「文々。異聞録」 第53話






 …………決着は付いたのだろうか。

  文を担いでギルガメッシュから逃げ延びてから、2時間が経過しようとしている。
 早朝と呼んで差し支えのない時間だが、温暖な冬木でも冬の夜は長く、未だ世界は夜陰にある。

 居間に広がる寂莫。
  その莫々した雰囲気に耐えられず、意味もなく居住まいを正した。
 畳と衣服の擦れる粗雑な音が、夜の静寂を汚す。
 文の傷の手当てを済ませてから一刻以上、居間で何もせずにじっとしている。

  セイバーから受けた文の傷は酷い物だった。
  聖剣による肩から腹に掛けての袈裟斬りはあまりにも深く、未だ表面的にも塞がっていない。
 並外れた治癒能力を持つ文だとしても、あの一撃が深刻だったことを物語っている。

  俺には彼女が快気に向かっているのか、衰弱しているのかも判断が付かなかった。
  もしかしたら、もう二度と起き上がることはないんじゃ――、と悪い方向に考えてしまう。
  文の側に付いてやりたかったが、にべもなく断られてしまった。
  何度か食い下がるも、文はかたくなに許さない。その堂々巡りは、結局俺が折れることになった。

  俺も万事に備えて体力の回復に努めたいが、今は眠っていられる状況ではない。
  それ以前にいろんな感情がごっちゃになり、とても眠れそうにもなかった。

  もしも、遠坂たちがギルガメッシュに負けてしまえば、次の標的は間違いなく俺たちになる。
  それがわかっていながらも、自宅に逃げ込んだのは愚かしい行為と言えるだろう。
  迎撃の態勢が整っているのならともかく、今の状態では殺しに来てくれと言っているようなものだ。

  切嗣から受け継いだ衛宮邸は、魔術師の居城と呼べる代物ではない。
  通常の魔術師は、自らのテリトリーには侵入者に対してのトラップが備えられている。
  だが、衛宮邸には警報を鳴らすだけの結界だけで、サーヴァントを相手にするにはあまりにも心許ない。

  だけど、俺には傷の手当てができて、安静に休ませられる場所をほかに知らなかった。
  血まみれの文を抱えてホテルに駆け込むにはリスキーであり、無関係の人々を巻き込む可能性がある。
 藤ねえや桜といった知り合いの家も同様であり、結局逃げる場所はここしかないのだ。

 「クソッ!!」

 自らの不甲斐なさに、テーブルを叩いてしまう。
  こんなことで得られるのは、じんわりと広がる手の痛みだけだ。

 状況は限りなく追い詰められている。
  遠坂たちの勝利を信じたいが、相手はあの出鱈目な宝具を持つサーヴァントなのだ。
  それに連戦であるセイバーは万全ではなく、勝ちを望むのは希望的観測かもしれない。
 本当は今すぐにでもあの場に戻りたかったが、文を置いていくわけにはいかない。

 俺にできることは文の回復を信じ、無事に夜が明けるのを待つだけ――。


 ドンドン、と乱暴に玄関の戸を叩く音が家中に響いた。
 その音に背筋に緊張が走るが、屋敷に張られている結界は反応を示していない。

 少なくとも今玄関を叩いている人物は敵意を持っていないことになる。
 こんな時間帯に訪ねてくる人物なんて限られているが、幾ら藤ねえでもそう滅多にないことだ。
 聖杯戦争のただ中にそんな偶然はあり得ないだろう。……だとすれば一体誰が?

  ごちゃごちゃと考えを巡らせていると、さっきよりも強く戸が叩かれた。
  これ以上強く叩かれると戸のガラスが割れてしまうのではないだろうか。

  「……いや、そんなことはどうでもいい」
 
  頭がどうしようもなく混乱しているのか、そんな余計なことまで考えてしまう。


 「――衛宮くん、いるなら今すぐに出てきなさい」

 懐かしい少女の声だった。
  いや、それはついさっきまで聞いていた声だ。
  だけど、もう何ヶ月も会っていないように懐かしく聞こえる。

 遠坂が生きていた。
  今日までの聖杯戦争で最大とも言える戦場から生き延びたのだ。
  言いようもない歓喜が全身に駆け巡った。無造作に立ち上がり、玄関に続く暗い廊下を走る。

  遠坂たちとの確執は解消されたわけではないが、今は生きていてくれたことを喜ぼう。
  それに彼女たちは、俺と文の命の恩人であることは覆すことのできない事実。
  だとすれば、諸手を挙げて遠坂たちの生還を祝福しなければならない。

 廊下の電気を点けるのをわすれたが、そんなのは後回しだ。
 玄関の鍵を開け、急いで戸を引く。

 そこには確かに遠坂はいた。

 「今晩は、衛宮君。こんな時間に悪いわね」

  微かに息を切らせていることを除けば、いつもの彼女であろう。
  でも何かが違う。眼前の遠坂凛にどこか言葉では言い表せない違和感があった。

  それは何なのかは俺にはわからない。

  ただ一つわかるのは、遠坂が一人であるということ。
  彼女のサーヴァントであるセイバーの姿がどこにも見えない。

 「アーチャーは生きてる?」

 アーチャー……。
  何度となく聞いても違和感のある呼び方に、一瞬誰のことかわからなかった。
  だが、それは言うまでもなく文のことだ。

  「ああ、今は安静にしているから大丈夫だ。……それよりも、セイバーはどうしたんだ?」

 「死んだわ」

 答えを用意していたかのように、間髪入れず遠坂が答えた。

 「死んだ。殺されたわ。ギルガメッシュに」

 聞きたくなかった言葉が遠坂の口から、あっさりと言い放たれた。
 遠坂の表情は寸毫にも変わらない。
  自分と同じ顔をした仮面を被っているように微動だにしない。

 セイバーが死んだ――?

  死んだ、殺された。
  遠坂の言葉を何度となく反芻しても、セイバーの死としか意味を持たなかった。
 感情を交えず事務的に告げられたセイバーの死。
 目の前が急激に暗くなり、眼前に浮かぶ少女の輪郭がぼやけていく。

  俺は心のどこかでセイバーは死とは無縁の存在だと思っていた。
 少女から感じる神聖さは一つの信仰と呼べるものであった。
  ――信じられない。だけど、俺には遠坂が嘘をついているようにも見えなかった。


 そして、セイバーに対してのぞんざいな遠坂の物言いに、頭に血が昇りそうになる。
  セイバーに死なれて、どうしてそんな無表情でいられる?
  遠坂の為に戦って死んだセイバーに一切の感情を持ち得ないとでも言うのか。

  さっきまで曖昧だった視界がはっきりと形を取り戻した。
  口の中で血の味が広がった。いつの間にか、噛み締めていた奥歯から出血している。

  ……だが、冷静に考えろ、衛宮士郎。

  俺はどうあっても部外者であり、彼女たちの間柄を糾弾できる立場ではない。
  そんな俺が頭に血を昇らせて、一体遠坂に何を言うつもりだというんだ。

  得も言われぬ気まずさに、俺は視線を下方に逸らしてしまう。

  そこでふと、遠坂の拳が震えるほど堅く握られているのに気づいた。
  その反面、表情は先ほどと同様に何の変化もない。
  しかし、遠坂の右手は手のひらに爪が食い込むほど、堅く握られて震えていた。

  ……彼女は、堪えきれないほどの悲しみと悔しさを無理矢理に塗り潰していた。
  遠坂もセイバーを失って平気でいられたわけではない。
 表情に出さないだけで、気丈な振りをして俺の前へと立っている。

  俺にそれが何を意味するのかはわからないが、それが彼女の出した答えなのだろう。

 …………。

 「それでアーチャーはどこ?」

 「……アイツは自分の部屋で寝ている」

 「起こしなさい」

 「なっ……」

 思いがけない発言に言葉が詰まってしまう。遠坂は一体何を言っているんだ?

 「今すぐによ。叩き起こしてでも呼んできなさい」

 「そんなことできるわけないだろ! アイツはもう自分で動くこともできないんだぞ!」

 「だったら令呪を使ってでも何とかしなさい」

 下がりかけていた血が再び頭に昇る。ああ、完全に頭にきた――。

 「――――ッ!! ふざけるな!!」

 「無茶を言っているのは承知しているわ。だけど、もう時間がないのよ」

 無茶だと理解した上で文を起こせと言っているのか。
  何もかもわかっていて、怪我に臥せる文を動かせと言っているのか。

 「オマエは文を何だと思っているんだ!! わかっているならそんなこと絶対に言うな!!」

 「…………」

 遠坂は黙っていたが、瞳に揺らぎはない。その主張を覆すつもりはないのだろう。

  青味を帯びた瞳は俺の方を見ていないことに気づく。
  俺の背中、廊下の向こう側を見ている。視線の先を追うように振り返る。

 「……まったく、夜中にそんな大声を出したら近所迷惑だわ。
   もう少し社会性も持ちましょうよ、士郎さん。
   集団を作って生活するのは、人間のもつ基本的な傾向で、最大の利点なんですから」

 廊下の壁にもたれかかるようにして、文がよろよろとこちらに向かって歩いていた。
  いや、体を引きずっているというのが正しいだろうか。
  声の調子はいつも通りだったが、痛ましい姿はいつもの彼女とは遠くかけ離れたものだ。

 「文、大丈夫なのか?!」

 肩を貸そうと慌てて駆け寄るも、文に手を前に出されて制されてしまった。

 「だからそう大声を出さないでください」

 もしかしなくても、大きな音でさえも今の文には辛いのかもしれない。

 「ああ、ごめん」

 「よろしい。
   ……しかし士郎さんに『大丈夫か?』と訊かれたのはこれでかれこれ何度目かしら?
  こんなことなら、メモしておけばよかったわね。もったいないことをしたわ」

 この人を小馬鹿にしたような態度は彼女らしいと言える。
  重篤であるのは変わりないが、普段通りの彼女の調子に口許が緩みそうになった。

 「へえ、軽口を叩く程度には元気そうじゃない」

 遠坂は関心の言葉を口にするが、方や文は不満げに頬を膨らませる。

 「何が元気なものですか。貧血でフラフラ、頭は朦朧としてて、はっきりしない。
   少し動くだけで、貴方のセイバーから受けた傷に響いて涙が出そうだわ」

 ぺたん、と壁に寄り掛かって座り込んだ。口調とは反対に、本当は立っているのも辛かったのだろう。
  顔の血色が悪く、汗もぽつぽつと浮かんでおり、今にも倒れてしまいそうだった。

 「でもまぁ話を聞くぐらいなら、何とかなるでしょう。……それでこんな夜半に何のようですか?」

 「セイバーがギルガメッシュに倒されたわ」

 先ほどと同様に間髪置くことなく答えた。

  辛そうな表情から一転して、文の赤い瞳に仄暗いものが宿るのが見えた。
  それ以上の変化は読み取れなかったが、セイバーの死に衝撃を受けているのは間違いない。

 「…………へえ、そうですか。それはとても残念ね」

  底冷えするような冷たい文の声色。
  遠坂はそんな文の変化に眉をひそめるも、話を続けていく。

 「でもセイバーは最期、ギルガメッシュに大きな傷を負わせた。
   セイバーのエクスカリバーをギルガメッシュは真正面から受けたわ。
  今の金ピカはあんたと同じで歩くのもやっとなはず」

 ……セイバーは、ギルガメッシュにただではやられなかった。
  それを聞いただけで、どうしてか胸の奥にこみ上げてくるものがあった。

 「ふぅん。でも、それだけを伝えに来たわけじゃないでしょう?」

 文は目を細めて、遠坂を軽く睨みつける。
  そんな高圧的な文の視線に屈せずに、遠坂は言い淀むことなく次のことを放言した。

 「――今日中、いえ、この数時間の内にギルガメッシュとの決着をつけなさい。
   でなければ、ギルガメッシュは傷を癒す。そうなればもう誰にも勝ち目はないわ」

 「な……ッ」

  信じられないことに、遠坂はこの満身創痍の文に戦えと嘯く。
  それも深手を負ったとはいえ、あのギルガメッシュと。

 遠坂に異論を唱えようとした直前、文が俺の方を向いて鼻先に人差し指を立てた。
  その誰もが知っているジェスチャーの意味するところは一つだけ。『静かにしろ』ということだ。
 端から見れば、かわいげのある仕草だが、今の文には物を言わせぬ迫力がある。
 俺が押し黙るのを確認すると、文は目を細めたまま、真意を見定めようと瞳をのぞき込んだ。

 「はぁ、それで私のところに? 情報提供には感謝しますが、随分と都合の良いこと言いますね。
   あの人がそんな状態なら、貴方が何かしようとしないのですか?
  ……貴方の可愛い可愛いセイバーの仇なんでしょう? 私なんかが出しゃばっていいんですかね」

 隅に皮肉を交えた言い方だが、文の言いたいこともわかる。
 俺の見る限りでは遠坂は怪我を負った様子はなく、戦える状態ではあるようだった。

 彼女は俺たちから視線を逸らし、痛惜を顔に浮かばせる。
  ここに来てから初めて感情を感じさせる表情であり、俺が遠坂凛を知ってから初めて見る顔だった。

 「……私には、いえ人間ではサーヴァント相手ではどうしようもならない。
   傷を負ったとはいえ、人間とは存在の規模と密度がかけ離れている。
  私では、どうなろうと相手にならないわ。サーヴァントにはサーヴァントでしか勝つことはできない。
   それを今日までの戦いの中で否応にも理解してしまった。
  ……悔しいけど、今ギルガメッシュに勝機があるのは死に損ないのあんただけよ」

 「まぁそうですね。
   深手を負ったとはいえ、ただの人間があの男に挑むにはあまりにも無謀と言えるでしょう」

 『ただの人間』だと、語調を上げて強調する。
  ……遠坂は優秀な魔術師であり、ただの人間ではない。
  しかし稀代の英雄を相手にしたら、遠坂もほかの人間とそう変わらない、そう文は言いたいのだろう。

 「……当然だけど、今の話をあんたたちに強制するつもりはないわ。
  現存するサーヴァントはあんたと金ピカだけ。
  金ピカは聖杯を顕在化させるため、近いうちにあんたを狙うのは間違いないでしょうね」

 遠坂の言うことに何一つの間違いはない。だとしても、今の文に何ができる? 
  とても戦える状態ではないことは遠坂にもわかっているはずだ。

 ……単純にギルガメッシュがダメージを受けている今が残されたチャンスだと言いたいのだろう。
 これを逃したら、ギルガメッシュが聖杯を手にするのは時間の問題だということ。

 文の傷が癒えるのを待つのはどうなのだろうか。
  だが、文が万全な状態であるということは、同時にギルガメッシュも万全である。
  それで文が勝てるかどうかはわからない。

   ……いや、おそらく遠坂が示唆しなかった以上、文に勝ちの目は薄いのだろう。

 文にはほかにも残された道はある。
  俺の腕に残された最後の令呪を使って、文を幻想郷に還すこと。

  おそらくそれは文が許さないだろう。
  それに文を幻想郷に還せば、即時に聖杯が現れるかもしれない。聖杯はもう満たされているのだ。


 ……俺に何かできることはないのだろうか。
 遠坂の話を聞いてしまったら、じっと何もせずにいることができない。

  文はどうやっても動けない。だったら、俺一人でもアイツに立ち向かえばいい――。

  今の文と同程度の傷を負っているのであれば、俺でもできることがきっとあるはずだ。
 どんな手段を使ってでもいい。アイツを、ギルガメッシュを止めてみせる。


 ――――――――――



 ここにいる誰もが沈黙を守ったまま、一分を過ぎようとしていた。
  開かれたままの玄関からひんやりとした冷たい風が廊下に向かって流れてくる。

  今が刻一刻を争う状況ならば、直ぐにでも何かしらの行動に移さなければならない。
  考え無しかもしれないが、ギルガメッシュを見つけることに専念しよう。
 そうと決まれば、もう動くだけだ――。

  遠坂の話を聞いてからずっと考え込んでいた文が、俺の顔をつまらなさそうに一瞥した。
  そして、大きなため息を吐く。

 「……はぁ、わかったわ。やってあげる」

 「文!?」

 思いがけない言葉に驚いたのは俺だけではない。
 口には出さなかったが、提言した遠坂自身も意外さを表現するように目を大きく見開いた。

 「士郎さんがよからぬことを考えているみたいでしたからね。
   『一人で行ってやるぜ』って、そんな大馬鹿なことが顔に書いてありましたよ。
  このまま蛮勇に任せて彼を死なせるのなら、私が行った方が万倍ましでしょう」

 「そんな体じゃ無茶に決まっているだろ!」

 「や、貴方に無茶という言葉を使われるとは思いませんでした」

 「衛宮君、アーチャーが言ったこと本当かしら?
   ギルガメッシュのところに自分一人で行こうだなんて」

 「ああ、間違いない。そのつもりでいる」

 「衛宮君、私の話をちゃんと聞いてた?
   幾ら弱っていても相手は英雄王と言われた存在なのよ?
  ろくに魔術も使えない貴方が言っても死にに行くだけ。
  そもそも衛宮君が行って何とかなるんなら、私はここに来たりしていないわ」

 ……遠坂の言葉はもっともだろう。普通に考えれば、俺の考えは馬鹿げたものだ。

  今までの話を総合するに、文が動くのが最善なのは間違いない。
  方や俺の考えは、最善にかわる次善でもなんでもなく、独善と呼ぶに相応しい代物だ。
  そうであっても、俺はこれ以上、文に酷い傷を負ってもらいたくない。

 「確かにそうかもしれないけど、そんなことやってみなきゃわからない」

 「……これを本気で言っているとしたら、かなり腹立たしいわね」

 遠坂は怒るというよりも、呆れ果てている。
  今すぐにでも、ため息をついてしまいそうな様子だった。

 「この世の中に、打算のない自己犠牲ほど気持ちの悪いものはありませんよね。
   でも、それが士郎さんの面白いところでもあるんで、許してやってくださいな」

 そして、遠坂は溜め込んだ息を吐き出した。
  勿論、俺は自分の考えを自己犠牲だとは思っていない。これは単なる俺の我が侭だ。

  文は目を細めて、言葉を繋げた。

 「……ま、何にしても、貴方はこの世界に私を繋ぎ止める楔という自覚を持ちなさい。
   そんなつまらないことで死ねば私が困るだけだわ。馬鹿なこと言ってないで、少し黙ってなさい」

 「…………」

 それを言われると俺にはもう何も言えなくなってしまう。
  衛宮士郎にとって、自らの身勝手さで自分以外の誰かが不利益を被るのは、許し難いことだ。

 「アーチャー、あんたは本当に衛宮君に死なれたくないからなの?
   悪いけど、それだけの理由で動くような殊勝さを持っているとは到底思えないわね」

 文の口舌に遠坂は猜疑心を露わにし、ころころと変容する少女の表情を窺う。
  どう捉えても好意的とは言えない遠坂の視線に文は苦笑いを浮かべた。

 「あやや、疑い深いですね。
   嘘を言ったつもりはないですけど、建前に聞こえてしまいしたか?
   本心は本心ですよ、死なれたら困るのは事実ですし。
  別の理由もあるにはありますけど。
  ……決まりの悪い話ですが、今日はかっこ悪いとこばかり見せてましたからね。
  本当は今だって寝たいところですが、この状況で床に戻ったらあまりに情けないですし。
   最後ぐらいはびしっとかっこ付けたいものです」

 「ふぅん、見栄やプライドね。本当にそれだけなのかしら」

 「本当にそれだけですよ」

 「まぁ、あんたがやってくれるならなんでもいいわ。……話を戻すわよ」

 遠坂はもう興味がないと言わんばかりに文の言葉を軽く受け流した。
  俺は彼女の言葉の重みを知っている。
  射命丸文は、この俺たちの世界にかつては妖怪が存在していた証を刻もうとしているのだ。  

 それが彼女の目的であるのなら、俺が出しゃばるのは文自身を踏みにじることになる。

 「で、幸いなことに、あれから大して時間は経っていない。
   あのダメージでは、そんな遠くまでは動けないはずよ。おそらくまだ新都にいるはず。
  だから、傷を癒される前にギルガメッシュを倒して、あんたがこの聖杯戦争に終止符を打ちなさい」

  そう、俺たちは悠長に会話をしている余裕はない。
 ここでこうやっているだけで、ギルガメッシュを倒せる可能性は徐々に減っている。

 「だけど、一概に新都と言っても広いぞ。そんな闇雲に探して見つかるものなのか?」

 「忘れたの? サーヴァントにはお互いの気配を察知する能力があるのよ。
   金ピカがどこかに雲隠れする前なら、なんとかなるでしょうね」

 それは忘れてはいない。だけど、文には。

 「それが私にその力はないみたいなんですよ。サーヴァントの気配なんて一度も感じたことないです」

 「……え、嘘」

 遠坂の知らないことだが、文は滅茶苦茶な方法でこの世界に召喚されている。
  その結果、本来サーヴァントに備わっている能力がいくつも欠けていた。

  マスターから魔力を供給する必要がないなどの、メリットもある。
  だが、聖杯戦争に関する知識を一切授けられていないといった、デメリットもあった。
 サーヴァントを知覚する能力がないのも、デメリットの一つだ。

 それだと、これまで話した計画が全て水泡と帰してしまう。
 遠坂はショックを隠す余裕もなく、ぽかんとしている。

 「そんな顔をしなくても大丈夫ですよ。
   私にはそういう時に役立つ優秀な道具があります。探索はこの子たちにお願いしましょう」

 「……この子たちって誰のことよ?」

 「ふふ、後ろを見てください」

 遠坂の背後に広がる暗がりに無数の何かが蠢いていた。
  目をこらしてみると、それは何十羽ものカラスだった。その全てが一様にこちらを見ている。
  鳴き声を上げることなく、夜の闇に溶けるカラスは不気味さを強調させる。

 「ち、ちょっと、なんなのこれ?」

 流石の遠坂もその異様とも言える光景に面食らっているようだ。

 「ハシブトガラス。この子たちが私の目になります。
   カラスは光り物が好きですし、あの派手な男だったら、直ぐに見つけてくれると思います」

 確かにこれだけの数の鳥が上空から探してくれれば、見つけ出す可能性は十分に高い。
 ……だけど、疑問点もある。

 「でもこんな暗ければ、何も見えないんじゃないのか?
   フクロウみたいな猛禽類だったらともかく、カラスは鳥目だろ?」

  「ふふん、知らなかったんですか? 鳥が鳥目というのは迷信ですよ。
   ほとんどの鳥はただ昼行性で飛ばないだけの話です。それにカラスに関しては人間以上に夜目が利きます」

 何故か得意げな表情を浮かべていた。
  鴉天狗というだけあって、眷属であるカラスにシンパシーを感じているんだろうか。
  あまりこの世界のカラスは好きではないと、いつだか言っていたが。

 そして文が小さく片手を上げると、カラスの群れが一斉に闇夜へと飛び立っていく。
  飛び立つ方角からして、新都に向かっているのは間違いないだろう。

 「では、ちょっと着替えてきます。いくら何でも寝間着のままじゃ締まりませんからね」

 座り込んでいた文が立ち上がった。

 手を貸そうと思ったが、そう考えている間にもう文は立ち上がっていた。
 そして、ここに来た時とは違うしっかりとした足取りで、自室へと戻っていく。

 あれからほんの15分程しか経過していない。
  それだけで、見違えるほど回復したというのだろうか。

  ……もしかしなくても、あの様子ならギルガメッシュと戦えるかもしれない。


 「ちょっとこっちいいかしら?」

 文の後ろ姿が廊下の角に隠れて見えなくなったころ、遠坂に声を掛けられた。

 「どうかしたのか?」

 遠坂は肩に担いでいたトートバッグから、布にくるまれた何かを取り出した。
  布の形状からして、何か細長い棒状のものが包まれているようだ。

  「カルンウェンハン」

 「え?」

 聞いたことのない単語と同時にその布を俺に差し出した。
 差し出すということは受け取ればいいのだろうか。遠坂の真意がいまいちわからない。
  間抜けな顔をして受け取ろうとしない俺に痺れを切らしたのか、布を外してみせた。

 遠坂の手に、見覚えのない短剣があった。
  だが、一目見ただけで理解する。その剣に内包された神秘を。
 カルンウェンハン――、それがこの短剣の名前だろう。

 「伝説でアーサー王が持っていたとされている短剣よ。
  私はこれを触媒にしてセイバーを召喚したの。貴方はこの剣を使いなさい」

 「いや、受け取れない。それは遠坂が持つべきだ」

 それはセイバーの形見とも言えるものだ。
  セイバーも絶対に遠坂に持っていて貰いたいだろう。

 「いいの。アンタはこれを持っているだけでいい。……アイツの最期をセイバーに見せてあげて」

 押しつけるようにして、遠坂から短剣を渡される。
  持ってみることで実感したが、カルンウェンハンは見た目以上に軽かった。
  それに普通の剣と比べると、柄が短く、刀身の重心が矛先にあるようで、妙に振り回しづらい。

 エクスカリバーには劣るも、紛れもなくセイバーが持つに相応しい力を内包していた。

 「わかった。全てが終わったら遠坂に返しにいく。……遠坂はこれからどうするんだ?」

 「私は別に行くところがあるわ。
   思い違いだといいんだけど、気になることがあってね。
  ……じゃあ頼んだわよ。金ピカをこてんぱんにしてやんなさい」

  それだけ言い残すと、遠坂は振り返ることなく歩き出していった。

 …………。

 文の着替えを待ってから暫く経つが、彼女は一向に現れる気配がない。
  さっきの様子なら大丈夫だと思うが、こうも待たされると心配になってくる。
 かといって、女の子が着替えているところを無闇に入っていくわけにもいかない。

  ――ふとどこからか、嫌な匂いがすることに気づいた。

  馴染みのある匂いだった。
  だけど、ど忘れをしたのか、その匂いの正体を思い出すことができない。

  むせ返る匂いに胸がざわついてくる。
  これは聖杯戦争で何度も何度も嗅いだ匂いじゃないか。

 そして。

  ――匂いの正体はあっけないほど近くにあった。
  わざわざ探す必要もなく、振り返れば直ぐに見つけることができた。

  クソ、俺はなんて馬鹿だ。暗いことを理由に全く気づけなかった。
  さっきまで文の座っていた壁際の床。そこに、夥しい量の血だまりが広がっていた。













 後書き

 ここから一気にクライマックスです。
  といっても展開的な話で、まだ結構掛かりそうですが。

  今のペースだといつ終わりになるんだろう。

 2010.1.11


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