「文々。異聞録」 第59話







 目を覚ますと、異常な喉の渇きを覚えた。
 更には目が痛くなる眩しさと、吐き気がするほどの気持ち悪さまでも感じる。

 五感と、頭の回転が極限まで鈍化しており、今の状況がまったく掴めない。
  何よりも全身の痛みで身じろぎするのもままならなかった。

 ……暫く嘔吐感に耐えていると、明順応が進み視界が徐々に開けてくる。
  目に痛いまでの白一色。それと鼻に付く消毒剤の臭い。
 清潔そうなベッドに寝かされており、腕からは点滴までもが伸びていた。

  総合的に察するに、ここはどうやら病院のようだ。

  文がギルガメッシュを倒した後、俺はそのまま力尽きて倒れた。
  生きて病院に居ることを察するに、あの後、文がここまで運んでくれたのだろう。

 それから10分ほどして、点滴の交換に来たと思われる看護師が現れた。
  状況を尋ねようと声を掛けると、こちらの話を聞かずに慌てた様子で医者を呼びに行ってしまった。

 更に5分ぐらいして、担当医らしき男性が姿を見せ、話し掛ける間もなく検査が開始された。
  それが済むと、これを飲むようにと何種類かの経口薬を手渡される。
  効能は不明だが、医者の手渡すものに間違いはないだろうと思い、ぬるめの水と嚥下した。

  落ち着いたところで、ようやく医者に状況を尋ねることができた。
  どうやら俺は丸三日も寝たままだったらしい。聖杯戦争は遠い昔に終わっていた。

  病院に運ばれた時、俺はかなり危険な状態だったようで、緊急の手術をしたらしい。
  もっとも意識がなかった為、手術自体は覚えていない。
  手術の甲斐あって一命は取り留めたが、全身包帯まみれになっていた。

 それから休む暇もなく、息を切らした藤ねえが、血相を変えて駆けつけて来た。
 そういえば、一応彼女は俺の保護者にあたる人物だった。

  その時の状況は、教職員としての彼女の名誉のために割愛しよう。



 …………。



 その後はずっと、ベッドの上で身動きが取れない日々を過ごすことになった。
  今はもう集中治療室ではなく、普通の病室に移されている。

 担当の医師が言うに俺の回復力は目を剥くほどらしく、場合によっては早期退院も可能とのこと。
  それにはまず、リハビリができる段階まで回復する必要があるようだ。

  あれから藤ねえや一成などの見舞客は来たが、文の姿は見ていない。

 その代わりと言うべきなのか、警察が来るようになった。
  まともに話ができるようになったのを見計らったようなタイミングだ。

  人為的としか思えない外傷を負う経緯を訊かれたが、
  神秘は秘匿するものでもある以前に、正直に話しても信じてもらえる内容ではない。
  『古代ウルクの王であるギルガメッシュに襲われた』と言ったところで正気を疑われるだけだ。

  警察には当時の記憶がないと、嘘をついてはぐらかすことにした。
  頭にはギルガメッシュの宝具で殴られた傷がある。その影響で記憶がとんだとしてもおかしくない。 
  怪我の功名と言っても語弊はないが、あの時の激痛を思い出すと手放しで喜べたものではなかった。

  全てを知らぬ存ぜぬで、尋問のプロ相手に押し通すのも難しい。
  もしかしたら、警察とは長い付き合いになるかもしれない。そう考えると少し憂鬱だった。
  聖杯戦争の影響で、冬木は不可解な未解決事件が幾つも重なっている。
  ここに訪れた老齢の刑事がどこかピリピリしていたのは、決して気の所為ではないだろう。



 その聖杯戦争の顛末だが、何日か前に現れたイリヤに全てを聞いた。

 思いもよらぬ来訪に驚きもしたが、これまでイリヤはどうしていたのかと尋ねると、
  アインツベルンの森での戦いの後、言峰綺礼に拉致されたらしい。
 この聖杯戦争の背景には、監督役であるはずの言峰綺礼の暗躍があったのだ。
 ……今はもう記憶も定かではないが、気絶する前に覚えた懸念はこのことだったと思う。

  そして、俺が気絶した後に起きた顛末も包み隠さずに教えてくれた。
  聖杯のこと、イリヤのこと、遠坂のこと、言峰のこと、文のこと。

  全ては俺が眠っている間に終わっていた。
  言峰教会へと現れた文が、教会をしっちゃかめっちゃかにして終わらせたという。
  もっともイリヤも意識がなかったらしく、その場にいた遠坂から詳細を聞いたようだが。

 そんなことがあったのに、俺は呑気に気絶していた。
  正義の味方を目指す者として、あまりにも情けない話だった。

 自分の不甲斐なさで自己嫌悪に陥っていると、イリヤがこれでもないぐらいに慰めてくれた。
  少女の過剰なまでの献身にこそばゆさを感じていたが、安らぎを覚えたのも確かだった。

  『正義の味方なんて目指さなくてもいい』とまで言ってくれたが、それは俺が切嗣から託された理想だ。
  それだけは何があっても頷くわけにはいかない。
  その時のイリヤの表情は何かに堪えるように寂しげだったのが、今もまだ脳裏に焼き付いている。

 『ばいばい、また来るからね。お兄ちゃん』

 イリヤはそう言って、病室から去っていった。
  そしてそれから毎日、彼女は見舞いに来てくれている。どうやらドイツにある家にはもう帰らないそうだ。
  見舞いというのは本人談だが、俺には病室に遊びに来ているようにしか見えない。
 それでも頼みごとは聞いてくれるし、退院してから暫くはイリヤに頭が上がらないかもしれない。

 そのイリヤによると、どうも遠坂もこの病院に入院していたらしい。
 結局一度も顔を合わせることなく、彼女は一足先に退院してしまった。
  俺は立って歩くこともままならないので、退院の前に一度ぐらいは会いに来てもらいたかったが。

  ……そういえば、セイバーのカルンウェンハンはどうしたんだろうか。
  文はあの後、ちゃんと回収してくれたのか? あの短剣は遠坂から一時的に借りていたものだ。
  最終戦のゴタゴタで失くしたなんて彼女に言ったら、ただじゃ済まないのが予想できる。

  文と未だに会えてないことに加えて、それも懸念の一つだった。



  ……それと、桜は一度も見舞いには来ていない。
  桜の家で最後に会った時、桜はこの世の終わりのような顔をしていたのを覚えている。
  文は何か知っているようだったが、詳しくは聞いていない。
  文は『桜から話してくれるのを待つべき』と言っていた。
  だとしたら、聞いてやらないわけにはいかない。退院したら、真っ先に桜に会いに行く必要があった。

  それに慎二のこともある。
  今はまともな精神状態ではないが、ライダーを使って、学園で死者を出すまでの暴挙に出たのだ。
  どんな形になるにしても、いつかは話をつけなければならない。

 聖杯戦争は、冬木に幾つもの傷痕を残している。
 俺の知る限りでも、両手の指じゃ足りないほどの人が死んだ。

  俺にもう少し力があれば、救えた人もいたかもしれない。

  だけど、そう考えるのは無意味でしかない。
  10年前の大火災と同様に、過ぎてしまった過去はどうやってもやり直せない。
  だから、彼らの死をいつまでも忘れてはいけない。なかったことにしてはいけない。
  そして人々の犠牲を無為なものだと踏みにじり嘲笑う者を、許してはいけない。

 それだけが死んでいった人たちにできる俺の全てなのだ。





 ――――――――――





 病室で文を待つ。
  目を覚ましてから、今日で丁度二週間が経った。
  リハビリのためのハンドグリップを握りながら、窓の外を眺める。

 「ふう」

 恥ずかしい話だが、一日千秋の想いとはまさにこのことだ。
  会って話したいことも沢山あるが、とにかく今は彼女の姿を見たかった。

 今日に至るまで、つまりは聖杯戦争が終わってから一度も文を見ていない。
  その理由はわからない。
 聖杯戦争がこうして終わった今、俺のことなど瑣末事であり、どうでもいいのかもしれない。
  今も尚姿を見せないことを考えると、その可能性も十分に考えられる。

 それでも文は、必ず俺に会いに来る必要はあった。
  その一点だけで、俺と文はまだ繋がっていると言えるのだろう。

 聖杯戦争で召喚されたサーヴァントは、聖杯の魔力によって現界している。
 しかし、イレギュラーである文はその枠組みから完全に外れていた。
  聖杯により受肉しているわけでもなく己の肉体を持ち、マスター無しに力を存分に振るえた。
  もっとも、聖杯から一切の知識を授かっていないなどのデメリットもあったが。

 そして聖杯を失った今でも、この世界から消えてしまったわけではない。
  文は未だ現界していると確信を持って言えた。
  その最たる証拠に、本来は消えてしまうはずの令呪の一画が今も左手の甲に刻まれている。

 この令呪を使わない限り、文はこの世界から離れることはできない。
  文は幻想郷に還るためには、必ず俺に会う必要があるのだ。

 それを俺は、いつまでも待っていた。


 …………。


 そして、それは呆気なく実現された。

 陽が沈みかけ、人の顔の見分けがつかなくなる、そんな黄昏時。
  面会時間の終わる一時間ぐらい前だっただろうか。

 遠慮がちなノックが二回。

 「こんにちは、士郎さん。……あら? 今はこんばんはですかね」

 「……文」

  病室のドアから、夕日に染まった少女がひょっこりと顔を出す。

 「まぁどっちでもいいや。どうもお久しぶりです。射命丸文です」

  奇をてらって、窓から来るのかと構えていただけに少し拍子抜けだった。
  日がな一日、馬鹿みたいに窓の外を見張っていた意味が水泡に帰した瞬間だ。
  が、今はそんなことどうでもいい。
 再会は決して劇的ではなかったが、何も変わらない少女の姿に僅かな感動を覚える。

 「うん。久しぶりだ」

 彼女のトレードマークである頭襟と高下駄は今日も外していた。
  一般の見舞客と同じように入ってきたのだろう。今更ながら凄まじい適応能力だ。

 「おお、個室ですか。意外とお金を持っているんですね。衛宮家の財力を侮っていました」

 普段と変わらない軽妙な口調で俺に話し掛けてくる。
  こうして何があっても態度を変えず接してくれる少女に、少し笑みが溢れそうになる。

 「藤ねえみたいな騒がしい見舞い客が来ると、他の入院患者の迷惑に成りかねないからな」

 俺もまた、彼女に倣って軽口で返す。
  口では藤ねえに悪態を吐くが、言うまでもなく、それぐらいの良識は持っている。
 そもそもこの個室は藤ねえの実家である藤村組が懇意で手配してくれものだ。

 「なるほど」

  そう気のない返事をして、文は病室にある備え付けの椅子に腰を掛けた。

  肩に掛けていた大荷物を病室の床に置く。
  子供がすっぽり入ってしまいそうなほどの大きなスポーツバッグだった。
  この世界に来たときよりも明らかに大きな荷物だ。

 それを見て直感してしまう。これが文と会う最後の機会なのだと。

 「……還るのか? 幻想郷に」

 「はい。ここでの用も大体済みましたからね。多少の心残りもありますけど」

 にべもなくそう答えた。
 最後だというのに感傷的なものはなく、薄情と言えるほどにごく普通の態度。
 それもまた彼女らしいかもしれない。

 「それで、怪我の具合はどうですか?」

 「……まだリハビリを始めたばかりだけど、後遺症は残らないみたいだ」

 暫くは点滴生活が続きそうではある。
  食欲は戻ってきているので、美味しいとは言い難い病院食が続くのは少し滅入る。
  入院患者のありがちな話ではあるが、油っ気のあるものが食べたかった。

 「ほほう、それはなによりです。あ、林檎剥きましょうか」

 文の目を追うと、フルーツの詰め合わせが入ったバスケットがあった。
 藤ねえが初めて病室に訪れた時、持ってきてくれたものだ。

  持ってきたその日のうちに食べ尽くされるかと懸念したが、
  藤ねえは包帯だらけの俺の姿を見て、泣きはらした顔で手をずっと握り続けてくれた。
  普段とは違う一面に少しどぎまぎするも、女性とは思えない握力に俺の手が握り潰されそうだったが。

  ……やはりそれは藤ねえの名誉のため、早々に忘れてしまおう。

 「悪い。頼めるか?」

 「私も食べたいですしね。お、この林檎は蜜が多そうです」

 「……文の傷は大丈夫なのか?」

 ナイフで手際よく林檎をくし形切りにしていくが、指先まで巻かれた包帯が痛々しかった。
  林檎を剥ける程度には回復しているのだろうが、万全とはとても言えないだろう。

 「私ですか? まあ後遺症という意味では私の方が重傷かもしれませんね」

 そう言って、自分の背中を覗き込む素振りを見せる。
  文の背中に生えていた翼は、バーサーカーにもぎ取られて、ギルガメッシュに切り刻まれた。
 今は隠してあるのか、その翼は確認できないが、そう簡単に治るものではないだろう。

 人間には翼はない。
  だが空を駆ける天狗に取って、翼を失うのがどういうことなのか、想像に難しくない。

 「もし俺が……」

 「おっと。その先は言わせませんよ。
   なに自分が悪いみたいな顔しているんですか、心外極まりありませんね。
   貴方は初めから戦力に数えていません。気にされるだけ不愉快です」

 『貴方の責任じゃない』と、慰めているようにも聞こえなくもないが、
   文のことだ、本心からそう思っている可能性が高い。というか、本心だろう。
  
 『俺が強ければそんなことにはならなかった』なんて仮定は彼女に取っては侮辱でしかないのだ。

 「まあ飛んだり跳ねたりする分には、そんなに問題ありません。――どうぞ」

 出された皿には、ウサギの形に切りそろえられた林檎が並んでいた。
  今の話で不快そうな顔をしても、手元では可愛らしい作業をしていたようだ。

 「…………」

  ごく希にこういう微笑ましいところを見せるのは、文の計算なんだろうか。

 「どうかしました?」

 ウサギ型の林檎をさも美味しそう食べる文を見るに、割とそこは天然なのかもしれない。



 …………。



 「それで、今日まで何してたんだ?」

 「ネタ探しの取材です。冬木だけではなく、日本各地を行脚していました。
   聖杯戦争よりもずっと有意義な時間でしたね。百年ちょっとで日本変わりすぎですよ」

 先程までとは打って変わり、語調を上げて興奮した様子で話し出す。
  本職が新聞記者なだけあって、好奇心は人並み以上なのかもしれない。
 いつだったか長く生きて感動が薄らいでいると言っていたが、本当のことなのか怪しくなってきた。

 ちなみにここは幻想郷とは別世界の日本とのことだが、そこまで大きな違いはないらしい。

 「んで、これはお土産です。
   申し訳ありませんが、見舞い品と一緒ということにしてください」

 そういって、マトリョーシカを渡された。
  人形のなかに人形が入っているロシア名物のアレだ。……文は一体どこに行ってたんだ?

 「ああ、ありがとな」

 ニコニコと笑みを浮かべる文を、邪険にすることはとてもじゃないけどできない。
  そうだ。お土産と言えば、俺からも渡すものがあったのだ。
 この世界を発つ日にと思って用意したものだが、それはおそらくは今日になるだろう。

 「これお土産。イリヤも金を出してくれた」

 ついでに病院から動けない俺のかわりに買ってきてくれたのもイリヤだった。
  本当は藤ねえに頼もうと思ったが、学校で起きた事件のこともあってか、かなり忙しいらしい。
  イリヤには本当に頭が上がらなくなりそうだな……。

 「ほうほう、ありがたく戴きます」

 手渡された直後に有無を言わせずに開封する。
 せっかくイリヤが店員に頼んでラッピングしてもらったのにあんまりではないだろうか。

「……おお!
 デジカメじゃないですか! いいですか!? 本当にいいですか!?
 今返せと言われても返しませんよ!?」

 一眼レフのデジカメ。
  入院中に文が欲しがっていたのを思い出したのだ。
  それも初心者が使う入門機ではなく、プロが扱うような上位モデルである。
 コペンハーゲンのバイト代ではどうにもならなかったので、イリヤに一部を出してもらうことになった。

 「ああ。一応記録用メディアも入れといて貰ってあるから、後は説明書を見てくれ」

 そう言うよりも先に文はぺらぺらと分厚い説明書に目を通していた。
  デジカメを手に取る文の瞳は、今日までの付き合いのなかで初めて見るぐらいに輝いていた。

 ……ひょっとして、この世界の心残りってデジカメのことだったんじゃないだろうか。

 まあ、幻想郷ではデジカメを現像するのにも一苦労だろうが、妖怪の一生は長いらしい。
  そこは気長に頑張ってもらおう。
  顔も知らないが、彼女の知り合いだというエンジニアの河童には心のなかで謝っておく。

 こうして破顔する天狗の少女は、どう見ても普通の女の子だった。
  そこを文は意識しているわけではないだろう。
  散々感じたことだが、彼女は妖怪であると同時に、見た目相応の少女でもあるのだろう。





 ――――――――――





 それから暫くは、本当に取留めのないことを談笑した。

 その会話のなかに、聖杯戦争のことは一切挙がらなかった。
  意図して話題を避けているわけではない。
  聖杯戦争は、文の手によって全て終わった。だからもうこれ以上は、話す必要はなかった。

 文は手帳を片手に旅先であったことを、妙な方向に装飾して話してくる。
  俺はただそれに相づちを打つだけだ。それだけでも、とても心地よい時間だった。

  ……今の話が彼女の新聞にそのまま載ると思うと、現代人として戴けないところもあったが。

 俺たちは聖杯戦争という接点だけで繋がっていたが、それはきっかけでしかない。
  こうして、当たり前のことを当たり前に話すことができる。
 そんなことを彼女と過ごせる残り僅かな時間で、噛み締めるように実感していた。
  平時でもこうして話していたことは何度もあったのに、今はそれがこんなにも惜しくなる。



 「あ、そろそろ面会時間も終わりですね。じゃそろそろ、お願いできますか?」

 射命丸文は、そう笑顔で申し出た。
  最後の令呪を使い、この世界から幻想郷に還る。それをなんでもないことのように話す。

 「……もう、一緒にはいられないのか?」

 「ええ。もう会うことは金輪際ないでしょうね」

 何の希望を持たせることもなく、明確に別離を告げる。

 「そうか……」

 文が別の世界に住む以上、これは必然だ。
  これまでの文を見るに、この世界との繋がりを失うという感傷もないようだった。

  だが俺には文のように、その覚悟ができていなかった。
  意識せずとも、暗く沈んだ声が出てしまう。情けなく無様な話だった。

  だけど、それは仕方がないことだろう。
  10日程度とはいえど、彼女と過ごした時間は熾烈で掛け替えのないものだったから。

  必然だとしても、今生の別れは惜しくなってしまう。

 「君に勧む金屈巵。満酌辞するを須いず。花発けば風雨多く、人生別離足る」

 「…………?」

 キンクツシ? なんだそれ?
 何かの漢詩を訳した一文だろうが、俺にはそこまでの教養はないので何のことだかサッパリだ。

 「人の一生には別ればかりが多いということです。
   旅立とうとする友人に会っている時ぐらいは歓を尽くしましょう。
  まあ、そんなしょぼくれた顔するなってことですね」

 俺の顔に無教養がそのまま出ていたのか、文は少し呆れたように補足してくれた。
 不得意の社会以外、勉強はそこそこできるんだけどな。でも今はそんなことを言っている場合じゃない。

 文はさりげなく、俺のことを友人と言ってくれていた。
  そんなことは今まで思っていなかっただけに、それが溜まらなく嬉しい。

 「そうか。わかった。友達だもんな」

 俺も確かめるように友人であると彼女に宣告してみた。
 確かに別れは寂しいことではあるが、ここは目の前にいる友達の言うとおり笑顔でいよう。

  俺たちはマスターとサーヴァントなんていう下らない主従関係ではない。
  これが最後の別れだとしても、友達と別れるような、平凡なものでいいんだろう。

 「そーです、友人です。ダチです」

 彼女も強調するように繰り返す。
 頬を紅潮させて照れているように見えるのは、俺の気の所為だろうか。

 こういう行為は多少の白々しさを感じなくもない。
  だけど、互いが互いに友人と呼べる関係は代え難いものだ。

  それに文の方から友人だと言ってくれたそのことが何よりも誇らしく思える。


 …………。


 「それと、私という妖怪は貴方の記憶に刻まれたでしょう?」

 平静を取り戻した文が、確認するように告げた。
  だがそんなことは口で確認するまでもないだろう。忘れない。忘れたりはしない。

 「ああ、お前のことを絶対に忘れはしないさ」

 頭のなかで何度となく、彼女との記憶を反芻する。
  射命丸文という少女の鮮烈なイメージは、確かに刻まれていた。

 だがどういうわけか、俺の顔を見て文は困惑してみせる。

 「……あやや? ちょっと、意味合いが違った刻まれ方をしましたね。
   これはとんだ計算違いです。人間の恐怖が、妖怪にとっての信仰なんですけど……」

 恐怖? 信仰?
  発言の節々に物騒な単語が含まれているのはなんでだろうか。

 「……うん。覚えてくれているのなら、及第点としておきましょうかね」

 「えっと、なんのことだ?」

 「いやなに。聖杯戦争で貴方と共に行動していた理由は一つしかありません。
   この世界に恐ろしい妖怪がいた、その証を残すためです」

 一点の曇りもない表情で、衝撃の事実が明かされてしまった。
 どうやら俺は彼女の恐ろしさを記憶するために、一緒にいることを許されていたらしい。

 かなりショッキングだ。

 「……いや、文のこと本気で怖いと思ったこともあるぞ?」

 それ以外のイメージも当然あるが、背筋が凍るほどの恐怖を感じたのもまた事実だった。
  人を人と思わない酷薄に歪む文の顔は、今思い出すだけでも息が止まりそうになる。

 「おー、それは重畳。
   必要以上に恐れられる態度を何度となくした甲斐がありましたね!」

 「って、おい!」

 次から次へと予想だにしないことをカミングアウトしてくれる。
 だけどそんなことを喜色満面で俺に話したら、まるで意味がないんじゃなかろうか。

 「そして、その事実を伝聞してくれると助かります」

 文は居住まいを正して、表情を凛としたものに作りなおす。
  厳粛な空気に戻り、聖杯戦争で成し遂げようとした目的を話し始めた。

 「始めは後ろ向きだった聖杯戦争。
   浮かれてもいましたが、正直厄介ごとに巻き込まれたという気持ちが大半でした」

 考えてみれば、俺は文を巻き込んでしまったのだろう。
  彼女は聖杯なんて、初めから欲していなかった。
  意図しないにしても俺の召喚によって、この世界に喚び出し渦中に引き込んでしまったのだ。

  なのに、俺は自分の都合ばかりを気にして、これまで一度も謝罪していなかった。

 「それは、ごめん」

 「いいえ、いいのです。私はその途中、目的を見つけましたから」

 俺の謝罪を否定するように、ゆっくりと首を振る。

 「かつてこの世界にも、様々な妖怪がいました。
   ですがそれは時代と共に伝承のなかへと消えていき、人々の記憶から忘れ去られてしまった。
  私はそれがどうしようもなく悔しかったのです」

 それは以前、柳洞寺でアサシンと対峙する文から直接聞いたことだ。
  確かにその日から文の態度は変わり、本気で聖杯戦争に望んでいたと思う。

 「だから貴方には、射命丸文という鴉天狗の語り部であって欲しいのです。
  その目で見たこと、その耳で聞いたこと、その肌で感じたこと。
  それをありのままに伝えてもらいたい。
  荒唐無稽の世迷い言にしか聞こえないでしょう。ですが、それでもいい。
  多少なりとも誰かの記憶に残れば、私がこの世界に居た意味があるでしょうから」

 彼女が俺に願うことは、些細な願いだった。
  妖怪の恐ろしさを、現代に生きる人に伝えられればいいという。それだけのもの。

 彼女の持つ強大な力を考えれば、本当にそれは些細なことだろう。

  「……文の力があれば、そんなの幾らでも方法があるんじゃないか?」

 そう発言した直後に、しまったと思った。
  ふいに口に出た思いつきで、ぞっとすることを言ってしまった。

  文は他のサーヴァントを退け、聖杯戦争を勝ち残ったのだ。
  彼女がその気になって実行すれば、大体のことは叶えられるだろう。
  それほどまでに文の力は出鱈目だと言える。
  だったら恐怖を振り撒くなんて方法は、直接的なものが何よりも手っ取り早い。

  だがそんなことは俺が許しはしない。
  目の前で文が妖怪として人々に悪逆の限りを尽くしたら、俺はその場で令呪を使うだろう。

 「それをやってしまえば、ただのマッチポンプじゃないですか。
   聖杯戦争という大義名分があったからこそ、私は妖怪として暴れられたのです。
  言っておきますが、聖杯戦争に関わった人間以外に私は誰にも迷惑を掛けてませんよ」

 だとすると文の望むのは、手段としての目的ということなのだろうか?
  俺にはその違いがはっきりとしないが、それもまた彼女なりの矜持なのかもしれない。

 「ごめん、失言だった」

 「まあ、聖杯戦争に関わった人間には、もれなく全員に恐怖を振りまきましたけどね。
   特に凛には心的外傷になってもおかしくないものを見せましたよ。
  あの時は私の理性の深度もどん底でしたから。ちと過激な演出になってしまいました」

 余程の行為だったのか、さも得意げに胸を反らした。

  文の言うあの時とは、聖杯戦争最後の日に教会で起きたことだろう。
  俺はイリヤから聞いただけで詳しくは知らない。
  だけどその様子を『しっちゃかめっちゃか』と表現したイリヤに残虐嗜好があるのを思い出した。

 ……それを考えると、遠坂にはご愁傷様と心のなかで言っておこう。
  遠坂はそんなことでへこたれる性質じゃないだろうが、それでも夢に出ないことを祈るばかりだった。

 「とまあ話を戻しまして、……このお願い聞いてもらえますか?」

 途端に神妙な空気に戻る。
  それは彼女に取って、重要と言えるほどの懸案なのだと思う。
  当然その程度のことは、こうやって哀願されるまでもない。二つ返事で引き受けるべきだろう。

 「……だったら文は、俺のことを覚えてくれるか?」

 俺の口から紡がれたのは、文の望んでいる言葉ではなかった。
  それは見返りを求めた打算とも言えるが、この程度の我が儘は許してもらいたい。

 思いも寄らない俺の返答に、少女は赤い目を見開いて驚く。

 「おっと。まさかそんなことを言われるとは思いませんでした。
  貴方は見かけによらず、歯の浮く恥ずかしいこといいますよね。
  そんな言葉を重ねられたら、免疫のない女の子ならコロッとやられちゃいますよ」

 「俺も自分でびっくりしている」

 ここのところ、いいようにやられっぱなしだったのだ。
  少し照れくさいが、最後の最後に文を驚かせても罰は当たらないだろう。

 「ですが、どーでしょう。私は雨風を降らす烏天狗。
   自分の理想を実現できないような弱者に興味はありませんからね」

 いつの間にか手に取った葉団扇で含み笑いを隠す。
 どんな形にしても文に挑むのは無謀だと思ってはいたが、あっという間に一蹴されてしまった。
  相変わらず、彼女は手厳しい。

 「……ですから、理想を実現できるよう頑張りなさいな」

 ふいに少女の口から溢れたのは、一切の虚飾がない叱咤激励。

 ……情けないことに、その一言だけで鼻の奥がつんとしてしまった。
  彼女の言葉ひとつひとつを逃さぬよう、丁寧に飲み込む。

 「ああ、任せろ。必ず実現するさ」

 今だからわかることがあった。
 衛宮士郎は、どうしようもなくこの射命丸文という天狗の少女に惹かれていた。

 「さて、もういいですかね。令呪を使ってください」

 文は椅子から立ち上がると、荷物の中から頭襟と高下駄を取り出した。
  それらを手慣れた動作で身につけると、初めて見た時と何ら変わらない少女の姿があった。

 左手に刻まれた最後の令呪。
  それを使えば、文は幻想郷に還ることになる。

 「わかった」

 引き留めたい気持ちは当然ある。
  だけどそれはしちゃいけない気がした。いずれは訪れる別離。
  文がこうして還ることを望む以上、その望みを最大限尊重しなければならない。

 「あ、そうだ。令呪で祈ったらどうですか? 今のお願い」

 「そんなことはしないさ。これはお願いであって、命令なんかじゃないからな」

 流石に文も本気で言っているわけじゃないだろう。
 ニヤニヤとした笑みをあからさまに浮かべているのが、何よりもの証拠だ。

 それに最後の令呪をどう使うかはもう決めてある。

 「じゃあ使うぞ」

 「はい」

 緊張した様子もなく、文はあくまで自然体だった。

  未だにサーヴァントがこの世界に残っていることは、間違いなく異常事態である。
  この令呪を使っても、幻想郷に還れないなどの不測の事態も十分に考えられるだろう。
  そうだとしても、文には何の狼狽も見られない。

  おそらくはこの異常事態を可能とした幻想郷に住む魔女の力を信じているのだ。

 左手の甲に魔力を込めると残る一画が赤い光を灯した。
  令呪を使うのに魔術回路を起動させるまでもない。

  ただ、思いを込め、願うだけ。

 『幻想郷でも、元気に過ごしてくれ』

 俺の願いはただそれだけ。
  これで最後の令呪は解放された。もうどうやっても後戻りはできない。

 この世界に文を繋ぐための楔は外れてしまった。

  これで俺たちの残された時間は、ほんの少し。
 たった一回の瞬きで、彼女は目の前から消えてしまうかもしれない。

 「ぷぷぷ。なんですかそれ。最後に笑わせないでください」

 文に笑われてしまった。
  込み上げる笑いを堪えるように、腹までを押さえている。

  まったく、感傷に浸る時間もない。
  どうやら俺たちに感動的な別れは無理のようだった。

 「……しょうがないだろ。
   もし『頑張れ』とか願ったら、それはもう文の意志じゃなくなるからな。
   だったら、今後の健康を願うのが一番だと思ったんだよ」

 こんなことで令呪を使ったマスターは、聖杯戦争が始まってから俺が初めてだろう。
  けど、それ以上に文に願うことはないのだから仕方がない。

  聖杯戦争も終結し、倒すべき敵はどこを探してもないのだから。

 「ごめんなさい。それなりに考えてたんですね」

 そう謝罪しても肩をわなわなと震わせているのは、あんまりじゃないだろうか。
 そんなことで時間を浪費しているうちに、文の身体がゆっくりと薄くなっていった。

 「ふむ。時間みたいですね。最後に何か言いたいことありますか?」

 そんなのは決まっている。

  「今までありがとう。じゃあな、文」

 感謝の言葉と、別れの言葉。
  端的だが、その二つが言えれば十分だ。派手に飾った台詞はこの場に相応しくない。
  それと『またな』とは、決して言わない。
  そんなありもしない言葉は、自分自身に言い聞かすだけの慰めにしか過ぎない。
  だったらそれは、彼女の心に届かないだろう。

 文の姿は、もうほとんど見えない。
  だけど、こちらを見ているのはなんとなくわかった。

 「ええ、さようなら。士郎くん」


 …………


  室内だというのに、心地よい風が一陣吹いた。

  そう感じた時にはもう、文はいなくなっていた。
  ……幻想郷に還ったのだろうか。


 文もまた、簡潔な別れの言葉を告げただけだった。
  病室には俺一人だけが取り残されてしまったという寂寥感が漂う。

 「『くん』ってなにさ」

 最後に文は君付けで俺の名前を呼んでいた。

  どういう意図があったんだろうか? 何か印象の変化だろうか?
  文のことだから深い意味なんてなくて、悪戯心でそう呼んだだけなのかもしれない。

  ……でも文は遠坂やセイバーのことをある時を境に呼び捨てで呼んでいたな。

  いくら悩んだところで、本当のところはわからない。
  文とはもう二度と会えないのだ。永遠の謎になってしまった。
 こうして頭を悩ます俺を想像して、ほくそ笑んでいるのかもしれない。その姿が容易に想像できる。

  だとしても、そんなに悪い気はしなかった。

 文の残してくれたウサギ型の林檎を手に取り、口に放る。
 そう言えば、こうして剥いてくれたというのに、一つも手に取ってなかった。

 「……悪いことしたな」

  ここのところずっと流動食が多かったので、咀嚼の際に顎がやけに疲れてしまう。
  だけど文の言うとおり、確かに蜜が多く、美味しい林檎だった。

 「…………っ」

  林檎の酸味が口のなかにある傷に染みた。それでも、涙は出なかった。



















































 後書き


 士郎くんと文の距離は、決して重ならない同心円。
 次回最終話。



 2011.8.3


next back