「文々。異聞録」 第52話






 耳鳴りが止まらない。
 内耳から脳に至る聴覚経路が神経に触れる不快な音を立てている。

  遠坂凛を取り巻く音――。
  雨に濡れたアスファルトを叩く足音、不規則な呼吸、波打つ心臓の鼓動。
  そして、頭の先から爪先まで駆け巡るような大きな耳鳴り。
  極度の緊張下から抜け出した今も、そんな騒音が彼女を苦しめていた。

  夜明けまで、あと数時間と迫った半夜。
 遠坂凛は冬木中央公園から深山の遠坂邸まで、ただひたすらに走っていた。

  もう公園を抜けてからかなりの時間が経っている。
 背後からギルガメッシュが追ってくるような気配は一切ない。

  逃げ切れたと考えても良いだろうか。
  いや、それは違うなと、遠坂凛は考える。

 (そもそも、あの金ピカは私なんて眼中にもなかった)

  では、ギルガメッシュにとって、遠坂凛はどういった存在であったか。
  遠坂凛は才覚に恵まれた魔術師である。それは紛れもない事実だ。

 あの時、ギルガメッシュにとって、遠坂凛はセイバーを現界させる為に必要な存在であった。
  だとすれば、セイバーが消失した今、彼女を生かす価値はないと言える。
  だが、それは裏を返せば、殺す価値にも値しないということ。

  そして今、聖杯戦争で現存するサーヴァントは、ギルガメッシュとアーチャーの二騎。
 射命丸文と名乗るアーチャーは既に満身創痍の状態である。
  マスターも健在であるし、サーヴァントとの再契約は望めないだろう。
  ギルガメッシュからすれば、遠坂凛は優秀な魔術師程度の認識でしかない。

 ――逃げ切ったのではない。
  元より遠坂凛は、ギルガメッシュに相手にされていないのだ。

  だけど、少女は走るのを止められなかった。

  ギルガメッシュに対する恐怖からではない。
  どろどろした負の感情が、自分のなかで燻っているのを感じている。
 ギルガメッシュに相手にされなかった悔しさ。だが、そのお陰でこうして生き長らえている。
 そのことにどこか心の底でホッとしている部分があったことに愕然とする。

 そう気づいた途端、自らの存在が卑しく思えた。
  『常に優雅であれ』という遠坂家の家訓に酷く背いてしまっている。

 (そんなこと、セイバーを置き去りに逃げ出した時点でわかっていたことよね……)

  命を賭して、ギルガメッシュに挑んだセイバーを見捨てた。
 ここまでの道すがら、何度となく思った。
  無謀を承知で、英雄王に挑むことはできただろうか、と――。

  出力は落ちたが、ギルガメッシュはセイバーのエクスカリバーを近距離で受けていた。
 それによるダメージは計り知れないだろう。
 手持ちの宝石を全て使えば、一矢報いることができたかもしれない。

  だが、遠坂凛はそれをしなかった。
  如何なる状況下であっても、彼女は勝てない戦いをする性分ではない。
 仮に一矢報いたところでなんだというのだ。敵は倒さなければ、何の意味もない。
  冬木を管理するセカンドオーナーである以上、そんな時でこそ冷静でいなければならない。

  ギルガメッシュの目的は不明確。
  セイバーに執心していたが、そのセイバーも既にギルガメッシュの手によって葬られている。
  真名と、10年前の聖杯戦争にも参加したこと以外は何一つわかっていない。
 ただ、これまで相対したどのサーヴァントよりも規格外の力を持っているのはわかった。

 本来の定数である六体のサーヴァントは既に倒されている。
  聖杯の中身は既に満ちているだろうが、今のところ聖杯が現れる気配はない。
 それが意味することはただ一つである。
  聖杯戦争は、サーヴァントが残り一騎になるまで道が開くことはない。

 もしギルガメッシュが聖杯を手に入れたらまともな使い方はされないだろう。
 傲岸不遜を絵に書いたような男なのだ。
  今回の聖杯戦争を抜きにしても、このまま野放しにしていい存在ではない。

  そして、マスターの存在も不明。
  勿論、受肉したサーヴァントである以上、マスターの存在は不要である。
  既に死んでいるかもしれないし、そうでなくとも冬木にいない可能性も十分にある。
 ただそれは『かもしれない』という仮定。結局何一つわかってはいない。

  であれば、相応の事態に備えるしかない。
  聖杯戦争の原則から外れた八騎目のサーヴァントが現れたのだ。
  これから先、何が起こっても何ら不思議ではない。

 (あんな奴が出てきた以上、やらなきゃならないことは沢山ある……!)

  でも、それはセイバーを捨て駒にするほどの価値はあったのだろうか。

  遠坂凛の選んだ道は、この地の管理者として、魔術師として、間違った判断ではない。
  だが、それは人間らしさとは無縁ものだ。
 勿論、遠坂凛はそんな『人間らしさ』よりも『魔術師』としての生き方を選んだつもりでいた。

 魔術師として生きる以上、そんな人並みの安っぽい感傷なんて不要なもの。
  そう思っていた。だけど。
  
 責め立てるような耳鳴りは未だに止まずにいる。
  途端、鼻の奥につんとした痛みが走った。
  その痛みに涙腺がかつてないほど緩みそうになった。
  
  (ふふ、これを感傷と言わずなんと言うのかしらね)

  だとしても、泣くわけにいかない。
  泣けば泣くだけ思考がぶれる。それはただの逃避行為でしかない。
  泣くことによって脳内で発生するエンドルフィンが、一時的に気持ちを静めるだけ。
  それは有りもしない快楽に逃げているに過ぎないのだから。

 感傷的になってはいけない。
  そもそも、そんな資格が有りはしない。

  セイバーがギルガメッシュに殺された瞬間、魔術師としての顔が鎌首をもたげた。
  他者を顧みない利己的で冷徹な性質が、遠坂凛をこうして生き長らえさせているのだから。

  今になって、涙を流すという甘えを許せはしない。
  遠坂凛はセイバーを見捨て逃げ出したのは覆らない事実。
  泣いてなんかはいけない、絶対に。


 …………。


  遠坂凛が洋建築の自宅に着いた頃、吐き出す息は白さを増していた。

  ぜいぜいと肩で喘ぐように息を繰り返し、酸欠で今にも気を失いそうだった。
 深山町の自宅まで一歩も休むことなく、自虐的に走り通した結果だろう。

  呼吸を整えて、玄関の扉を魔術で解錠する。
  そのまま玄関をくぐろうとしたら、段差につまずきそうになった。
  こんなことで転んでしまったら、あまりの情けなさに笑い話にもならない。

  傘もささずに冷たい雨に濡れて、二度もサーヴァントの戦いに身を晒していたのだ。
  遠坂凛は自分が思っていた以上に身体は疲れ切っているのだろう。

 「シャワーを浴びたいわね……」

 赤い上着とスカートはずっしりと重さを感じるほど雨を吸っていた。
 熱いと感じるほどのシャワーを浴びれば、このまとわりつく不快感から解放されるだろうか。

  そう考えるも、そんな時間はないことはわかっていた。
  自覚できるほど心身共に疲れているが、今はまだ休む時じゃない。

  遠坂凛は自分がこれから何をすべきか心に決めていた。
 もしかしなくても、これは間違いかもしれない。だけどほかに方法が思いつかなかった。

 自宅にある地下室へと足を運ぶ。
  石壁と石畳で覆われた如何にもといった雰囲気を持っている。
  地下室の奥にサーヴァントを召喚するのに使った召喚陣が変わらない姿のままある。

  溶解した宝石で描かれた遠坂家に伝わる召喚陣。
  その傍らに、一振りの短剣があった。

  雪のように白く、両手に持つには些か短い柄が特徴的な短剣だった。
  積み重ねた時代を感じさせる様相ではあったが、錆は一粒も浮いてはいない。

 顔に傷嘆を浮かばせ、遠坂凛は躊躇いながら短剣を手に取る。
  これが遠坂凛に最後に残されたエースのカード。

  ほかのカードは残らず使い切った。
  だが、この最後のカードを切る資格を遠坂凛は持っていない。

 聖杯戦争のマスターは、サーヴァントを失おうが身体から令呪は消失しない。
  未だ一画の令呪が彼女の右腕に刻まれている。
 こうして遠坂凛が生きている以上、聖杯戦争の参加資格は残っていることになる。

  だけど、少女の細腕には、この短剣は余りにも重すぎた。

  剣を携えた右手が震えて、落としそうになる。
  震える手を抑えようと空いた腕で自らの身体を抱く。だけど、震えは止まらなかった。

  その手にはもう、キングのカードは存在しない。












 後書き

 前回の後書きは嘘でした。

 2010.1.11


next back