「文々。異聞録」 第58話










 「……お、わっ……た?」

 喉の奥から発せられた呟きは、まともな言葉にならなかった。

 ギルガメッシュから受けた傷が枷となり、喉がかすれて呂律が回らない。
  指一つ動かそうとしただけでも、体のどこかしらに激痛が走る。

 「ええ。間違いなくギルガメッシュを倒しました」

 そんな不明瞭な俺の言葉に、文が淀みなく答えてくれた。

  少女の体もまた目を逸らしたくなるほど凄惨だったが、瞳には精気が見て取れた。
  だけど本当の懸念は体の傷じゃない。

 「……文はもう、……大丈夫、……か?」

 この戦いに赴く前に彼女の言った『精神の死』は、これで回避できたのだろうか。
  精神的な生物である妖怪を死に至らせる死。
 ギルガメッシュとの戦闘に勝利しなければ、彼女は夜明けには死んでしまうと言っていた。

 そして今、夜はもう明けている。

 「はい、お陰様で。私の心は十全に満たされました」

 にんまりと、それでいてどこか得意げな笑みを俺に向ける。
  文らしい表情。
  少々憎らしげにも感じるが、射命丸文という天狗の少女にはこの顔がよく似合っている。

  ……ああ、よかった。安心した。

  ギルガメッシュを倒し、彼女を救ったのは紛れもなく彼女自身だ。
  だけど、俺も多少なりとも役に立てたかもしれない。
  これまでの戦いで何一つとして、俺は彼女の力になれていなかった。
  だからこそギルガメッシュへの囮となり、一矢を報えられたことは誇りに思える。

 それで文の命が救われたのだ。手放しで喜べない理由はないだろう。



 その文の倒した最後のサーヴァント。
  英雄王の消滅は、今も尚実感ができないほど呆気ないものだった。

  ギルガメッシュは致命傷を負っても、幾度となく立ち上がり、攻撃を仕掛けてきた。
 『精神は肉体を遙かに凌駕する』という手垢にまみれた言葉。
  その体現が現実として、ここにあった。

  だがその男も、文の本当になんてことのない一撃で命を落とした。
  壮絶と呼べる戦いの連続だった聖杯戦争も、最後はあっさりとしていた。
  戦いに劇的なものを求めているわけではないが、ちょっとした呆気なさを覚える。

  英雄王の消失した場所には、カルンウェンハンだけが残されていた。
  そこにギルガメッシュがいた痕跡は何一つ残されていない。
  受肉した肉体さえもエーテルに分解されて、大気の中に霧散したのだろうか。

  セイバーを召喚する為の触媒となった短剣。
  遠坂と約束した『ギルガメッシュの最期をセイバーに見せる』。
  しかしそのカルンウェンハンこそがギルガメッシュを倒す決め手となった。
  もしかしなくても、この短剣を託されなくては、ギルガメッシュを倒せなかったかもしれない。

  当初の約束とは少し違った形になったが、そこは大目に見てもらおう。

 これでもう、聖杯戦争は紛うことなく終わったのだ。

 ライダー、アサシン、ランサー、キャスター、バーサーカー、セイバー。
  そして本来あり得ないはずの8人目のサーヴァントであるギルガメッシュ。
  その全ては、アーチャーの名を持った射命丸文を除いて消失した。

  聖杯戦争の完全なる終結、それは同時に俺たちの勝利を意味する。
  冬木市を巻き込んだ魔術師同士の馬鹿げた殺し合いは以上で終結した。

 達成感や、カタルシスは何一つ感じない。
  俺自身は戦闘に関与せず終わったこともあるが、決してそれだけではないだろう。

 残されたものは、このふざけた戦いをようやく終えられたことの僅かな安堵感。
  それと、体には今後障害が残ってもおかしくない傷だけ。
  当然こうして生きていられたことでさえも十分な結果であるし、救われたものも何かあるはずだ。
 ギルガメッシュの目的は定かではなかったが、結果として冬木を救えたのだと思う。


 ……正義の味方であることは俺の理想であり、誓いが生涯覆ることはない。

 その正義の味方としての行為が、分かりやすい形で示されたのだと思う。
  だがそれで得るものがあるかと言えば、ただの自己満足だけでつまるところは何もない。
  それを今、身を以て理解した。
 感謝されるとか、金品を得るとか、そういう見返りや打算を望んでいるわけじゃない。
 かといって、この行為は自己犠牲なんて高尚なものでもない。
  俺がやりたいからやっているだけの、極めて身勝手なエゴイズムだった。

  ただ。

 『最後ぐらいは、格好いいところ見せなさい。正義の味方』

  ギルガメッシュと対峙したときに文から投げかけられた言葉が、胸のなかを燻っている。
  ……いいや、違う。
  その言葉が、明確に胸の奥深くで燻っていた熱に気付かせてくれた。

 十年前の聖杯戦争。
  その大火災の時に負った火傷は未だに癒えきってはいない。
  唯一生き残ってしまった俺は、あの時からほんの少しずつ体を焼き続けていた。
 それは自覚ができないほどの微熱。
  その緩やかな熱は全身を燃やし、いずれはこの身を破滅という形で焼き尽くすだろう。

 そんな『正義の味方』の終着点はもう決まっている。
  この理想を追いかける限り、自身の死という形でしか終わらせることはできない。


  そうだとしても切嗣から託された理想はとても綺麗なもので、間違いなんかじゃない。
  例え俺自身がまがいものでも、信じたものが正しければ、いつかは得るものはあるんじゃないのか。
 そう思えるだけで俺は後ろを振り返ることなく、この道を進んでいける。

 だったら、この理想は決して間違いなんかじゃないんだ。


 …………。


 聖杯戦争が終わったという安堵の反動からか、意識が急速に遠のく。

  確認するまでもなく、全身至る所に裂傷を負っており、特に腹と頭の傷は酷い。
  ギルガメッシュの宝具による刺突と、殴打。
  こうして今も命を繋げているのは、何かの偶然としか思えない。

  体はとてもじゃないが、この横たわった状態から動きそうもなかった。
  血を流しすぎたのだ。止血をしないと命に関わるだろう。
 少しでも気を抜けば、たちどころに意識は寸断されてしまう。もう限界に近かった。

 夜が明けた筈だったが、視界は薄暗くモザイクが掛かったような状態だった。
  極度の貧血症状が、一時的に視覚を狂わせているのか。

  その曖昧な視界に映る少女の姿。
  彼女の受けた外傷は、俺とは比較にならないほど酷いものだ。
  常人なら死に至る傷を幾つも負っている。

  そんな文だったが、彼女はもう座って休める程度には回復していた。

  英雄であるギルガメッシュを倒すことで、命を拾うことができたのは間違いないようだ。
  つい数時間前までの死にそうだった少女と重ならない。
  外傷は今の方が酷いが、彼女から感じる雰囲気は重大な傷を負ったもののそれではない。

  それほどに血色がよく、表情も傷の痛みを感じていないかと思うほどに明るい。

  だとしても、背中と腕と脚に負った傷は目を覆いたくなる。
  それほどまでに、凄惨な傷だった。
  背中の肉が掻き回されて、残った方翼も一部が別の肉とぐちゃぐちゃに掻き回されている。
  細い指もまた、一本一本も欠けずに残っていることが不思議に思えてしまう。
  新聞記者であるのに、このままではペンを握ることもままならないかもしれない。
 そして右足からは脛骨がはみ出していたが、何を思ったのか文は骨のはみ出た足を引っ張り始めた。

 「ふ、くううぅぅ……!!」

  よほど苦痛が伴うのだろう。彼女らしくない呻き声を上げている。
  脛骨が本来あるべき場所に無理矢理戻っていく。

 そういえば腕も折れ曲がっていたはずだったが、それはもう気づかぬうちに治っている。
  信じられない光景だった。
  妖怪にとって毒となる英雄の攻撃に比べれば、落下による外傷など取るに足らぬものなのだろうか。

 そうこうしているうちに、文は既に立ち上がっていた。
 ギルガメッシュが完全に消滅してからものの5分も経ってない。

 「落下のダメージは見苦しくない程度には治ったけど、腕と背中は当分治りそうもないわね。
   自分じゃうまく見えないけど、背中は相当グロいことになってそうだわ」

 陰惨な内容とは裏腹に、文の口調はどこまでも軽い。

 「ま、でも解毒は済んだし、後は時間が解決してくれるでしょう。
   ……さて士郎さん、まだ意識ありますか?」

 「…………」

 口を動かそうとしても、もう声帯を震わせる体力も残っていないことに気づく。
 まともな反応を示せない俺に、文は手を振って眼球の動きを確認する。

 「あー……、これはヤバいですね。
   止血を済ませて、さっさと病院に連れて行きましょうか」

 文は手慣れた動きで、俺の止血処置を済ませる。
  これで失血による死は、大分遠のいただろう。
  ……ああ、これならもう意識を手放してもいいかもしれない。

 「もう眠ってもいいですよ。
   意識を保たなければ、死んでしまうようなこともないでしょうし。多分」

 最後に不穏な言葉をぽつりとこぼしたが、ここは文に甘えよう。
  聖杯を賭けての戦いはもう終わったのだ。

  心配することは何一つない……、はず。

 …………。



  ……いや、違う。待つんだ。
  何か奇妙な引っかかりを覚える。なんだこのもやもやした感覚は。

 サーヴァントは全て倒されて、聖杯戦争はこれで終わった。これは事実だろう。
 だがそもそもこの聖杯戦争とは何を目的とした戦いだったのか。
 その名が示すとおり、考えるまでもなく聖杯を勝ち得るための戦いだったはず。

 俺は聖杯には興味はない。
  だが文が勝ち残った以上、聖杯は顕在化するはずだ。
  そう遠坂にも聞かされている。
  なら聖杯はどこに顕れる? 俺たちの目の前にいきなり顕れるものなのか?

  ……そんな予兆は未だどこにもない。
  だとすると、何かが間違っているのか?

  そうだ。遠坂はどこにいった? 
 『思い違いだといいんだけど、気になることがあってね』
  確かそう言っていた。一体なんのことだ?

  それだけじゃない。
  ギルガメッシュは、公園で誰かの名前を口に出していた。
  まだ半日も経っていないはずなのに、白濁とした意識の中で誰だったのか思い出せない。

 ……胸騒ぎがする。俺の思い過ごしだといいが、とてもそうは思えない。
  だが一度気を抜いてしまった所為で、意識が底の見えない谷に転がっていくように落ちていく。

 文は体の調子を確認する為にか、屈伸運動をしていた。

 「そう言えば、こんな時間に病院は開いているのかしら?
   ここまで発達した社会だし、急患を受け入れるシステムがないとは思えないけど。
   ……うーん、でも私もこんな有様だし、変に質問されても面倒ね。
  士郎さんを病院の入り口にでも転がしておけば誰か気づいてくれるでしょうか?」

 あんまりな言葉が聞こえるが、今はそれどころじゃない。
 気を失う前に、どうにかして文にメッセージを伝えなければ……!

 「……ッ! ……!!」

 何とか声を出そうと全力で声帯を震わせようとしたが、それは言葉にならなかった。
 そんな思考とは反対に体はもう声を出すこともままならない。

  文は俺の様子がただ事ではないことに気づいたのか、運動を止めて俺の顔を覗き込んだ。

 「どうかしましたか?」

 僅少に眉目を垂らし、少しだけ心配そうな文の顔。
  もしかしたらこんな顔の文を見たのは初めてかも知れない。

 「…………ッガ、くぅ」

 どうやっても、言葉はでなかった。
  視線を動かすのがやっとで、頭のなかを伝える手段が思いつかない。

 彼女は烏天狗であって、覚り妖怪ではないのだ。
 洞察力は優れていても、読心能力のない彼女に思考が伝わるはずがない。
 それでも俺の言わんとしていることを汲んでくれようと、文は顎に手を置き思考を巡らせる。

 「……あ、もしかして保険証の心配ですか?
  あれがないと、確か病院の治療費が馬鹿高くなるんでしたよね?」

 もう駄目だ。意識が――。

 「……そんなマスターの懐事情を心配するサーヴァント。
  強いだけではなく、経済観念まで熟知した私って、どれだけ完璧なんでしょうか」

 最後に見たのは、得意げにふふんと鼻を鳴らす文の姿だった。





 ――――――――――





 「ま、人間じゃここらが限界かしらね」

 衛宮士郎が気絶したのを確認すると、文は赤い瞳を鋭く細めた。
 たったそれだけのことで、少女の持つ明快な印象が酷薄なものにと変貌する。

 気絶した衛宮士郎の体は見た目以上に筋肉質で其相応に重量はあるが、
  文は握力の効かない腕で持ち上げ、軽々と肩に担ぎ上げた。
 少女の方が10センチは身長が低い為、妙にアンバランスな光景ではあった。

  もう朝の6時を周り、幾分ではあるが冬でも明るい。
  それにちらほらと人の姿も見え始めてきた。

  あまりにも人の目につく傷を負った少年少女。そのうちの一人、少年は意識を失っていた。
  決して見られてはいけない。ここで見つかると何かと面倒だった。
  少女はまだ飛べるほどには回復していないが、それでも隠密行動は本業の範疇。
  ただの人間の目など容易にかいくぐれる。

 目的地である緊急病院はセンタービルと同じく新都に存在している。そう遠くはない。

 「では、行きますか」

  そう呟いた瞬間には、センタービルに少女の姿はなかった。

 …………。


 搬送と呼ぶには些か乱暴な運び方だったが、病院に士郎を届けることができた。
 届けると言っても人に見られるわけにはいかなかったので、エントランスに放置だが。

  一応身元が判るように財布を仰向けに眠る少年の上に置いておいたので大丈夫のはずだ。
  満身創痍の少年。遠目からでも目立つ存在だ。
  
  「……無視されることはないわよね。多分」

  もっとも、ただの事故では片付けられないような刃傷が無数にあるため、
  意識が回復した後は官憲の詰問で何かと忙しくなるだろう。
  しかしそんなことは文の関知することではない。彼女はその程度には優しくない。

 これで自由になった。だがやるべきことはまだある。

 「さてと――、面倒だけど後始末でもしますか」

  次の目的地も同じ新都内にあった。
  同じ新都と言っても街の郊外にあり、往来の良い場所とは言えないかもしれない。
 小高い丘の上に立つ教会。
  今聖杯戦争の監督を務める言峰綺礼が住む言峰教会こそが最後の目的地だった。

 …………。

 文の目の前には、良質のオーク材で作られた重厚な扉。
  聖杯戦争の初日、かつて訪れた時とは状況が全く違う。律儀にノックなどはしない。
  鍵は掛かっていなかったかもしれないが、そんなことを確認するのも面倒なので蹴り破る。

 「おっはようございますー。
   清く正しく、そして聖杯戦争の勝者である射命丸ですー」

 文の明快な声が教会に響き渡る。
  そして、室内の状況は想像以上にあからさまだった。

 神事を執り行う場所であるはずの教会にはあってはならない光景と言えようか。

  薄暗い白い壁面に飛び散るのは、真新しい血液。
  室内の中央奥、祭壇の近くには同じ血を浴びたであろう長身の男。
  その傍らで、倒れ伏せる少女が二人。

 鮮度の良い血の匂いが文の胃袋を刺激し、ぐぅと微かな空腹を覚えてしまう。
 ギルガメッシュの血肉を喰らった所為か、理性が妙に脆くなってしまっている。
  幻想郷に住む高位の妖怪として、些か行きすぎた感覚だった。
  これじゃ本能だけで生きる獣と何ら変わらない。自重しなければと、少女は内省した。

 「……中年男の足下に少女が二人。ふむ。
  一面を飾ってもおかしくないネタですが、生憎今日の私はカメラを持ってきていません」

 初めて邂逅した時と何ら変わらぬ様子で佇む言峰綺礼の姿。
  突然の闖入者である文を見ても何ら動揺を見せない。
  感情がないわけではないだろうが、その姿は文に屍蝋を彷彿とさせた。

 そんな黒衣の男の足下には、数時間前に顔を合わしたばかりの少女である遠坂凛。
  赤い服飾の上からでも判る黒ずんだ血の染み。何かしらの方法で脇腹を抉られたようだ。

  返り血を浴びていることを考えるに、下手人は言峰綺礼と考えて十中八九間違いないだろう。

  遠坂凛のような聖杯戦争を戦い抜ける魔術師に、無傷で決定的と言える傷を負わせたのだ。
  相当な戦闘力は有していると考えて間違いないのかもしれない。

 (まぁ人間にしてはだけどね)

  遠坂凛は長椅子に寄りかかり、傷を片手で抑えている。意識は失ってはいないようだ。
  出血は激しいが、そこまで酷い傷ではないのだろう。

 「あんた……、どうしてここに」

 そしてサーヴァントの来襲に驚きを隠せぬままに呟いた。

 「凛はしゃべれる程度には元気みたいですね。
   ……そういえば、カメラといえばデジカメほしかったなー。それだけは心残りかも」

 少女の質問を適当にあしらうと、もう一人の倒れた少女の様子を探る。

 「…………ッ!」

 幻肢痛。失った筈の片翼が微かに疼いた。

 「……イリヤさん?」

  バーサーカーのマスターであるイリヤスフィール・フォン・アインツベルンだった。

  気を失っているが、遠坂と違って外傷は見あたらない。だがそれとは別に様子が明らかにおかしい。
 姿形は人のそれと変わらないが、これは本当に人間なのか。 
  人としての因子は間違いなく持っている。そうでなければ、初見で気づかないはずがない。

  ただ、溢れ出る魔力が常軌を逸していた。
  こうして知覚できる範囲でも、人間の抱えられるような魔力量ではない。
  まるで魔力だけで満たされた広大なプールを見ているようだ。

 (…………??)

 ただ、射命丸文は魔術についての見識はさほど深くはない。
  文をここに立たせる原因となった魔女なら看破できそうなものだが、ここにいない以上は詮無いこと。

  これ以上は考えても判らないだろうと、文は本来の目的である男に視線を戻した。

 「改めましておはようございます。素晴らしい朝ですね」

 手を挙げて挨拶をする。
  その右手は、ミキサーへ突っ込んだようにボロボロだ。
  何も知らぬ者ならぎょっとしてしまう醜状であろう。

 「フッ、……本来であればよくきたとでも言うべきだろう。
  だが些か状況が悪かったな、何故ここに来た?」

 手を見せる行為は、多少の脅しを掛ける意味があったが、男は眉一つ動かさない。
 一切意に介すことなく、淡々と自身の疑問を告げる。

 「聖杯戦争に勝ち残ったので、聖杯を受け取りに来ました」

 おそらく、これは確信と言える言葉であろう。
  文は僅かな表情の変化でも決して見逃さないよう、男の顔を凝視する。

 「……ほう。聖杯がここにあるとでも思ったのかね」

 だがそれもまた無駄に終わってしまう。表情には何の変化も見受けられなかった。
  ならこれ以上の脅しや牽制は、この男に取って意味を成さない。

 方や遠坂凛は、少し気まずそうに目を逸らしている。
  露骨に腕を見ないようにしているので、傷の状態を気にしているのは間違いない。
  おそらくは荒事にそこまで免疫がないのだろう。年相応の少女然とした反応と言えた。

 その愛らしさに文は口角がつり上がりそうになるが、それを寸前のところで抑える。

  (……やっぱり意識が露悪に傾斜してるわね。もう少し自制心と美意識を持たないと)

 ここ一週間以上にも及ぶ聖杯戦争と人喰いにより、長年培ってきた体裁を失いつつある。
 今し方、血の匂いを嗅いだときもそうだが、あまりよろしくない精神状態だった。

 「ギルガメッシュが貴方の名前を出していたのを思い出しましてね。
  その興味本位が大半の理由です。そしたらこんな光景が広がってるじゃないですか」

 「私としても教会を血で汚すようなことはしたくなかったのだがね。
   凛の訪問がなければ、私は既に聖杯の力を行使していたことだろう」

 「聖杯……? そんなものどこにあると言うのですか?」

 「く、そう聖杯だ。あらゆる奇跡を可能とする願望器は既に顕在化している」

 「はい? 私は聖杯戦争の勝者なんですけど、そんなものはどこにも顕れませんでしたよ?」

 「目聡そうに見えて、意外と鈍いのだな、此度のアーチャーは。
   君の目の前にあるアインツベルンの少女こそが、聖杯なのだよ」

 そう言われて、文はようやく気づく。
  この場に横たわるイリヤスフィールという少女こそが、聖杯そのものだというのか。

  だがこれでイリヤが抱える尋常じゃない魔力に納得ができた。
  冬木市の聖杯戦争。
 聖杯がその名の通りに杯である必要はないということなのだろう。
  幻想郷に住みながら、そんな固定観念や常識に囚われていた自分が少し情けない。

 「それにしても、やけに素直にべらべらと喋りますね」

 「君は私を殺しに来ただろう?
   私が何を告げようが、その意志は変わることはないとわかったのでね」

 「……へえ、そういうのわかるものなんですね。おくびにも出さないつもりでいましたが」

 「くくく、教会の扉を蹴破っといてよく言うものだな。
   それになに、今日まで神父として生きてきたのだ。他者の心も判らずに告解など聞けぬよ」

 「ごもっとも」

 …………。

 「……ところで君一人かね。衛宮士郎の姿が見えないようだが」

 両者の会話が少し途切れたところで、言峰綺礼がそう尋ねた。
  強く意識しなければ分からない程度だったが、語調に変化があった。

 「彼ならもうリタイアです。今頃は集中治療室のベッドの上でしょう。多分」

 「そうか、それは残念だな。
   今この状況で往年の仇敵、衛宮切嗣の息子に会っておきたかったが。
   まあいい。……それでアーチャー。君はどうする?」

 「貴方がこの世界で何をしようが、私の知ったことじゃありません。
   ですけど、士郎さんに義理立てする程度には世話になっていますからね。
  貴方には悪いですけど、ここで完全に死んでもらいます」

 ここで初めて表情らしい表情を浮かべた。
  しかしその喜色を浮かべる様子からして殺すと言われたことについてではないようだ。

 「……完全に、か。
   はははっ、奇妙な物言いだが、言い得て妙ではあるな。
   だがこの仮初めの命が動く限りは抵抗させてもらおう――」

 いつの間にか、言峰の手には幾つもの剣が握られていた。

  その指の間に挟むようにして構える剣は、黒鍵と呼ばれていた。
  聖堂教会に所属する代行者の正式武装として使われており、刃渡りは1メートルにも満たない。
  切ることには向かず、投擲することを主とする概念武装である。

 今の文の位置は、投擲武器を持つ言峰には十分な間合いだった。
 だが文はそれを見ても構えようとしない。ただ赤い瞳は言峰綺礼を捉えていた。

 「あんた、傷だらけじゃない。そんなんで大丈夫なの……?」

 遠坂凛の言うとおり、ギルガメッシュ戦での傷はほとんど癒えていない。
  今の文は幻想郷最速と呼ばれていた頃とは程遠いどころか、未だ空も飛べずにいる。

 「息も絶え絶えな凛には言われたくない言葉ですね。
   ま、今出せる実力は、ざっと見積もって絶好調時の5%ほどですけど。
  なんにしても、人間相手なららくしょーでしょう」

 気の抜けた文の言葉とは裏腹に、遠坂の声色は怒気すら孕んでいた。

 「そんな風に、綺礼を甘く見ないで……! 私の魔術師としての兄弟子だし、
  それに、異端狩りのエリートである埋葬機関の代行者なのよ……。
  あんたが思っているほど、一筋縄でいく相手じゃないわ……!」

 「ふぅん。
   ……で、その大仰な経歴を持つ神父さんは私に勝てるつもりでいるんですか?」

 言峰綺礼を捉えていた文の視線が突き刺すように細められる。

 「……我ら代行者が生半可な覚悟で黒鍵を執ることはない。
   我らができるのは、常に自身の行為を是とすることだけだ」

 「はぁ、そうですか」

 言峰は姿勢を低く構えると、両の手に持つ黒鍵を文に向けた。

 「……今までは退治される側だったけど、貴方はただの喰われる側の人間。
  そこのところ理解してます? これは理性の話じゃない、本能の話。
  こんな台詞、三流の雑魚が言うものだけど、今回だけは言わせてください」

 その言葉と同時に、言峰は黒鍵を投擲する――。

 合計にして八本の剣の矢が、少女を狙う。
 ある程度の広さのある教会とはいえど、戦闘をするにはそう広い空間ではない。
  均一に備え付けられた長椅子も、文の行動範囲を限りなく狭めていた。

 高速で飛来する剣の群を前に、文は言峰を睥睨したまま微動だにしなかった。


 ……文の目の前にいるのは人間。
  これまでの英霊とは違う。魔を滅ぼし、伝説に名前を残す稀代の英傑ではない。
  極限まで鍛え上げただけの、ただそれだけの人間。

  これは人間が妖怪と平等に戦えるためのルールが敷かれた弾幕ごっこではなく。
  ただの殺し合いに人間が妖怪に挑む。それがどういうことなのか誰も理解していない。

 「――あまり天狗を舐めるなよ、人間ども」

 閉ざされた教会に、暴風が鳴った。
 文に放たれた八本の黒鍵は、ただの一本も届くことなく無慈悲に弾かれた。








































 後書き


 お待たせしました。
  もうゴールはそこに見えているというのに、思いっきり休んでしまいました。
  ウサギとカメのウサギより酷いかもしれません。
  ウサギがゴール寸前で、永眠したようなものですから。今回なんとか息を吹き返しましたけど。

 待ってくれた方、本当にごめんなさい。それ以外に言うこともないです。



 2011.7.22


next back