「文々。異聞録」 第54話







  文はもう限界だった。

  意識があるのも奇跡に等しい重篤なダメージ。
 高潔……いや、病的ともいえる矜持。それだけが、文の手足を辛うじて動かしている。

  『会話ができた』『歩いて来た』。
  その二つを理由にして、俺は文が強健であると錯覚していた。

 ……だったら、この血はなんだ。
  文が今まで座っていた廊下の一角を赤く染め上げてるじゃないか。

 ああ。これでは。

  「セイバーにやられたときと、何も変わってないじゃないか――」

  数刻前、セイバーに斬り伏せられた傷は塞がっていない。  
  今日流した分だけで文は明らかに人間であれば、致死量の血液を流している。

  噎せ返りそうなほどの血が鼻腔を刺激する。
 血液の大半を構成しているヘモグロビン。錆びた鉄のような独特とも言える匂い。

  そう、流れているものは人間も妖怪も大差はない。
  妖怪もまた人と同じ血が流れている。俺は人とは違う存在であることを免罪符にし、
  心配する素振りは見せても、文の痛みを何も理解していなかった。
  彼女は妖怪であっても生きていることには変わりはない。
  決して不死身の存在ではないのに、それすらをどこか曖昧なものにしていた。

  廊下の奥まで続く、血によって作られた一筋の道。
 俺は踵を返し、文の部屋まで続いているであろうその道を衝動的に辿っていく。

  こんな有様を見て、俺はもう彼女に戦わせようとは思えない。
 プライドの為に、一つだけしかない命を投げ捨てる。
  それをただ傍観しているだけなんて、俺にはもうできない。

  文の意志を顧みる、なんて言っている場合ではない。
  今の状態では手負いとはいえ、ギルガメッシュを相手にできるはずがないのだ。
  このまま戦えば、まず間違いなく文は死ぬ。だったら、何が何でも止めてみせる。

 俺が何を言ったところで、右から左。素直に聞き入れてくれるとは思えない。
 もしかしなくても、彼女を無理矢理に拘束することになるだろう。
  それで抵抗を受けるのも間違いない。
  無傷の文なら不可能であるが、彼女の受けた傷はそんな抵抗もできないものだと安易に想像させる。
 だが、彼女は妖怪であり、サーヴァントである。人間とはそもそも存在の規模が違う。

 下手をすれば、俺は文に殺されるかもしれない。
 いや、俺は文のマスターである以上、彼女をこの世界に留めるために必要な楔である。
  最悪、死んでないだけの状態にされるだけか。そして、その手段と方法を彼女は持っているだろう。

 ……こんなところで、怖じ気づいては駄目だ。
  どんな手を使ってでも、今死地に向かおうとする彼女を阻止してみせる。

  左手の甲に令呪が浮かんでいた。
  残り一画の令呪。サーヴァントに対する絶対命令権。
  俺と文の間で禁忌とされているコレを使うことになっても――。


 この感情は俺から生まれた強烈なエゴだ。
  他者の意志を顧みない利己的な情動であっても、俺は彼女に生きて欲しかった。
  これ以上、誰かが死なれるのには耐えられそうもない。

  「……まったく、なんて欺瞞だ」

 廊下の終着点、和室の前に立つ。
  文に宛がった部屋で、彼女の私物で散らかった様子を何度か見ている。

  ……もしかしたら、彼女は部屋にはいないのではないか。
 そんな疑念がここに来て、唐突に沸き上がる。

  文は自分の血溜まりを俺に見られたら厄介と思うだろう。
 それに感づいて、一人でギルガメッシュのもとへと行くかもしれなかった。

  そもそもだ。
  俺は足手まといになるばかりで、彼女の助けにはなれていない。
  いつまでも一緒にいるメリットがないのだ。
  ……いや、だったらどうして文は今日に至るまで一緒に行動してくれたのか。
 今になって、ふと疑問に思う。

  だけど今はそんなことを考えている場合じゃない。
  何にしても彼女に会う必要がある。 
  十畳に満たない個室だ。いるかどうかはすぐわかる。

 俺は扉越しに声をかけることもせず、ゆっくりと襖を開けた――。


 …………。


 つまらない想像に反して、文はそこにいた。
  変わらず、そこにいた。変わらず、死に瀕していた。

 「文!!」

 文は布団の上に顔を埋め、俯けで倒れていた。
  力なくぐったりとした姿は、死人を想起させてしまう。

  俺と遠坂の前で見せた文の姿は、彼女が無茶をして作り出した虚勢だった。
 セイバーから受けた傷は塞がろうともせず。
  今も尚、文の矮躯から一滴も残さずに血を絞りだそうとしている。

  慌てて駆け寄り、少女の上体を起こした。
 呼吸はしている。朦朧とした様子ではあるが、意識は失っていないようだ。
 仰向けにされて、焦点の合わない半眼が中空を彷徨う。
  
  そして、暫くしてようやく俺に視線を向けた。

 「……ああ、士郎さんですか。そろそろ行きますかね」

 開口して直ぐにそんなことを言ってみせる。

 口角にいつもの笑みを浮かべようとするが、引きつるだけで形を成していない。
  聞き馴染じんだ凛とした声も掠れており、聞き取りづらかった。

 「馬鹿野郎! そんなこと言っている場合か!!」

 畳に手をつき、下肢に力を入れて起き上がろうとするも、どこか弱々しい。
  たったそれだけのことも、まともにできちゃいない。

  快方には向かっていないのは明確だった。

 「いいからそこで寝ているんだ! 後は俺がなんとかする!」

 当然、ギルガメッシュへの対抗手段など持ち得ていない。
  文もそんなことはわかっているだろう。半眼が睨み付けるように鋭くなる。

 文は支える俺の手をやんわりとどかすと、自力で上体を起こした。

 「……またその話ですか。
   そんな下らない問答はもう止めにしましょう。見ての通り、私も余裕がありません。
  今は貴方の広大無辺な理想とやらに構ってられません。
   次に馬鹿なことを言うと、そのよく喋る舌を引きちぎりますよ」

 冗談で言っているわけじゃないのが、雰囲気からわかる。
  声は張りは戻っていたが、ゆとりを感じさせない。

  ここから先の迂闊な言動は彼女に対する敵対行為を意味する。
  だとしても、俺は。

 「駄目だ。これだけは譲れない。何があってもお前をギルガメッシュと戦わせたりはしない」

 「…………」

 両の瞳に懐疑が宿る。真意を測ろうとする赤い双眸。

 「黙って欲しかったら黙る。俺の舌だったらくれてやる。だから今は安静にしているんだ」

 文の眸子から受けるプレッシャーに思わず怯みそうになる。
  だけど、俺は目を逸らさない。ここで視線を逸らせば俺が折れたことになる。

 「本気で言っているようね。……最後通告よ。発言を、撤回しなさい」

 言葉から感情が消えた。
  スイッチのオンオフを切り替えるように、空気も豹変する。
  空間が畏怖に染まった。

  人間の根っことなる部分が警鐘を鳴らしている。
  暗闇を恐れる感情と似た、得体のしれないものに対する根源の恐怖。
  これまで何度となく味わった、射命丸文の人を喰らう妖怪としての本質。

  ……これが本当に瀕死とも言える少女が出せるものなのだろうか。

  否応にも屈服して楽になってしまいたいという感情が沸き上がる。
  許しを請いたい。今すぐにすべてが嘘と言って、楽になってしまいたい。

 「いや……。俺は絶対に譲らない」

 声を、絞り出した。
  感情ではなく、信念を言葉にして絞り出す。

  不思議と声が震えることはなかった。
  だが、これでもう後には引けない。退路は今、決定的に塞がれた。
  無理矢理に押し込めた感情によって胸が詰まりそうだ。



 …………。

  一分にも満たない静寂。
 その一分が永遠にも感じる空間のなか。
  重圧に肺が呼吸運動を忘れてしまったかのように息が止まる。
  一度だけでいい。胸の内に溜まった空気を吐き出してしまいたい。

 だけど、そんな余裕なんてあるはずがない。

  お互いの手が届く距離。
  俺が文を捕まえようと先んじたところで、速度の差はどうやっても覆せない。
  俺の初動を確認した後でも、文は簡単にあしらえる。俺の動作なんて、止まって見えるだろう。
  つまり、文は後手に回ろうが、どうとでもできるわけだ。
  いくら重傷であると言っても、根本的な身体能力の差があまりにも激しい。

 ……やはり、令呪を使うしかないだろうか?

 「――ねえ、士郎さん」

 場の雰囲気にそぐわない優しげな少女の声色。
 僅かに緊張を解いてしまった。

  一瞬の空白。コンマ一秒にも満たない隙を突かれ、左手首が掴まれた。
  俺よりもずっと小さな手によって、ギシギシと骨が軋みを上げる。

 「ぐっ!」

 思わず歯を食いしばってしまうほどの痛みが手首に走った。
  食いしばらなければ、激痛によって絶叫してしまうだろう。

  手首から先が震えるだけで、指一本も動かせない。
  体の自由すらもまともに効かない。

 まずい……、掴まれているのは令呪のある左手だ。
  当然、文は左手の甲に令呪があることを知っていた。
  もしかしなくても、文はこれを狙ったのだろう。

 「ひとつだけいい?」

 平坦な文の声。
  その問いに対して、俺は声を出さずに首肯によって答える。

 「セイバーのマスターが言うとおり、ここであの男を倒さないと、もう勝ち目はないわよ?
   それもわかった上で言っているかしら?」

 ほんの僅か、手首を握る力が弱くなる。
  それは言葉に出して答えろと告げているのだ。

 「……わかっているさ。だけど、俺は文に死んで欲しくない」

 ここでギルガメッシュを見逃しても、何か手を使えば勝ち目もあるかもしれない。
  そんな『もしかたら』を期待してる部分がどこかにあった。
  ……だけど、それは甘い考えなのだろう。
  遠坂と文がこれまで一度も示唆しなかった以上、あり得ない可能性なのだ。

 だとしても、ここで自分を曲げることなんて、できない。

 「あっそう」

 人間味を感じさせない無機質な声。少女が死刑執行を告げた。

  俺は反射的に目をつぶっていた。
  決して目を逸らすものかと思っていたが、自身の一部が壊される恐怖に体が抗えない。

 手首を掴む少女の右手に、これまでとは比較にならない力が込められる。
 そして、砂糖菓子のようにあっけなく、俺の手首が握り潰されて、ボトリと畳に落ちた。


 …………。


 「――おかしい。
   そんなに恐がりで、痛がり屋なのに強がってる。
   貴方は本当に、バカでワガママね」

  固くつぶっていた目をゆっくりと開けた。
  眼瞼の裏に映った光景と異なり、腕は掴まれたままだ。左手も生えている。

 俺は白昼夢でも見ていたのか……。

 「……自覚はしている。
   だけど、死のうとしている奴を前にして何もしないでいるなんて、俺には絶対にできない」

 「自覚した馬鹿に付ける薬はないわね。
   馬鹿なことで令呪を使わないよう、このまま左手を潰してもいいんだけど」

 軽い口調でゾッとすることを言ってみせる。
  必要とあれば、それぐらいのことは平気でやれると暗に言っているのだろう。

  俺の腕は一度潰されている。覚悟はできていた。


 「……まぁこれ以上力みすぎると、失血性のショックでまた倒れそうだわ」

  そう言って、掴んでいた俺の左腕を解放する。
  それと同時に場を支配していたプレッシャーも消え去った。

 溜め込んだ息を吐き出し、手首に異常がないか確認する。
 機械で締め付けるような力で握られていたが、骨や筋はさほど痛まない。
  負担を与えないように力を込めていたのだろう。
  今は痺れによってまともに動かせないが、痛みは徐々に引いていくのがわかる。


 文の顔を再び見ると、普段から見慣れた表情を浮かべていた。

  どこか人を小馬鹿にしたような意地の悪い顔。
  だけど、その表情だけで、俺はかつてない安心を得ることができた。

 少女はそんな俺の様子を見て、肩を竦め、やれやれと首を二度三度と左右に振った。
  そんな簡単な動作ですら辛いのだろうか。整った顔が引きつるように強ばる。

 「いたたた。……本当は言いたくなかったんだけど。
   もうここまでみっともないところを見せてるし、今更隠しても仕方がないですかね」

 何を告げるのか、正面から俺の顔を見据える。
 文には似合わない苦笑いを浮かべ、息を大きく一度吐き出した。

 「――えっと、このままだと私は死にます」

 そう、少女は言った。
  それはあまりにも唐突で、決して予想し得ない告白だった。

 …………。

 「なんだって……?」

 俺はそんなつまらない呟きを絞り出すのが精一杯で、言葉を繋げることができない。

 「この傷はそれだけ深いものなんですよ、士郎さん」

  文はどこかうれしそうにそう答えた。


 「伝説のアーサー王が持つエクスカリバー。
   聖剣によって開かれた刃傷は猛毒となり、肉体の修復を遅らせ、精神にも多大な損傷を与えている。
  それはもう何度も言ったこと。更にセイバーに負けたことで、私の心は大きく揺らいでいる」

  真新しい純白のブラウス。
  襟の黒いリボンは外されており、そこから胸元を覗かせている。
 遠坂と別れた後、自分で包帯を巻いたのだろう。清潔な白い綿布が見える。
  だが、処置したばかりの包帯は赤色を滲ませていた。

 「妖怪に取って、肉体の損傷などさしたる問題ではありません。
  心が折れたときに、私たち妖怪は死ぬのです。
  ここで何もせずにこまねいていたら、私の心は死にます。それは純然たる死です」

 続け様に少女から紡がれる『死』という単語に頭が揺さぶられている。

 「……今の幻想郷は本気を出して戦うこと自体にみっともないという風潮が蔓延しています。
  もろもろの事情から、それは決して悪いことではありません。
  スペルカードルールは本当に上手くできています。
  スペルカードはルールで守られた競技であり、本気を出していないなんて言い訳ができますから。
  事実、スペカは妖怪たちのプライドを守るのにも一役を買っていたのでしょう」

 頭のなかはぐらぐらと揺れるばかりで、彼女の言う内容の大半は理解できなかった。
  それでも重大なことを言っているのはわかる。

 「まあ、私が生涯で本気を出したのなんて、ほんの数えるほど。
  自慢じゃありませんが、私に勝てる存在なんてそうはいません。
  だけど、私は負けた。完膚無きまでに。
   スペルカードルールの枠を超えて本気を出して戦い、負けた。
  ……その時はそれでいいと思いました。
  ですが、ギルガメッシュを前にしたセイバーの目に私は映ってなかった。
  ……悔しかった。それこそ人前で喚き散らしてしまうほどに悔しかった」

 それと文が死ぬことと何の関係があると言うのだろうか。

 「信じられない物を見る顔をしていますね。ですが、事実です。
  肉体に依存する人間と違って、妖怪の心はちょっとばかり繊細なんですよ」

 その『ちょっとばかり』が人間と妖怪を隔てる境界だとでも言うのか。

 「セイバーは死んでしまった。だったら、私はセイバーを殺したギルガメッシュを殺す。
  そんな八つ当たりとも言える鬱憤晴らしが、私の精神を安定へと導く。この傷を癒す」

  文はギルガメッシュを倒さねば、セイバーから受けた傷によって死ぬという。
  ……なんだそれ。そんなのちっとも理屈に合っていないじゃないか。まるで理解ができない。

 「もう、本当にそれしか方法がないのか……?」

 文ははっきりとした口調で、はいと頷いた。
 嘘は言っていない。それだけはどうしてだかわかる。

 「……今の状態からして、丁度夜が明ける頃ですね。
   時間にすると――、おそらくは三時間ほど。それを過ぎれば私は死にます。確実に」

 死ぬ。確実に。

  ……わからなかった。
  彼女が何をいっているのかわからなかった。

  理解しようと彼女の言葉を幾度もなく反芻を試みる。
  だが、理解を深めようとするほど頭の回転が鈍り、感情もまた事態に追いつかない。

 わからない。

  ふと、舌に苦味を感じた。思考のオーバーフロー。
  味覚の伝導路がエラーを起こし、舌に誤った情報を伝達している。

 ……ああ、これはつまり、脳の味だ。
  俺の心が限界であると告げていた。

 だったらもうこれ以上、深く考える必要はない。
  シンプルに要点だけを考えればいい。
  今俺たちの置かれている状況だけを考えて、そして理解しろ。

  『夜明け前にギルガメッシュを倒さねば、射命丸文は死んでしまう』。

  それは俺の心と体を動かす、唯一無二の理解だった。


 ――――――――――


 駅から僅かに離れた新都のオフィス街。
  近年の開発が進み、高層のビル群が建ち並んだ、古くからの町並みを残す深山町とは違う姿。
  深夜から早朝に掛けての時刻もあって、電車は運行しておらず、誰一人としていない。

  それだけではなく、文の姿もここにはない。

 吐き出した息が白く染まる。
  だが、手のひらは悴む様子もなく、じんわりと汗で滲んでいる。
  その手に握られている三本の矢と、一振りの短剣。

  矢は文によって特殊な改造が施されている。
  数の用意はできていない。命を預ける以上、三本では心許ないかもしれない。
  だけど、それは攻撃手段を持たなかった俺に用意してくれた武器。一本たりとも無駄にはできない。

  そして、遠坂から託されたカルンウェンハン。
  アーサー王がかつて持っていたとされる短剣。セイバーが残した唯一の遺物だった。
  だが、遠坂はそれを俺に託した。ただ、持っていて欲しいと、それだけを告げて。

 ……胸に籠もる熱を吐き出し、天を仰ぐ。

  数ブロック離れたこの場所からでも、新都センタービルがよく見えた。
  新都開発の大部分を担う企業が詰め込まれた超高層ビルであり、冬木で一番の高度を誇る建物だ。

 「…………」

  夜明けはすぐそこまで来ている。

 あれから二時間が経過している。夜明けまでは、残すところ一時間。
  それが文の残された時間。俺たちのタイムリミット。否応なしに焦燥感が募っていく。

 実際、文は飛ぶどころか、新都までまともに歩く力さえも残されてはいなかった。
  体力をこれ以上消耗させないように彼女を再び背負い新都まで移動した。
  その後、所定の場所まで運ぶのに、かなりの時間が掛かってしまった。

 文の使役するカラスの情報により、この近辺にギルガメッシュがいることはわかっている。
  過ぎた時間を考えれば、ギルガメッシュが根城に戻っていてもおかしくない。
  だが、幸いにもそれは免れた。
  だとしても、俺たちの置かれている状況が最悪であるのには何ら変わりないだろう。

  相手が英雄であれば、妖怪である文との相性は極めて悪い。
  それだけではなく、相手は英雄王と呼ばれるギルガメッシュ。
  バーサーカーや、敗北を喫したセイバー以上に難敵とも言えよう。
  そこから追い打ちを掛けるように、文は死に体。制限時間有。タイムオーバーは死。
 そんな絶望の下でギルガメッシュを倒す。

  希望があるとすれば、ギルガメッシュもまたセイバーから受けたダメージがあるという。
  それを考慮しても、今の文に勝ち目があるようには見えない。 

 だけど、俺たちは絶対に残す一時間で、ギルガメッシュを倒してみせる。

『――同調開始《トレース・オン》』 

 魔術回路を走らせる。
  イリヤによって魔術回路のスイッチは形成されている。魔術の精度はかつてないほどにいい。
  アインツベルンの森の時と同じように、道中で拾った木片を強化の魔術で変質させて弓を急造した。


  ギルガメッシュを倒す作戦はある――。
 道中に文から聞いた言葉を一つ一つ思い出していく。



 『――――

  勝機……ですか? それは当然ありますとも。
   まあ、こんな状況になって、半ばやけっぱちになっているのも否定はしません。
   だとしても、勝機のない戦いはしないつもりです。

  ええ、策があります。ですが、それは私一人では為し得ることはできません。

   そこで士郎さんの助力が必要となります。
  もちろん、それは命の危険も及ぶものです。……その覚悟はありますか?

   ……今更訊くことではなかったですね。ごめんなさい、失言でした。

  当然、貴方の死は、同時に私の死でもあります。
   士郎さんという楔を失えば、私は幻想郷に強制帰還してしまいますからね。
   そうすれば、私は失意のまま死ぬのを待つだけです。

  ……ん? なんでそんな顔しているのです? ああ、まさか気づいてなかったんですか?
  少し考えれば、わかりそうなものですけどね。いやいや、まあそれはいいでしょう。

   貴方に死なれても、決して私は貴方を恨みません。
  そこで死すべき運命だったと受け入れることにします。
  …………ふふ、そういっておけば、少しはかっこがつきますかね。

   つまり。ここから先、貴方と私は一心同体。
  生き残るには、ギルガメッシュに勝つしかありません。
  これからその為の作戦を貴方に授けます。メモの用意はできてますか?

  ……いえ、冗談です。何とかして頭にたたき込んでください。まずはですね……』


 そして、ギルガメッシュを発見した。

 視力を魔力で水増しして、確認するまでもなかった。
 あれだけの存在を見間違えるはずがない。黄金色の圧倒的な存在感。  
  サーヴァントの中でも類を見ない、オーラとも呼べる独特の雰囲気を持っている。

  遠坂の言った通り、ギルガメッシュは無傷ではなかった。
  黄金の鎧は砕け散り、上半身を晒している。胸には大きく焼け焦げた傷。
  宝具の解放によるものだろう。
 だが、そんなダメージを感じさせないほどの悠然とした歩みを見せている。

 何より幸運だったのは、ギルガメッシュよりも先に相手の存在に気づけたことだ。
  こちらが自分を探しているとは思っていなかったのもあるだろう。
  だとしても、相手は紛れもなくサーヴァントなのだ。奇跡的と言える確率だろう。

 こうなれば、あれこれと考えている時間も惜しい。
  この千載一遇のチャンスを不意にするわけにはいかない。
  ギルガメッシュに気づかれるよりも前にこちらが先手を打つ。

  足踏みから胴造り、弓構えの三節を取る。託された矢を一本、手に持った。

 『矢の矢羽には、私の羽を使ってあります。
  見栄えはさほどよくないですが、そこは我慢してください。
  私の残された妖力と時間の兼ね合いで三本が限界でした。
  うまく運用すれば、その三本で十分事足ります。是非頑張ってください』

 バーサーカーによって、左の翼をもぎ取られた文の残された片翼。
  その羽によって作られた矢。そこに込められた魔力が指先にチリチリと伝わってくる。
  矢を弓に番え、墨染めの矢羽に絡めた弦を強く大きく引いた。

  ギルガメッシュまでの距離は、目測でおおよそ200メートル。
  弓道の的とは比較にならない距離。それでも俺にしてみたら、決して外す距離ではない。

 矢羽を強く掴み、背中を晒して闊歩するギルガメッシュの後頭部を狙う。
  矢尻を人間と同じ姿をした相手に向けることに躊躇はしない。躊躇をすれば、それだけ精度が落ちる。

 そして、矢を放った。

  今まで無風であったオフィス街の一帯に強い突風が吹く。
 射法八節の最後、姿勢を保つ役割をする残心ですら保てないほどの追い風。
  さながら大口径の拳銃を撃った時の反動とでも言えばいいか。

 秒速60メートル。
  それが和弓によって放たれた矢の速度だ。
  つまり、100メートルの距離だと、1.5秒以上の時間が掛かってしまう。
 余程の不意を突かない限り、サーヴァント相手では欠伸の出る速度だろう。

 しかし、文によって作られた矢は違う。

 『私の妖力が込められた烏天狗の羽です。ただの矢とは比べるまでもないでしょう』

  どんな飛び道具であっても、大きな力から放たれた初速度が最も速いとされている。
 弓、クロスボウ、スリング、銃。そのどれもが等しく初速が速い。
  だが、風を纏う文の矢は初速から先、異常とも言えるほど速度を上げていった。

 『以前、バーサーカー相手には士郎さんは上手く当てました。
   弓に関しては、なかなかの腕をお持ちのようで、それなりに驚いたものです。
   そして、今度はギルガメッシュが標的です。総合的な力は比べるまでもなく、バーサーカーが上。
  筋力、耐久、敏捷、魔力のすべてをバーサーカーが勝るでしょう』

 音の壁すらも越えた矢尻。
  それが尚も加速していき、ギルガメッシュの頭部へと吸い込まれていく。
 唾を飲み込むどころか、瞬きすらも許さないスピード。

 『落ち着いて冷静になって、士郎さんの最善と思えるタイミングで狙ってください。
   そうすれば――』

 ギルガメッシュが気づく前に後頭部を狙えたという、運も味方に付けた。
  『中る』というイメージを自身と重ね、最高のタイミングで矢を放つことができた。

  こんなチャンスは二度とないと言えるだろう。

 『間違いなく、当たりませんから』

 一本の矢が金糸の頭を撃ち抜く直前。
  瞬時に身を翻したギルガメッシュの側面を通過し、オフィスビルが浮かぶ闇のなかに飲み込まれた。

















 後書き

 どうもご無沙汰しております。
  4ヶ月の未更新記録を打ち立てました。

 物語は佳境。更新ペースは何故かダウン。
  「書く気がないなら、結末までをあらすじだけでいいからと教えてくれ」というメールも来る始末。

 というわけで、ごめんなさい。まだがんばれます。


 2010.5.22


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