「文々。異聞録」 第57話
文によって食い千切られた英雄王の首から、夥しい量の血液が溢れ出す。 文は全身にその血を浴びるが、気に留める様子もない。 それどころか、見せたことのない艶然とした表情を少女は浮かべてさえいる。 手にべっとりと付いた血糊に舌を這わせ、 頬を紅潮させる少女の顔は、どこか見る者を倒錯した気分にさせる。 ……英雄の顔もまた自らの流した血で染まっていく。 出血を止めようと自分の喉を抑えようとするが、腕は中空を切るばかりだった。 何故ならその腕の大半は眼前にいる少女の腹の中で、ミンチになって浮かんでいるからだ。 ぷらぷらと振り子のように揺れる手首を、少女は滑稽なものとして見ていた。 「……ガ、……ゴッ!」 ギルガメッシュはパクパクと口を開けるが、それは言葉として成り立たない。 その代わりに鮮血だけがゴボゴボと吐き出されていく。 英雄王の口はもう言葉を発することすらも叶わない。それもまた少女の腹の中だった。 「あははははははははは――!!」 その惨状の元凶である文は腹をゆすって哄笑する。 本当に愉快そうに、見た目通りの年相応の童女のように、無邪気に笑っていた。 こんなのは品性がないし、何より自分のキャラクターではない。 そう頭の片隅で文は思ってはいたが、腹から込み上げてくるものを止められそうもなかった。 心が極端に酷薄になっていくのがわかる。薄氷の理性では、とても抑えられない。 心の偏執。憎悪の劫火。 人を憎むのはこんなにも気持ちがいい。 全身にゾクゾクとした快感が走る。 骨肉ごとグチャグチャにされた背中の痛みすらも忘れてしまう。 圧倒的な快哉の奔流。 性行為も比較にならない快感に、妖怪としての本能が満ちていく。 生きている実感というものを存分に味わっている。 妖怪は、精神生物だ。 人の常識では決して計れないところに位置する存在だ。 心に深刻なダメージを受ければ、それは妖怪を殺しうる。 だがその逆に心が十全に満たされれば、身体に受けた傷は治しうる。 人間の肉は妖怪にとって、栄養価の高いものではない。 人間を捕食するという行為そのものに、妖怪としての不変的な意味と在り方がある。 つまりは、妖怪を生かすも殺すも結局は心の在り方でしかない。 文は、今まさにこの瞬間のために自分は存在していたのではないかと錯覚してしまう。 極上の酒ですらも味わえないであろう酩酊感。それが文を存分に酔わせている。 人類最古の英雄王であるギルガメッシュを言葉通りに食い殺したのだ。それで膨れぬ腹と心はない。 戦いの決着は付いたのだろう。 こうも喉をぱっくりと食い千切られれば、いくらサーヴァントと言えど生きられまい。満足だ。 ……………。 そして二人の体は、コンクリート平板に叩き付けられた。 ―――――――――― 金属同士がぶつかり合うかのような、そんな音だった。 人の体は柔らかくもあり、同時に硬くもある。 人体はそんな混合物質であり、50メートルという高さから落下すれば、甲高い音が鳴る。 ギルガメッシュの抵抗により、半分以下の高さからの落下だった。 だがそれでも人を殺すには十分すぎる高さであることには変わりはないだろう。 受け身を取ることも、飛行することも、風を起こすことも許されない。 そんな満身創痍の文にとっては、この高さは想像を絶するほどの苦痛を呼ぶことになった。 「が、はっ……!」 肺腑から奇妙な声が漏れ、血反吐をまき散らす。 取り込んだギルガメッシュの血肉までも喉元まで逆流するが、これは吐き出せない。 これを戻してしまえば、それで彼女はお終いなのだ。 尚も逆流を続ける胃酸と一緒に血肉を飲み込み、無理矢理胃袋にぶち込む。 落下の衝撃によって、肺腑に酸素を取り込めない。呼吸ができない。苦しい。 内臓が、しっちゃかめっちゃかに掻き回されてしまったかのようだ。 おそらくそれは比喩でもなく、幾つもの臓器に甚大とも言える損傷を受けているだろう。 目に血でも入ったのか、視界が赤く染まっている。 再び目眩を伴った吐き気が襲ってきた。それも寸でのところで飲み込む。 何とかして呼吸をしようにも、喉からはカエルを踏み潰したような音が鳴るだけだった。 (これは、ヤバいかも……) 気絶することも死ぬこともできない、そんな自らの不条理なまでの頑丈さを呪う。 それから僅かに遅れて、手足に激痛が襲う。 何とかして動かそうと思っても、頭からの命令を受け付けてくれない。 ……手足が千切れてしまったのではないだろうか? そんな疑問が脳裏に浮かぶ。 仰向けの状態のまま、なんとか首を持ち上げ、自分の手足がちゃんとくっついているのか確認する。 四肢は欠けることなく無事であったが、左手があらぬ方向へと曲がっていた。 それと右足も酷い。折れた脛骨が、脛の肉を突き破っていた。 はみ出た骨が血で濡れてピンク色に染まっており、それがどこかおかしく感じる。 損傷の度合いから見て、どうもここから地面に落ちたようだ。 …………。 文の視界の端にギルガメッシュが映る。 英雄王は文からそう遠くないところに倒れていた。文とは逆にうつ伏せになっている。 文が食い破った喉を中心に、血が舗装路に広がっていく。 ……喉頭を盛大に食い破ったのだ。失血性ショックで死んでもおかしくない。 それに追い打ちを掛けるように、文と同じように50メートルの高さから落下している。 ――――生きているはずはない。 そう。生きているはずがないのに、どうしてエアを地面に突き立てる? 使い物にならなくなった左腕も使って、どうして起き上がろうとするのだろうか? ……そもそも呼吸はできるのか? いいや、できるはずがない。 肺を初めとする呼吸器官は逆流した血でまみれている。使い物になりはしない。 だというのに、ギルガメッシュは立ち上がろうとする。あり得ない。 ……だがそのあり得ないことを為し遂げるからこそ、人々は英雄と呼ぶのではないのか? ギルガメッシュの顔は死人のように蒼白だった。 表情筋が弛緩しているのか、感情すらもまともに掴めない。 それでも赤い瞳はこちらを完全に見据えており、生気を失ってはいなかった。 大量出血、呼吸障害、筋肉の弛緩、微弱な痙攣。 セイバーによって、胸に刻まれたエクスカリバーの裂創だってただ事ではないのだ。 そんな様子からして、いつ死んでもおかしくない。意識があることすら信じられない。 決して折れることのない黄金色の精神は、生理現象すらはねのけるのか。 こんな状況だというのに、文は感心してしまう。 紛れもなく、ギルガメッシュはセイバーを凌駕するサーヴァントだ。 精神のあり方はただの人間とは比較にならない。比べるのも烏滸がましい。 精神的な発展を遂げた幻想郷に住まう人妖含めて、これほどの魂の持ち主はそういない。 ギルガメッシュは立ち上がった。 紛うことなく、二本の足で立っている。足を引きずり、文のもとに歩み寄る。殺すために。 だが文は、英雄王のように立ち上がれない。 左足が開放骨折している以上、物理的に立ち上がることは不可能なのだ。 今はまともに身動きを取ることもできないし、風も起こせはしないだろう。 ギルガメッシュにとって、今まさに文は俎上の鯉と言っても過言ではない。 歩みを止める。 発声器官を失っており、英雄王は言葉を成せない。だから、瞳が雄弁に語る。 『貴様の負けだ』と――。 そのまま悠長に眺めるようなことはせずに、英雄王はエアを逆手に構えた。 左腕と首を食い千切られて、高所から落下しても、手放すことのなかった王の剣。 宝具を解放するような魔力はもうありはしない。 だが乖離剣の刀身は王の信頼に応えるように、勢いを殺すことなく回転を続けている。 「負けるかよ」 文は、そう憎々しげに吐き捨てた。 手足は相変わらず感覚がない。しかしそれは虚勢なんかではない。 彼女は気づいていた。 ギルガメッシュは確実に文を殺すため、心臓に狙いを定めてエアを振り下ろす。 ――そしてそれよりも速く、一本の矢がギルガメッシュの胸を射貫いた。 ―――――――――― 出血を続ける腹の傷を押さえて、なんとか新都センタービルから抜け出る。 「はあ、はあ、はあ……」 呼吸も不規則なものになり、血液が全身にうまく循環していないのがわかる。 稼働しているエレベーターがなければ、辿り着けなかったかもしれない。 だがそれよりも今は文だ。文の姿を探さなければならない。 拍子抜けするほどあっさりと、見つける。 ビルからほど近い側道に、文とギルガメッシュはいた。 文は生きていた。だがそれは同時にギルガメッシュにも言えることでもあった。 二人ともどちらのものとも判らない血で全身を染め上げている。 死に体と言ってもいい有様だった。……そこに至るまで何があったのかはわからない。 高所から落ちただけではできようもない目を覆いたくなる傷もある。 二人の攻勢はあからさまだった。 倒れて身動きの取れない文に、ギルガメッシュが剣を振り下ろそうとしている。 それを見て、間髪入れずに弓を構える。 文の力がこもった矢。その最後の一本。外すわけにはいかない。 弦を引くだけで、気が遠くなりそうなほどの激痛が腹部を襲う。 痛みは何とか制御できる。それでも手先が震えるし、失血により視力も失われつつある。 ギルガメッシュの頭を狙う余裕はないだろう。だから、次に急所の集まる胸を狙う。 ……絶対に外せない。外せばそれで全てが終わる。 頭は限りないほど冷静だった。弓の世界は、熱くなれば中るものも中らなくなる。 それに距離もたいしたことはない。目測で20メートル。万全なら絶対に外す距離ではない。 だがこれまで二度放った矢は、全てギルガメッシュに躱されている。 そうだとしてもこれが今の俺にできる精一杯なのだ。考えるだけ無意味でしかない。 無何有の境地とまではいかないだろうが、余計な思考は弓の精度を落とす。 深呼吸。今の間だけでも呼吸の乱れを抑えなくてはならない。 狙いはもう既に定まっている。後はもう弓を放つだけだ。 この距離であれば、一呼吸もしないうちに矢はギルガメッシュに到達する。 ギルガメッシュが文を手に掛けようとした隙を狙う。 それが考え得る最良のタイミングだ。 そしてギルガメッシュが剣を振り下ろした。 矢を放つ――。 矢の凄まじい反動が射手である俺を襲うも、ビルの壁面のお陰で何とか転倒せずに済んだ。 そう安堵した時にはもう、矢はギルガメッシュを貫いていた。 これまでが嘘のように呆気なく、矢は英雄王の胸の丁度中央を射貫く。 「やった……」 文の力によって水増しされた矢は、刺さるだけでは終わらない。 ギルガメッシュの背中を貫通し、勢いを落とさずにビルの壁面に突き刺さった。 文の羽で作られた矢羽以外は、普通の矢と何ら変わらないが、 よく見るとコンクリートの壁面に半分以上はめり込ませている。すごい威力だった。 ……だというのに、ギルガメッシュは倒れない。 胸の孔は間違いなく、ギルガメッシュの急所を貫いている。 なのにギルガメッシュは生きていた。サーヴァントの持つ耐久力の問題ではない。 あのダメージはそんな域を遠に超えている。死んでいなければ、おかしいのだ。 表情のない顔が、俺をゆらりと一瞥する。 その禍々しい視線に息が詰まった。殺されると反射的に思ってしまう。 それもつかの間のこと、ギルガメッシュは再び剣を構え直した。 先程の焼き直しのように、文に向かって剣を振り下ろそうとする。 矢はもうない。全て放ってしまった。 だからと言って、このまま見過ごすことは絶対にできない。 弓を捨てて、ギルガメッシュの元に走る。 それは走っているとは到底言えない有様だった。歩いているのと何ら変わらないスピード。 なのにも関わらず、腹の傷がかつてないほどに悲鳴を上げる。 一歩一歩進んでいくほどに、俺の命は削れていっているだろう。 ……だけど、それがなんだっていうんだ。文の命が助けられるのなら、俺は死んでも構わない。 だが間に合わない。たったの十数メートルの距離があまりにも遠い……! このままだと、文はギルガメッシュに殺されてしまう。 「文ーーッ!!」 ありったけの力で少女の名前を呼ぶ。 だけどそれが何になる。そんな言葉などこの場では何の意味も持たない。 ギルガメッシュの剣が突き立てられた。 目を背けない。これで文が死んでしまうのなら、それは俺の不甲斐なさの所為だ。 しかし文は寝返りをうつように身を翻し、刺突を辛うじて避けた。 さっきまで文のいた場所に、小規模なクレーターが作られる。 あんなものを喰らえば、間違いなく命を落とす。 俺は無意識のうちに腰に差していた短剣を握っていた。 遠坂から託されたセイバーのカルンウェンハン。 それは今この時の為にあったかのような運命すら感じる。 ギルガメッシュは文の胸を踏む。これでもう彼女は身動きが取れない。 「う……、く!」 だけど、あと少し。あと少しだ。 文がギルガメッシュの攻撃を躱してくれたおかげで、何とか間にあった。 こんな近距離に来ても、ギルガメッシュは文から目を離さない。 英雄王もそれほどまでに余裕がないのだ。これだったら俺でも――。 「――――!?」 強い衝撃の後、気づけば倒れていた。 …………。 何が起こったか理解できない。 ただ、俺の体は文と同じように舗装路へと転がっていた。 ……平衡感覚を失っているのだろうか。 手足を使って起き上がろうとしても、どちらが地面なのかわからない。 それに頭がどうしようもないぐらいに痛い。吐き気がする。 ぬるりとした生暖かい感触が頬を伝う。 その出所であろう側頭部に手を伸ばすと、頭がぱっくりと割れていた。 どうやら、ギルガメッシュの間合いに入った瞬間に薙ぎ払われたようだ。 刀身には刃は付いていないので、鈍器で強打されたのと似た状態だろうか。 だがこれは、やばい。 急速に意識が遠のいていくのが自覚できる。 「あ、……うあ……」 文の名前を呼ぼうとしたが、それは言葉にはならなかった。 視界が狭くなって、目の前が白くなっていく。 意識を失う瞬間、文の顔を一目でもいいから見たい。 だがそんなことをする理由は何だろうか。後悔、憐憫、同情、贖罪、自己嫌悪……。 どんな理由をつけてでも、自分を納得させたいだけなのかもしれない。なんて欺瞞だ。 ギルガメッシュは俺のことなど見てはいない。 ギルガメッシュの攻撃も纏わり付く羽虫を払う程度のものだったのだろう。 現に俺は何の抵抗もできずにこの有様だ。 剣が振り下ろされる――。 そんな時だというのに、彼女はギルガメッシュではなく、俺を、俺の目を見ていた。 頭には何も浮かばない。このまま意識が飛ぼうとしている。 「最後ぐらいは、格好いいところ見せなさい。正義の味方」 そう彼女は言った。 その言葉の直後、英雄王の剣が少女に突き刺さる。 咄嗟に両腕を使って急所を庇うも、削岩機のように回転する刀身に対しては無意味だった。 文の腕をたちまちに細切れにしていく。余計に長く苦しむだけの抵抗でしかない。 「……〜〜ッッ!!」 文は悲鳴を上げない。 歯を食いしばり、一秒でも長く英雄王の攻撃をその身を使って防ぐ。 正義の味方。 それは一瞬でも忘れることはなかった切継との盟約だった。 生涯を捧げると誓った俺自身の夢。 その言葉に、熱が入った。 ああ、わかっている。わかっているとも。 だったら、こんな時に何を呑気に俺は眠ろうとしているんだ。 ここで何もできなくて、何が正義の味方だ! ……剣は、セイバーのカルンウェンハンはまだこの手に握られている。 気絶は一種の防衛本能だ。 その本能に抗って体を起こすのだから、全身を例えようのない虚脱感と苦痛が蝕む。 今死んだって構うものか。 下肢に力を込める。だが膝から下の感覚がなくなったように動かない。 上体だけをなんとか起こした。膝立ちになって、両手で剣を持つ。 「うあああ――ッ!!」 倒れ込むように、カルンウェンハンを英雄王の腹に突き刺した――。 腹の中心に刺された剣は、幾つもの重要器官に損傷をたらしめているはずだ。 だがギルガメッシュの手首から先のない左腕が、俺の体を撥ね飛ばす。 サーヴァントだけが持つ膂力によって、再び地面の上に倒されてしまう。 ギルガメッシュは倒れない。 一歩二歩と後退を許したが、ギルガメッシュは倒れない。死なない。 不死身の化物と戦っているかのような錯覚。 宝具で命を再生するバーサーカーの方がまだ理解ができる。 ギルガメッシュは、己の精神力だけで持ちこたえている。人の理解を完全に超えている。 そして、ギルガメッシュが文にトドメを刺そうとした時――。 「えい」 仰臥したまま放たれた文の蹴りが、ギルガメッシュの腹に生やした剣を押し込んだ。 刹那の出来事だった。 たったそれだけのことで、ギルガメッシュの動きが止まる。 ゴボゴボという奇妙な音と共に、口から気泡混じりの血が溢れた。 尚も文の足に力が込められる。 より体内の奧へと押し込まれた剣は背中を突き破り、切っ先を大気に晒した。 操り糸が切れたかのように、ギルガメッシュは地面に膝を突いた。 「――――」 言葉は遺さない。 前のめりに倒れると、英雄王の体は朝霧の空に散っていった。
後書き 「すげぇあの天狗、落ちながら笑っている……!」 2011.2.10