

 49話にもなった今更だけど、後書きってそんなに書くことない。
  言い訳なら、沢山ありますけど!

 2009.6.5


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